今年、九州を旅し、霧島の高千穂峰のほかに長崎、雲仙のほうにもかなり久しぶりに行ったのですが、雲仙には九州総守護の神社で四面宮というのがあります。➡ 四面宮
伝承では「元寇」のとき、元軍を撃退した風を起こしたのもこの神とのことで、総本社は雲仙温泉神社で、温泉街の中にある小さな神社ですが、活力を感じる場所です。
雲仙を去り、旅の途中で夕暮れの大村湾をぼーっと眺めていると、やがて銀河鉄道の夜のような電車が海辺を走っていきました。
ではまず一曲紹介です。プラネタリウム上映作品「銀河鉄道の夜」より 挿入歌「One night」をオーケストラアレンジした力作動画です。
こちらもおすすめ ➡ KAGAYA作品 星の旅 -世界編- 特別ロングバージョン
四面宮
四面宮の神々は国土守護、災厄除け、疫病退散など司る神々で、四面宮の一社である諫早神社には日本一大きい木像のアマビエが置かれています。
アマビエは江戸後期、肥後国(熊本)で海から現れた妖怪。諫早は熊本と海でつながる地域で、海民文化のネットワークが強い。
諫早神社にはほかにも陶器製の三柱鳥居という珍しい鳥居があり、庭園も立派でなかなか気持ちの良い場所ですね。
「場」との共時性、たとえば長崎や広島の特定の場所に行くと身体が重くなる、こういうことはたまに聞きますが、長崎に久しぶりいったときに、昔と変わらず今でもものすごく「場」の力が強いことがわかりました。全身が反応する感じなんですね。
これは良い意味でも悪い意味でもどちらもです。
私は特定の場に行くと異空間に入ったかのような、世界そのものが変化する感覚になることがありますが、その質は多様で一言では語れません。
エリアーデのヒエロファニーと日本の山岳信仰
宗教学でいえばミルチャ・エリアーデの「聖なるものの顕現(ヒエロファニー)」は、特定の場所が突然“異なる次元”として立ち上がる現象を扱いますが、
これは単に「宗教的に重要とされる場所」という意味ではなく、ある場所、ある物、ある行為、ある時間が、人間に対して“聖なる次元”を示し出す瞬間を指します。
たとえば、石のヒエロファニー = 磐座信仰、山のヒエロファニー = 山岳信仰、というふうに関連付けることもできますが、エリアーデは「山は神の顕現点」として扱うが、日本では「山 = 神そのもの」と考える場合が多い。
エリアーデは普遍理論志向だが、修験道や山岳信仰は土地固有の歴史・伝承・地政学的条件と強く結びつき、普遍枠組みでは扱いにくい。
修験道の本質は身体変容・行法・験力にあり、エリアーデの比較宗教学は身体技法を軽視する傾向があるように思う。 ➡ 兼業山伏たち、深淵を覗く:オープンでボーダレスな現代修験道の世界
アトモスフェアとしての神──ベーメと日本的宗教性
エリアーデ的なヒエロファニーは「はっきりとした顕現」を想定するのに対して、折口信夫の「まれびと」論でいうならば、日本の神はくっきりした人格神ではなく、“来訪する気配”として現れるが 、しかし完全には姿を取らない。
柳田國男が描く祖霊・常民信仰の像を踏まえると、日本の神は人格神というより“場に立ち上がる気配”として理解できる。
また和辻哲郎は日本の宗教性を“間柄としての世界”と捉えた。つまり、神は主体の外側にあるのではなく、主体と場の“あいだ”に立ち上がる。これは私の「場との共時性」の感覚と一致します。
そして折口信夫、柳田國男、和辻哲郎は、いずれもゲルノート・ベーメのアトモスフェア論と本質的に共通する部分があります。
とくに、神はくっきりした個体ではなく、“場の雰囲気”として現れ、主体と世界の“あいだ”で成立し、感受性/無意識がそれに触れるという捉え方において。
つまり日本的宗教性=アトモスフェア的宗教性として理解できるということですね。
そしてティム・インゴルド(ユクスキュルの“環世界”を批判的に継承し、“環世界”を別の方向へ再構築した人物)は、人は環境を“外側から見る”のではなく、環境の中で生成される存在だと述べましたが、日本の宗教性はまさにこれで、神は“外から来る”のではなく、環世界の濃度として感じられるもの。
身体と無意識
「肉体」は主として物質的側面において触れますが、無意識は「場」の「生きた詩そのもの」に触れるのです。これをメルロ=ポンティ風にいえば、「意味が沈黙のうちに働く」「見えないものが交差する」ともいえます。
その感受の仕方や感受したものの表れには個人差があり、それは身体性が生み出す個性ともいえます。
メルロ=ポンティの現象学では、「身体」は世界に“触れる”、しかし世界は“意味の層”として身体に返ってくる。ここでいう「身体」は、物質的側面と意味生成的側面を併せ持つという二重性を備えている。
つまり、「肉体」は物質に触れ、「身体」は一次的な意味に触れ、無意識はそのさらに深い意味の地層に触れると言えるのです。
(ただし、この「肉体/身体」の区別や「無意識」という語は、メルロ=ポンティの厳密な用語法ではなく、彼の身体論を拡張し“場との共時性”を説明するための解釈的枠組みとして用いています。)
メルロ=ポンティの「意味」は、言語的・記号的な意味ではなく、一次的な意味(前言語的)。それは身体が世界と接触して生まれる“生きられた意味”で、言語は二次的な意味。
環境を“外側から見る”のではなく、環世界とともに生成される存在だと捉えるならば、「場」は物質ではなく、歴史、記憶、生活、祈り、物語、地形、気配が絡み合った“生きた網”である。
雲仙と長崎──宗教的多層性の地で起きる共鳴
雲仙は古来より山岳信仰、修験道の霊場で、701年に行基が満明寺を開いた後は「西の高野山」と言われるほど仏教修行が盛んになりますが、
私はこの地に来ると何故か讃美歌が聞きたくなり、そしてグレゴリオ聖歌を流しながら車を運転していると身体が空間に馴染むんです。
上手く言えませんが、「場がそれを聴きたがっている」➡「だから私はそうした」という感じ。私が主体ではない、というこの感覚は、「素材の声に従う制作者」の関係にも似ています。
「私が作ったのではない、素材の声が、そう作れと言うからそう作った」ということ。とはいえ、仮に同じ素材を手にして誰もが全く同じように制作するわけではないのは、無意識の個性(身体性の差異)によるのです。
「場に呼ばれる」という現象の宗教現象学
これは少し見方をかえて考えると面白いかもしれません。
たとえば、行基にかぎらず、「ここに神社を作れ」みたいなお告げがあって神社や寺を作った、という伝承をよく見聞きしますよね。ああいう言い伝えはほんとうにただの物語なのか?といえば全てがそうともいえないのです。
よく「場に呼ばれてそこにいく」みたいな、スピ的な語りがありますが、これは「場との共時性」を現象学的・宗教的に拡張したものともいえます。
主体が場に“呼ばれる”ように感じる現象は生じうるからです。
中井久夫は治療は「場の文化」が主体を変容させる現象と捉えましたが、
生きた詩は「非人間界」を含んでいます。無意識がそれに触れるとそういう「媒介」が生じることがあるのですが、これがどのように生じるかにおいてかなり個人差があるんですね。
またその話が後世に伝えられていく中で多様な解釈が混じって、最終的には「作られた物語」となっていくものが多いのでしょう。
そしてこういう「媒介」は芸術とかシャーマンとか行者にかぎらず、多くの現象において「(無自覚に)起きている」のですが、
「(無自覚に)起きていることに気づきやすい人々」が特定の人々に多い、というだけなのです。「そのひとたちにしか起きない」ということではないのです。
芸術とかシャーマンとか行者にかぎらず、全く別の形で別の現象において、ほんとうは「(無自覚に)起きている」ですが、
まぁ詳細に関しては今回は省略しますが、芸術とかシャーマンとか行者とかが触れているものとか、その手の特定の人々の語りではなく、
「もっと日常に溶け込んでいて、起きているが気づかれていないもの」こそが、良くも悪くもこの世界を動かしている、ともいえます。
長崎の宗教的密度と“場の層”
長崎の宗教的空気が独特なのは、キリスト教、仏教、神道、修験道、原爆慰霊、潜伏キリシタンの記憶、迫害の記憶、海の民の信仰など、これらが全部重なっている都市だから。特にカトリック信者が多いのが特徴的です。
1571年の開港後、長崎は「小ローマ」と呼ばれ、教会堂が建ち並び、住民の多くがキリシタン化。大村・島原・外海・五島・天草と連動し、西九州全体がキリシタン圏に。つまり、日本で最もキリシタン人口が多かった地域が長崎。
ファスト風景と生きた詩の宿る場の力
ファスト風景ばかりを見ていれば福岡も長崎も他県も似たように感じるかもしれない現代日本ですが、「場」とそれへの感応次第ではどの場もまるで別の世界なのです。
「場が主体を包み込む密度」が高いとき、「場の層」が「無意識」の深い部分(個人を超えた層)と触れた瞬間に共時性として立ち上がるのです。
ここでいう共時性は、ユング的な「意味のある偶然」ではなく、“場と主体が同時に立ち上がる瞬間”。
とはいえ生きた詩はファスト風景にすら宿っていますが、ファスト風景は表層的には均質で無個性でも、その背後には必ず、 かつての地形、かつての集落、かつての祈り、かつての生活、かつての死者、かつての土地の記憶が沈殿している。
深層の無意識は、その“沈殿した層”に触れることができる。だから、ファスト風景の裏側にある“生きた詩”を拾える人は極めて少ない。それはさらに「霊感」に近い微妙な作用の感受の話になるので、今回は丸っと省略しますね(笑)
