唯一性と相対性  最も個別的なリアルとの出逢い

 

今回はまずロシアのウクライナ侵攻に関すること、そして「コロナ禍(感染症)がもたらす人類の意識の変化」を書き、後半で「「唯一性と相対性」「最も個別的なリアルとの出逢い」をテーマに書いています。

 

ロシアのウクライナ侵攻で、「イマジン」を歌う人たちがいつものように発生し、一部で顰蹙をかっているようです。

まぁウクライナ侵攻でイマジンって、「想像してごらん、国境なんてないんだ」がもういきなりズレている感じでしょう。ウクライナとロシアは別の国で、国境があり、それを無視しているのはロシアで、ウクライナは国を守るために戦っているのだから。

イマジンは「区別や所有のない誰のものでもない世界」を理想とする歌です。しかし国、土地、故郷、文化、親兄弟、妻子、親しい仲間、そこにはみな「境界」「区別」が存在します。

 

「人が生み出した「想像の共同体」国民国家の本質」 より引用抜粋

国家の本質とは何か
「国家」といえば、エンゲルスの名作『家族・私有財産・国家の起源』を思い出す人がいるかもしれません。よく国家の3要素として、領土、(そこに住む)人民、(領土と人民に対する)統治権・主権が挙げられますが、国家の本質は、警察や軍などの暴力手段を合法的に独占していることに尽きると思います。

誰かがケンカをして殺されたとします。するとその一族は仇討ちを考えます。赤穂浪士の世界です。放置しておくと仇討ちの連鎖が止まらなくなります。そこで個人の自力救済を禁じて国家が暴力を独占して裁くというわけです。
(中略)
国家の統治権は人民に対して生殺与奪の権利を持つわけですから、恣意的に権力を振るわれたら人民はたまったものではありません。そこで法律をつくり、三権分立(立法権、行政権、司法権を各々独立させる)を図るなどして国家権力の乱用を防いできたのが人間の歴史なのです。

ところで、現在の国家は国民国家(ネーション・ステート)です。これは、単純化して述べると、フランス革命によって新しく成立した概念で、国家内部の人民をひとつのまとまった構成員として統合しようとするものです。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 人が生み出した「想像の共同体」国民国家の本質

 

イマジンを歌いながら「ウクライナの平和を願う」という矛盾、『 想像してごらん「ウクライナ」という国家はないんだよ、難しいことではないさ、そのために戦うことも死ぬこともないさ』ということです。

平和な国の人にこう歌われたら、タワマンに住み高級車に乗る人から「平等に貧しくなりましょう」と言われるのと同じく、ムカッとする気持ちはわからなくもないです。

アニメ曲ですが「進撃の巨人 The Final Season」のテーマ曲の方がイマジンよりはタイムリーな感じがします。ということで私のお気に入りのテーマ曲「The Rumbling」の紹介。

戦いの曲としては、『るろうに剣心 最終章 The Final』の主題歌、ONE OK ROCK「Renegades」よりも個人的にはこっちが好きです。旋律も歌詞も♪

 

SiM – The Rumbling

 

進撃の巨人って男性的な世界観だなぁと感じます。エレンの思考の型も非常にわかりやすいなぁと思うんですが、登場人物の中で特に好きなのはアニ・レオンハートハンジ・ゾエですね。

まぁウクライナと進撃の巨人とは全く関係ないですが、男女を問わず、今ウクライナで戦っている全ての人々を応援します。

進撃の巨人 Season3 の「Apple Seed」も旋律・歌詞共にいい感じです♪

Apple Seed 和訳【進撃の巨人】

 

アインシュタインは「弱い人は復讐する。強い人は許す。賢い人は無視する。」と語りましたが、この言葉って多元的な解釈が出来て奥が深いなぁとよく思うのですが、

プーチンは相手を許さないし、復讐心も物凄くて「核」を仄めかすほど過剰。まぁプーチンに働いている力学はもっと複雑でしょうが、アインシュタインの言葉でいうところの「弱い人」というのは「徳のなさ」のことでもあります。

戦い方にも徳の差が現れます。「どんな汚い手を使っても勝てばいい」を多くの人々が嫌悪するのは、基本的な徳があるからそう感じるのであって、徳のない人はそう感じません。

前回書いた「IQは高いが徳がない人」、こういうタイプが独裁者になる時、悲劇は起こります。まぁこの手の人はカルト教祖にも多いタイプです。(スケールは小さいですが)

徳は理性やIQとは違います。プーチンは「知能(IQ)」はかなり高いでしょうし、冷血な理性的な判断が出来る人でもあるでしょう。むしろ「理性の狂気」が肥大した結果なんですね。

「理知的な無敵の人」というわけです。「無敵の人」というのは昔だったら一部の人に用いられる言葉でしたが、最近はインテリを含めた「知能の高い無敵の人」も広く可視化されてきました。

アメリカでは無敵化した人が銃を乱射して多くの人命が奪われたりする事件は度々ありますが、まさに今、「無敵化した人が核を持っている」というとんでもない状態です。

 

ico05-005 狂気は唯一人の夢であるが、理性は、明らかに万人の狂気なのだ。(アンドレ・シュアレス)

まぁ「悪の凡庸さ」とはいっても、現実には独裁者やカルト教祖や無敵の人レベルになる個人というのはやはり少ないわけです。そして背景にある複合的な力学も全く同じというわけではないので、普遍性の文脈だけでなく、文脈を分けて個別に考察することも大事ですね。

 

 

追加更新で、以下に動画紹介(リンク先にて)。ロシアの軍事・安全保障政策を専門とする小泉悠 氏の日本記者クラブでの講演で、プーチンの狙いや現状と今後ありうるシナリオなどについて詳しく分析しています。一時間以上ある長い動画ですがとても参考になります。

⇒ 「ウクライナ」(2) 小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター専任講師 2022.3.9

 

 

戦争というより、一方的に侵略してきた超巨大な暴力団からの攻撃を防衛してるだけ。状況は非常にまずい、ヤバいのは間違いなく、狂人が核を持っていて「俺の言うことを聞け、さもなくば打つぞ!」と迫ってくる。

窮鼠でも猫を噛みますが、「追い詰められた狂人(しかも国のトップ)」は一体何をするか?それは常識を遥かに超えたことをしてくる可能性はありますが、徳はなくても「ただの気狂い」とも違う計算高さは相当あるので、

思い通りにいかなければ嘘ばかりついて卑怯な手の限りを尽くして切り抜けようとするでしょう。なのでこの先も気は抜けません。とはいえ、あまり張りつめていても疲れますので、「核を持った狂人」の動きを観察しつつも、日々をいつも通りに生きるのみです。

 

 

 

感染症と防衛機制

プーチンはコロナ以前の問題なので置いといて、「感染症」と「防衛機制」には関係があるだろうと私は考えています。ある種の「退行」が生じ、原始的領域の活性化による攻撃性の高まり、それが人によっては深刻な次元で生じたりもする、

たとえばペスト大流行の時、「中世の魔女狩り」が激化し、人々は「よかれと思って狂気に走った」、

この「集団ヒステリーの傾向性」って何だか今と似ていますよね、最近の「よかれと思って」「己が正しさ」で人を過剰に裁き、家族に電凸したり、辞職に追い込んだり、しかし運動している側は、その過剰さにも気づかない、というところも。

何か根本的に麻痺している状態でしょう。

 

 

「よかれと思って」でエスカレートする正義の運動、キャンセルカルチャーの先鋭化、そして放火したり強奪したり、「悪認定」した相手の人生を再起不能にまで追い込んで何も感じない、

ちょっと批判をされたり辛口な意見を言われただけで、何やら大層な理屈をつけて集団で抑え込み、裁判等で社会的に追い込む。そういう狂気性は特に珍しいものではなく、「人類に元々備わった要素」が過剰化しているだけ、ともいえます。

 

「感染症と戦争の文明史――ヒトは何と、どのように戦ってきたか」 より引用抜粋

1348〜1350年のペスト大流行は、当時のヨーロッパ人口の三分の二にあたる2000万人以上を死に至らしめたといわれ、世界史で最も有名なパンデミックの一つだ。

 ただし、この死者数にはペストによる病死や食糧不足による餓死だけでなく、集団ヒステリーに陥った群衆による殺人も含まれるとみられる。

 “Black Death” にはこんな台詞がある。「北の村じゃ一晩に128人の魔女が焼かれたそうだ。女どもはみんなその前に、ヤツらに殺されてたんだ。そいつらを焼き殺すまで、男たちはブタと寝てたってわけさ」

 実際、悪名高い中世の魔女狩りはペストが蔓延した14世紀に激しさを増し、やがて魔女裁判も制度化された。ペストでパニックになった人々が、よかれと思って狂気に走ったことは、ヨーロッパに地獄絵を展開させる一因になったのだ。

引用元⇒ 感染症と戦争の文明史――ヒトは何と、どのように戦ってきたか

 

 

喜怒哀楽の感情にせよ理性にせよ何にせよ、人間が有している様々な要素は、それ自体が良い悪いのではなく必要だから存在するのです。「よかれと思って何かする」が根本からおかしいことではないように。「冷血」と「冷静」が異なるように、良い悪いは複合的なバランスで変化します。

「異常と正常の境界」には様々なモノサシ、概念体系がありますが、異常心理学の概念でいえば、適応的基準、価値的基準、統計的基準、病理的基準の4つがあり、これは基準とはいっても絶対的というより相対的なものです。

内外の複合的なバランスで判断されるものなんですね。

「狂気性」には型の差、程度の差があり、どの概念体系を基準に観るかによってもその定義は変化します。なので「悪」や「狂気」という概念は一つでも、その内容(質)は多元的なものでしょう。

 

コロナ禍において「空気」に飲まれず「冷静かつ穏やかで極端にならずにいられる人」も沢山います。そしてこの時期に攻撃性やネガティブな面が過剰にならない人達の中に、逆に「洞察を深めたり創造性を高める人たち」が現れることもあります。

感染症はマクロなゆらぎを生み、大きな範囲で変化を生じさせます。それがネガティブな形式で表出するか、もっとポジティブで創造的なものとして現れるかは、その人次第といえそうです。

以下、前の引用記事のつづきです。

 

歴史をふり返ると、感染症のパンデミックは少なからず人間のネガティブな面を露わにしてきたといえる。ただし、その一方で、人間は時に感染症を、よりよい世の中を目指すステップにもしてきた。

 ペストに襲われ、スパルタとの戦争にも敗れたアテネでは、人心の荒廃が目にあまるなか、「哲学の王」プラトンをはじめ、ソクラテスやアリストテレスなど後世に名を残す大哲学者が相次いで現れた。「善き生」のあり方や「正義とは何か」を現代の我々にも問いかける彼らが登場した背景には、荒れ果てたアテネ社会があった。

 同じことは、黒死病が吹き荒れた中世ヨーロッパに関してもいえる。

 黒死病の影響がとりわけ大きかったイタリアでは、その後「万能の天才」レオナルド・ダ・ビンチをはじめ、ミケランジェロやボッカチオなど数多くの天才が登場し、15世紀にルネサンスの華が咲くことになる。これに関して、歴史作家バーバラ・タックマンは「あまりにも多くの人が簡単に亡くなる状況が、それまでキリスト教会の説く死後の安寧のみに傾いていた人々に、この地上で生きることの意味を考えさせるきっかけになった」と考察している(バーバラ・タックマン『遠い鏡』)。

 人間はしばしば病に己を失い、国や文明、社会を崩壊させただけでなく、人間自身がウイルス以上に人間の敵になることもあったが、その一方では災厄から再生し、より高みを目指す力もみせてきた。先人たちが示したこの道を、現代の我々はどのくらい活かせるだろうか。
引用元⇒ 感染症と戦争の文明史――ヒトは何と、どのように戦ってきたか

 

 

唯一性と相対性

身体(肉体)しかない、というのは「実」と「虚」の多元性で観るならば貧弱な身体観です。「心」が客観的実在としてそれ自体が存在せずとも、主観的には存在するように、客観的実在として観察できる肉体という「実としての身体」以外にも、「虚としての身体」があります。

「創造された身体」、それは音楽には音楽の、絵には絵の、舞踊には舞踊のそれぞれの身体性があり、「生み出すこと」と共に在ります。

「それ自体を生きている人」にとっては不明瞭でも曖昧でもなく、事実性ですが、創造する身体ではなく、客観的に観察・分析するだけのロゴス的知性は決してそれに触れることないため、

「非言語的な曖昧なもの」として片付けたり、思考停止と言ってみたりしますが、「音楽を生み出す身体」は言語で考えません、音楽そのもので思考します。そして「それ自体を生きている人」には最も具体的な思考過程なんです。

ゆえに「ロゴス的知性で客観的にしか物事を思考しない傾向性」ならば、「内部機構」が「言語」で説明できない質のものに対し、それを「ブラックボックス化」「思考停止」という風に考える、その傾向に必然的にそうなるだけです。

まさにそれがロゴス的知性の限界であり、思い込みである、という構造なんですね。

「思考は言語でしか出来ない」という思い込み、そして「○○を正確に知る」ということがロゴス的知性の昇華である科学的思考によってしか出来るはずがない、という断定的な思い込み。

しかし後者に関しては、「普遍化する場合ならそう」とはいえるので、単純に思い込みということではないですが。

 

「実存を生きる」というのは、『自己相対化出来ない環世界を含んだ主観領域』を生きるのであって、人は「完全な自己相対化など出来ないもの」を元々持っているにも拘わらず、純粋客観性が存在すると思い込む。

純粋客観性はない、だから自己相対化というのはそもそも限定的にしか出来ないものです。「自己」は社会的次元でしか扱えません。私的領域の個別性の内奥全てを相対化など出来ないのです。それは非社会の領域で「唯一性」だからです。

「唯一性」において、「それ自体を生きる」ことにおいてのみ開示される「知」というものがあります。それをここでは「身体性」と表現します。この身体性は「それ自体を生きている」のと同時に今ココに存在します。

西洋医学的な身体観、というのは「肉体」しか扱いませんが、ロゴス的知性の限界は、それがどれだけ客観的に明確であっても、主観や直感の内奥にある何かに決して触れることができない、という点です。

主観と客観というのは人間の両義性そのものです。どちらもが質の異なる事実性なのです。しかし「そのものに触れる」のは後者ではない。

言語的なロゴス的知能が優位な人でかつ身体性の乏しい人は、身体(肉体)とは異なる「虚としての身体(創造的身体)」が、それ自体で何かを生み出していく非言語的な知性の多元性をリアルに捉えられない。

そのリアルさは「それ自体を生きている人」にしか捉えられない。

明快にしゃべる理屈っぽい人が、「思考運動」の多元性を感性次元ではわかっておらず、例えば「音楽の知識」は豊富でも「音楽を生み出す身体性」は乏しく、評論家的な言語的・ロゴス的な解釈しか出来ないことがあるように。

概念を教えるだけの仕事には向いているかもしれませんが、それは「創造する身体のコトバ」ではありません。(まぁ学者や専門家の中にも「創造する身体」を有している人もいますが。)

音楽を生み出す身体性、絵を生み出す身体性、それは「言語」とは違って、それぞれの身体性に基づく独自の知能・運動の一種であり、「肉体とリンクし連動して生じている」とはいっても、「ただの肉体(実)」とも異なる「虚」と「実」の複合体としての実体性です。

音楽を音楽の身体が思考する、それが「音楽それ自体の探求」であり、「言語的な説明」がそこに一切なくても、それは全く思考停止ではない状態です。

 

最も個別的なリアルとの出逢い

 

よく、そんなの全部「運」だ、とかそういう感じの言葉を耳にします。まぁそれもその範囲での事実でもあるのでしょうが、ただそこには「運」とは何か?「運」とはどのように生まれるのか?という「運」に対する好奇心、探求心が何も感じられません。

「挑戦」というのは、先に結果が確定している必然性には生じません。「予測できないこと」への開かれであり、そこには常に「運」が付きまとうのです。

 

「藤井聡太はなぜこんなに強いのか?将棋のレジェンド・谷川浩司の「天才論」」 より引用抜粋

羽生は「我々がやってきた将棋は、将棋の一部でしかなかったのでは」とうなった。
(中略)
結果的には幸運に見えても、彼は自分の力で運を呼び寄せているのです」と語る。谷川自身は早くから目をかけてくれた芹沢博文九段(故人)に「お前は運がいい。運を大事にしろ」と言われ、いつも自分は運がいいと思うようにしているそうだ。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 藤井聡太はなぜこんなに強いのか?将棋のレジェンド・谷川浩司の「天才論」

 

藤井聡太さんは、数々の天才的な先輩・先達たちが「常識」と考えた将棋の伝統を覆しました。もし彼が、その道の専門の先輩の「将棋の定跡」の「アドバイス」に従うだけの良い子だったなら、「権威ある先達の定義・概念」に縛られる人なら、あんな創造性は出てこないでしょう。

前提の概念を外せる柔らかさ、「過去」の知識・情報の集積からもたらされる通常の「編集的な創造性のひらめき」や思考運動とは異なる、「今」それ自体の思考がそのまま探求していく。

 

ラカン的な意味でいう「私はひとりの他者」とか、他者の言葉の集積としての「無意識」の捉え方は、「限定された部分」であって、そこでは「野生の思考」も「時間を超越した無意識の奥行き」も捉えられておらず、

また、「過去」から「現在」へ向けて生じる思考、それは通常の一般的な思考ですが、「野生の思考」「無形の瞑想」はラカン的な思考、無意識とも異なる運動で、それは「過去からの流れ」ではなく、通常の「他者の思考の型の編集的な創造性」とは異なります。

「今」が新たに生み出す創造性、「過去」が「今」に溶解する運動、それを支えるのが、前提の概念を外した野生の思考の運動性です。そして「無形の瞑想」は、過去と現在の境界がなくなる、その溶解が生じる。

少し話は変わりますが、「アボリジニのドリームタイム」を荒唐無稽と断じるのは、まぁ現代的感覚では仕方ないのかもしれませんが、瞑想では「それは主観的に体験できる」と書いておきますね。(とはいえドリームタイムの状態を誰もが深く体験できるわけではないですが)

「アボリジニの創造神話」の中で出てくる先祖の描写や、現象の捉え方、それは無形の瞑想的な思考であり、「時間」の捉え方が現代人の思考とは異なります。

まぁこれに関しては、理屈っぽい人ほどロゴス的知性で無理に把握しようとしてズレていきますので、「書くだけ無駄どころか有害」と判断し、その内容に関しては全省略します。

「身体は肉体だけではない」と書いた場合、多くの科学者・学者たち、あるいは「肉体と客観的現実」のみを信仰する唯物論信者たち(先進国ではもっとも強力な宗教の形ですが)が眉を顰めることでしょう。

そういうのはまぁ「関暁夫の都市伝説」で楽しむエンタメの話であり、そのくらいが健康的だ、という社会のフレームも、まぁ一般人のバランス感覚としてはそれでいいでしょうし、このブログもそれが基本的なスタンスです。

ところがある種の「身体性」を有する者たちは、「時間」の概念を超え、過去・現在・未来が一方向の流れとして感じられるニンゲン思考とは異なり、

非言語的なヒトの思考の型にダイレクトに繋がる無形の瞑想を生きています。その意味において、ある種の「神秘」に触れる。そういうものもあるんだよと、とは書いておきたいですね。信じるか信じないかはあなた次第です(笑)

「知識」が触れるんでではないんですね、そして「肉体」が触れるのでもありません、それに触れているのは「身体性」です。「実存的真実」は「最も個別的なリアルとの出逢い」なのです。

時にそれは詩として絵として歌としても現れてきます。自己ではないものの身体性それ自体のゆらぎによって。

 

では記事のラストに、ヒグチアイで「悪魔の子」の紹介です。この曲も「進撃の巨人」のテーマ曲のひとつですが、いい曲が多いですね、お気に入りの曲です♪

 

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