難しい専門用語や学術概念の多い記事はもう一回お休みし、今日は二つの動画の紹介と、「瞑想」「病的な精神世界・オカルト」を含むテーマで「共感覚」の多層性とHSPについて書いています。
まず最初に「5歳の自閉症の少女」が描く絵の動画を紹介しますが、この少女の絵の美しさ、その美の生命力は本当に素晴らしいですね。私は少女の絵に生き生きした「共感覚」を感じます。
「共感覚」の多層性
共感覚って何?という方のために、共感覚についてわかりやすくまとめてある以下の外部サイト、参考PDFを紹介しておきますね。
参考PDF 共感覚は共有できるか? – 東京大学学術機関リポジトリ
霊的な現象は、幻覚、錯覚そして「ある種の共感覚」で生じます。霊的現象はシミュラクラ現象、磁気閃光現象のような浅い錯覚のレベルもあれば、
統合失調症、てんかん、認知症、ドラッグなどで生じる幻覚もあります。他にアルコール依存症、PTSD、解離でも幻覚が生じることがあります。
「オーラ」は在るといえば在る、ないといえばない、そういうものです。「霊体」は在るといえば在る、ないといえばない、そういうものです。
え? オーラ?霊体? こんなスピ用語自体、理系タイプであればイライラモードになって、
「物理学の3原色理論を無視している!」とか「それを構成している素粒子は何だ!」とか生真面目に批判するのでしょうけど、
物理的に外的に発光現象が生じてるんじゃなくて、オーラはある種の変性意識状態だったり、共感覚の一種で、「見ている側の意識に生じている光や色の感覚」なんですね。
ただ、「そのように感じる」を「そう見えている」と言い切る(多くの)スピさんの場合は、共感覚ではなく、主観的なイメージを信じている、「思い込み」に過ぎません。
「思い込み」にも心理効果はあり、それ自体は否定しませんが、変性意識状態や共感覚においては「私はこう感じる」という「根拠なき信念」でそう思い込むのではなく、実際に「色」がハッキリと見えます。
なので、スピには(数は少ないですが)「ほんとうに見えている人」がいます。
物理的に外的な発光現象として現れるひとだまは「プラズマ」でよいとして、「霊体」は変性意識状態で無意識と感応した時に生じる共感覚」の一種とも表現できるものです。(通常の共感覚とは少し違いますが。)
そして先にも書きましたが、幻視・幻聴・実体的意識性というものは共感覚以外にも生じます。そのあたりの多様性に関しては以下の過去記事を参考にどうぞ。
〇 疑似科学・迷信・オカルト的思い込みの心理学 「脳と変性意識と集合意識」
そして「変性意識によって生じる共感覚」はある種の「認知的脱抑制」も状態であるため、通常は上がってこない様々な無意識の情報が知覚されますが、
変性意識にも質の多層性があるために一律ではありません。それは通常の現実の五感では感受できない、あるいは「無意識は感受していても顕在意識には上がってこない」ものです。
理系脳は『五感では「感受」できない』というとこだけを見て、『断じて「甘受」できない!』と怒るわけです。←ダジャレ(>_<)
これは霊能者やオカルト概念を全て肯定しているわけではありません。思い込みの激しい人が勘違いしたり混乱するのを避けるためにこれ以上詳しくは書きません。
後、「絶対音感」は世間ではごっちゃに扱われていたり大げさに言われていたりすることもありますが、特に珍しいことではありません。
子供期は程度の差こそあれ誰でも共感覚・絶対音感的な感覚を持っており、また芸術系・感性系の方は大人の方でも よく発達しています。
ですが理系脳・精神医学系や心理学系の学者・専門家にはそういう人は非常に少ないので、思考の柔らかい人でも理論・理屈でしかわからないことでしょう。
学者が「スピ」のフィールドワークをしたつもりになっていても、「思い込みの力」と、「変性意識で実際に見えてくること」はまるで異なるのです。
そして行動主義心理学的な情報データ分析では全く見えない「無意識」の情報を感受するため、不思議な様々な感覚を得る・発見することがよくあるのですが、
私がスピを否定し肯定もする理由は、彼らの一部にはそういう感性が発達している者達が確かに一定数存在し、それ自体が問題なのではなくて、
「感受したもの」が無意識に「オカルト情報・観念」との関連付けと同化によって変質化し、「生粋な感性・情報の質」を失っている状態であることが 多いからなのですね。
そういう情報に執着したり囚われたり、オカルト知識をため込んだりすることで「特殊化したスキーマ」が強化され、条件付けらた「観察者バイアス」が強化された「眼差し」となるために、
皮肉なことに「そういうものを知らない、囚われていない人々」よりもむしろ「純粋にそれそのものを捉えることが出来なくなるパラドックス」に自らハマり、
その結果、閉鎖的な自己完結状態になるわけです。
その部分を否定しているのであって、その感覚や感性そのものを否定しているのではありません。
多くの共感覚者がそうであるように、私はそれを感じていてもその内容自体はまず語りませんし、ブログでも具体的には書くつもりもありませんが、
まぁそういう話しは理解できる人だけが理解できていればいいんじゃないかと、そう思っています。
ですが人生や生命に対する意味や奥行は「理性と感性が協力して働く時」に最も多元的な深みと広がりを持ちます。
「目に見えない領域」「非現実的な領域」それは決して全てが無意味ではなく、豊かさを内在しており、「在り方次第」で良いものになり逆に悪くもなる、そういうものなんですね。
ではラストにジョージ・カーリン氏の名言動画を紹介し、記事の終わりとします。
放送禁止用語を多用して、政治や社会を痛烈に批判する笑いで人気を博したアメリカのコ
メディアン、ジョージ・カーリン氏。 最愛の奥さんを亡くした際に、彼がボブ・ムーアヘッド牧師の説教を引用して友人に送っ
たとされるメールがあります。人生において本当に大切なものは何かを、気付かせてくれる言葉
になっています。