今日は先日までとは対照的に、物理的身体と精神の誕生と進化の根源にあるものを、生物学、分子生物学的に考察したTEDの動画を紹介します。
ボニー・バスラー:「細菌はどうやってコミュニケーションするのか」
ボニー・バスラーは、細菌が化学物質の言葉を用いてお互いにお喋りし、防御と攻撃発動をコーディネイトしていることを発見しました。この発見は医療や産業、そして我々自身への理解に関する驚くべき影響を及ぼします。
● マーチン・ハンジク: 生命と非生命の境界線
マーチン・ハンジクの研究室ではプロトセルという化学物質の塊を作り、生命のような挙動を観察しています。この研究は、生命が地球上で誕生したときの姿に関わり、また他の星で誕生するときの姿も示唆するものです。
「精神」というものが人間において誕生し進化・発展してきたのは、「言葉」との関係性が最も根源的なものの一つでしょう。
しかし、それ以前に存在した原初的な意識・感性なくして、「言葉」は生まれなかったわけだから、言葉だけが最も根源的なものとは言えませんが、
言葉がなければ、人は「精神」というものを進化・発展させることは出来なかったとは言えるので、その意味で、「言葉」の誕生が精神誕生の「最も根源的」なものと表現しているのですね。
● マーク・パーゲル「言語能力が人類に与えた影響」
生物学者マーク・パーゲルは「どうして人間は言語という複雑なシステムを発展させたのか」という問に対して面白い学説を紹介します。言語は一種の「社会的技術」であり、そのおかげで原始人たちが「協力」という新しい強力な道具を手に入れることができたと彼は主張します。
「精神としての神」と「生命原理としての神性」の違い
一般に「神」と呼ばれるものには、「精神」によって生み出されたものと、原初的な意識・感性によって体感されるものと、大きく分けてこの二つがあると思います。
後者の場合、神の姿は全く無形で捉えることは出来ませんし、霊とか自然法則とか、他の言葉で呼ばれることもあります。
「神が人間を創造したのではなくて、人間の精神が神を創造した」という場合の「神」は、近代合理主義の発展に伴い無用の長物とされました。
ですが、それ以前の西洋では「人間の創造物である神が人間及び世界を創造した」と、何とも矛盾した事が信じられていました。
ところが「人間 = 精神 」というふうに人間を条件づけるなら、それはそうだとも言えるのです。この矛盾は矛盾したまま成立するのです。
ニーチェの「神は死んだ」という象徴的な言葉にもありますが、精神の創作物としての神は死んだのです。それは「理性の目覚め」によって死んだのです。
精神の神は「人間の精神が創造したもの」であり、同時に人の精神そのものとも言える集合的な無意識・元型の現れなのですね。
だから「人間 = 精神 」というふうに人間を条件づけるなら、確かにその「神の元型」が、「人間及び精神が認識し定義する世界」を作ったとも言えるのです。
「精神」というのは「内的な主観の領域」ですが、それが人間存在だとも言えるからです。
ですがその集合的な無意識の現れが理性によって「意識化」された時、神はもう神ではなくなったのです。当時は「魂」と同義だった「精神」は、ただの精神としてその高みから引きずり降ろされたのです。
ユングは『魂と生命』という著作の中で、以下のように述べています。
「魂」という言葉は、古代から中世にかけて、人間の生命や精神や意識を表す言葉として使われてきました。しかし、近代になると、「魂」は「精神」や「意識」と区別されるようになりました。
「精神」や「意識」は、合理的で明晰で客観的なものとして理解されるようになりましたが、「魂」は、非合理的で曖昧で主観的なものとして軽視されるようになりました。
ユングは、このような「魂」の低下を批判し、人間の存在において「魂」が果たす重要な役割を再評価しようとしました。
ユングによれば、「魂」は、「無意識」と呼ばれる人間の心の深層にあるものであり、人間の感情や直観や創造力や想像力を司るものです。また、「魂」は、「自己」と呼ばれる人間の心の中心にあるものであり、人間の個性や自己実現を目指すものです。
ユングは、「魂」を無視することは、人間の心の豊かさや可能性を失うことだと考えました。彼は、「魂」を科学的に分析するだけでなく、「魂」に対話することや「魂」に敬意を払うことや「魂」に従うことを提唱しました。
参考 ➡ ユングにおける霊と魂と信仰の関係
ユングで言うところの元型・観念は、「創作物としての神」を生み出した原因である元のシンボルであり、それは原初の人間精神に内在化されていた、無意識のイメージのことなんですね。
その意味では神 = 精神であると言えます。だから私は安易な神の否定は自己欺瞞になるとも感じるのですね。
創作物と言えど、それは私たちの集合的な精神のシンボルそのものから生まれたものなのですから、それを精神から切り離すというのは、
自我の保護作用と安定の役目や、集団の一体感を生む役目なども果していた共有シンボルを失ってしまうことでもあるため、諸刃の剣ともなるからです。
ですので伝統宗教の役目は、科学がどれだけ発展しようとも終わってはいけないと私は思うのです。
そして精神の創作物としての神ではなくて、原初的な意識・感性によって体感される神は生・存在そのものであるので、死ぬことはありません。
それは神のシンボルを持たず形に表すことは出来ず定義も出来ない、「ただその神性の働きだけが森羅万象に認められる」という見えない何かです。
ですがこの原初的な意識・感性自体が弱体化することによって、その存在を感じ取る力が死ぬことはあるでしょう。
よって精神の神の伝統を維持する場合は、その「形・物語」を維持すればよいのですが、「森羅万象・存在するもの・生きとし生けるもの全て」に宿る神性は、
守る守らないに関係なくそれ自体でずっと生きているものなので、そのことを感じ取る感性の維持だけが必要になってきます。それはより難しいのかもしれませんね。
その感性が生きていることが大切で、それが心に生きているならば、生きていること・生かされていることへの恩恵に対して自然に感謝の気持が現れてくることでしょう。
何故なら驚くほどの無量の働きによって、生命は生かされていることをその時ハッキリと知覚するからです。
これを観念的に行ってもあまり意味はありません。(しないよりはいい程度です。) それを感性でハッキリと感じ、自然に湧きあがってくることが大切なんですね。
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