清涼な高原の風と花 妖精の住む場所と癒しの歌

 

癒しの休憩タイムです。 本当に暑い日が続きますね。今日は見てるだけで涼むような清涼な風の吹く白馬岳の高原の雲と、車山高原の空と風と花の映像と、癒しの歌声の持ち主 Salyu(サリュー)の「Lighthouse」を紹介です。

白馬岳に登ったことはありませんが、飛騨山脈(北アルプス)及びその周辺はとても好きな場所のひとつなので、この近くには何度も旅で訪れています。

 

そして以前の記事でも書きましたが、私は過去に妖精・精霊の存在をハッキリと感じていた時期がありました。それが何なのかを私なりに追及してきましたが、ひとつは脳の作用、そしてもう一つは感性の作用で、この二つが合わさって妖精・精霊という主観的な実体を人は見るんですね。

自然に対する理解として、妖精は自然物の精霊として擬人化され、自然現象の原因や意味を説明する役割を果たしてきました。

例えば、きのこの「妖精の輪」は妖精が踊った跡とされ、旅人を惑わすウィルオウィスプは妖精の灯火とされました。妖精は自然の美しさや神秘さを感じさせる存在でもあります。

文化に対する理解としては、妖精は異なる国や地域や民族の文化において、異なる名前や姿で表現されています。

妖精は被征服先住民の記憶や神々の零落した姿や死者の霊魂への信仰などに基づく観念といわれており、妖精伝承は人々の心理や文化や歴史に関する知識を与えてくれます。

例えば、ケルト神話の妖精は冷たい鉄が苦手であると信じられており、これはケルト族が石器時代の先住民を征服した歴史的事実を反映していると考えられます。

歴史に対する理解としては、妖精は時代によってそのイメージが変化してきました。中世までは邪悪な存在として恐れられたり、悪魔や魔女と同類視されたりしました。

しかし、シェークスピアが『真夏の夜の夢』で描いた小人の妖精は、伝統的な妖精観を変えてしまいました。近世以後は童話や漫画などで美化されてきました。

第二次世界大戦中にはグレムリンという新参の妖精が飛行機事故の原因とされました。妖精は時代の空気や人々の心情を反映する存在でもあります。

私自身は様々な神秘的な現象を経験しつつ、同時に科学的に心理学的に分析しつつ、それらの現象の構造を私なりに理解はしていますが、

その主観的な感性・感覚というものは、単に霊感という極端なものだけでなくて、「詩的なもの・芸術的なもの」でもあるので、それを失いたくはないと思います。

私はそれが心・精神にもたらす病的な要素や危険性があるものだけを否定しているのであって、感性が捉えた不思議な世界を全て否定しているのではありません。

次に紹介の車山高原は確かに妖精が住んでいる場所です。こに泊まった夜、妖精は確かに私のバンガローにやって来たのです。

これは私の主観的な経験に過ぎませんが、問題は妖精がいるかいないかではなくて、「妖精というものを主観的に生じさせるようなエネルギーが、その場所には満ちている」ということに不思議な要素が存在するのです。そしてこの感性に古来の日本人のアニミズムの原点があると感じるからです。

 

「妖精は脳の幻覚である」という科学的結論が重要なのではなくて、妖精が何故その場所で何度も感じられるのか?ということに私は興味があるのです。

そこには形象化出来ない表現の難しい精妙なエネルギーが、確かに感じられるからなんですね。感性は確かに何かを捉えているんですね、

それが変性意識や脳の記憶の投影作用と合わさって、「主観的な妖精」を脳内に生むとしても、その感性自体は詩的なものであり、何かをキャッチしているのです。

つまり妖精を生むエネルギーそれ自体に注意を向けると、そこには「森羅万象の万物に神が宿る」と感じていた古来の日本人の感性が体感していたはずの、「形象化出来ない表現の難しい何か」を発見するのです。

そしてそのエネルギー自体との感応は、脳の記憶の投影作用とは無関係なものなのですね。

それでは最後に、妖精的な詩的な雰囲気を持った、私の好きなアーティストのひとりであるSalyu のLighthouse」を紹介しますね。本当にいい声、いい曲です♪

 

 

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