禅・瞑想の精神・肉体への効果・影響の心理学的な分析の前に 

 

禅・瞑想の精神・肉体への効果・影響を心理学的に分析・考察するとどうなるか?それが今回からしばらく書き続ける予定のテーマです。

このテーマを数回に分けて書いていきますが、今日はこのテーマに入る前に「宗教的な概念を含んでいるもの」との関わ方での注意点を私なりにまとめてみました。

 

初めに断っておきますが私は現在いかなる宗教及び精神世界的な組織にも所属してはいませんし、個人としてもニューエイジ文化やスピリチュアル的な世界観の盲信者ではありませんが、

仏教を始めとする世界宗教、密教・ヨガ・神道・道教・仙道・気功、風水、そして原住民などに見られるシャーマニズムや、様々なヒーリング系のジャンル、占いや超常現象、他のスピリチュアル系、ニューエイジ文化の検証・分析などを積極的に行ってきました。

「単なる印象」や「好き嫌い的な感覚」だけで記事を書いてはいませんし、全否定も全肯定もしていません。この分野を一通り網羅した検証作業をして、

その上で、何が何に役に立ち、そして何が役に立たないのか、そして何が余計に悪影響になるかという、心理学的、科学的な見解及び実体験的な確認作業等を行った上で書いているわけです。

そこからハッキリした 3つの原則 を以下に書いておきますね。

原則1健康や元気回復や才能開花のためであれば、 特定の宗教的組織に入る必要もなく教義に従う必要もなく、 精神世界的な観念などにとらわる必要も全くない

原則2瞑想のさらなる進歩や霊性の向上を目指す目的であっても、 古くからある伝統的なシンプルな技法で充分OK。そして適切な指導できる心身のバランスの良い先生が必要。

新興宗教的組織などに入る必要はなく、排他的な教義や絶対者的な教祖に従う必要もなく、スピリチュアルの有名人やニューエイジ的な観念も必要ない。スピリチュアルでのカリスマ願望や自己主張が強い人物などの主張に従う必やとらわれる必要は全くない。

精神の向上にアセンションなどの妄想概霊的な余計な知識は全く不要。余計なものを足せば足すほど複雑化しらに おかしくなるだけ。

原則3効果や進歩は穏やかなものなので、セッカチで短期的な達成を求てはならない。長期的に毎日少しずつ取り組んでいくことでジワジワと効果がでてくるものが多く焦りは禁物。

※日常や現実をいたずらに否定することなく、シンプルな技法を生活に少取り入れて長期的に活用していくだけでも充分に効果はあります。

 

 

何故一部の若者は新興宗教を必要とするのか?

本来、心身がバランス良くキープ出来ていて、自己実現が出来ていて、身で考え自身で創造的に生きていて己をシッカリ導ける人が、新興宗教組織に入ったり絶対者に従う意味などどこにあるでしょうか?

人がそういうものに入る時というのはその逆の事が起きている時です。

心身がバランス異常を起こしており、自己実現が出来ていない、そして自身で創造的に生きていくことが出来ず、己で己をシッカリ導けない、心にぽっかり穴が開いた状態、弱っている状態の時に身近に支えになるものが見出せず、

また同時にうつや統合失調症の初期状態、パーソナリティ障害などに陥っている場合など「精神状態が悪い時」にタイミング悪く勧誘され流されて入ってしまうことが多いのです。

そういう心身が弱っている時や乱れている時はそもそも自身の姿や対象の姿を見誤りやすい状態であるのだから、変化を求めて大きな決断や判断を下すべきではないのですが、

その決断や判断の元がブレている、あるいはその感受力が過剰に弱まったり強まったりしている状態だからそうなってしまうわけで、仕方がないとも言えるのかもしれません。

そしてこういう心身がバランス異常の状況にある人が「そのバランスを取り戻そうと何とかしようとする事」は生き物として自然なことなのであり、それ自体は全く責めるようなことではありません。 だからもっと健全な精神的な受け皿が必要です。

そういうスペースや理解力の幅が社会にない、あるいは非常に少ないから、若い人や心身のバランス異常を起こした人々が間違って過激な新興宗教に入って、

その閉鎖的で排他的な意識の影響や観念の植え付けによってさらにバランスが狂い、やがて完全に自己を見失って絶対者に従うような状態になるのです。

宗教や宗教心は悪か?

宗教や宗教心・信仰そのものが悪いわけではなく殆どが「純粋にそれそのもの」でなくて、「それ以外の目的や野心」が中心となって活動していることと、それに巻き込まれる形での宗教的実践になっているから問題なのです。それは必ずある種の自己肥大・自己欺瞞に向かいます。

ですが純粋にその技法やエッセンスだけを抜き出してそれだけを行うならば、古人の素晴らしい知恵が沢山込められていることに気づき、それを上手く日常に取り入れるなら、むしろ役に立つものばかりです。

そもそも若者達が心身がバランス異常や破滅的な行動を起こす原因は、の社会の在り方や教育や家庭環境にも多くの原因があります。

そして本来、ある問題を解決するというのは「その元が何か」を知ることが必要ですが、社会や大人が率先してそうすることはありません。

「その元であるもの」が「表面に現れた結果」を「これが元である」として叩く、という本末転倒な姿はもはや日常の一部なんですね。

これは別に過激な新興宗教的組織だけにかぎらず、社会の他の問題でもやはり同じ姿なんですね。 だから同じ問題が姿形を変えながら起き続けているのです。

しかも大元をそのままにして表面を叩けばたたくほど、もっと内部のバランス異常は深刻化し、そして限界値になった時、次々と異常な現象が噴き出してくるわけです。

このパラドックスはとてもシンプルですが、いつになったら社会はそれに気づくのでしょうか? 私はよく思うんですが、社会はそれに気づきたくないんでしょうね、きっと。

そこに目を向けて本質的に変えるとなると、大変なエネルギーと理解力が必要ですし、中には「そこに目を向けられると困る人々」も一定数いるのでしょう。

だからそれよりは誤魔化しながらやり過ごし、表面に出てきたものだけを諸悪の根源っていうことにしとけば彼等にとってはずっと楽な事なんでしょう。

表面に出てきたものだけを自業自得の悪として片づけるのならば、それは社会自体の自業自得ってことにもなるのですね。だって原因の元となるものには目をつぶり、原因から発生した結果だけを叩いているのだから。

一般人はどのように宗教的な精神文化と関わればよいのか?

私個人の関わり方としては、これらの精神文化の良い面を抜きとって日常に取り入れてまました。それはヨガや気功など様々ですが、どれも検証の結果、確かに効果があるものや、込められた知恵の深さを確認出来たものを取り入れています。

そして、その中にある宗教的要素「個人及び組織的な拡大欲求・闘争の原理」などの不要な部分をまずスッポリと抜きとって役に立つ原理のみを使っています。

我が宗教・我が精神性・我こそ唯一絶対という「強迫観念的な肯定」は、彼等の敵対者や賛同しない者への「強迫観念的な否定」となり、正と負過剰な排他性を生みだします。

別にカルトや精神世界だけでなく、我こそ絶対正義という感じの人や集団において、この現象がアチコチで確認できます。そのような人々は現実がどうこうとか言う以前に「自身の姿」が全く見えていません。

正と負の過剰な分離と排他性を生み出すような見つめ方ではなく、物事を偏りなく立体的に見いこうという問いかけです。

そして宗教・スピの場合、「自分が他者と違ってとんでもなく偉い霊的ステージの段階にいる」、あるいは「優れた特殊な存在だ」と思って自他を激しく区分けし傲慢化してい、人は自己肥大化に向かうのです。

そしてこれは別にカルトや精神世界や宗教にかぎった話だけでなく、この自己肥大の現象はアチコチで確認できます。

誰かを神人扱いしなくても、役に立つ古人の知恵をみんなが自由に使ってそれがそれぞれに役に立っていれば、それだけでいいんですよね、本来は。

余計なものとしては他に教義上の善悪観念の絶対性を過剰に強調することです。これによって過剰な攻撃性と過剰な称賛そして過剰な開放と過剰な抑圧を同時に意識内に生成してしまうわけです。これも余計ですね。

その他に、

 組織・教義に敵対したり従わない者への恐怖や不安を植え付ける

 組織の維持や発展のエゴ・都合のための方便として平気で嘘をつきまくる

 絶対者への服従と組織の階層構造に見られる支配欲と権力欲

 

こういうものも有害なだけで全く必要ありませんのでバッサリと抜きとって、シンプルな古人の知恵のエッセンスだけを役立ててみて下さい。

あなたには何の危険も余計な意識を生じさせたり妄想的な観念に束縛されることもなく、本来の効用と作用を感じることが出来るでしょう。

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