今回は直線的因果律と円環的因果律、「見る」「聴く」の多元性で禅・瞑想のカテゴリー、無意識の領域を含んだ内容になっています。
「身体」だけではない人間という複雑な全体性を扱う時は、「わからないもの」が多くの割合を占めている。「必然性」の中を生きるのは「自身の生を生きていない」ことでもある。
「直線的因果律」で「○○の因果関係」を説明するのは、一見明快でスッキリ感はありますが、人間の心なんていうものは複雑系であり、多元的な円環的因果律に満ちているものです。
「わからないもの」「わからなさ」を前提に生きていくのは「賭け」でもある。偶然性の中を生きるのは「実存として生きている」ことである。
お前は知識としてそれを覚えただけだ。お前の身体は何もわかっていない。 pic.twitter.com/pIL83JMkHi
— CARS🐾 (@captainkazula) February 23, 2020
絶対なる保護者は存在せず、存在は究極の愛に見守られ守護されることはない。「ただ在り、ただ起きる現象」と共に在るだけの無常な生「それ自体」には意味も価値もない。
存在(実)はそれ(意味・価値)を必要としないが、自我は『 絶対でも相対でもない「一切の価値と意味がない何か」』ではあれないゆえに、
「虚」を測り定義し相対化するために、多元的な「意味、価値」という「虚」の前提となる単位が先に必要になる。それを与えられることで、ヒト存在が様々な「何者か」になる。
またそれが付与されることで行為・言動に意味や価値を帯び、それを元に善悪や優劣、あるいは様々な意味を感じることができる。
ゆえに人間は「神」を、あるいは「神」とは呼ばれないにせよ、その代わりとなる「絶対的なるもの」「虚像」を必要とする。「多元的な虚像」を通して「虚である自我」を確立する。
偶然性に耐え、「わからなさ」の中で対峙することは、「強さ」であり「わからないものとしての生そのものを肯定できる強さ」である。これが生き物としての逞しさ、といえる。
「愛」は「生の不確実性」を受け止める力を土台とする。その力を失うとき、不確実性の高いものを恐れ憎み排斥するようになり、世界を存在を愛せなくなる。
ゆらぎへの耐性のない心は、「他者」という不確実性を愛する力に乏しい。「寛容の不在」とはそのような状態である。
よって「(自分から見て)確実性の高い人生・人間」しか許容できなくなる。それは仮に知性は高くても、「愛のなさ・懐の浅さ」からの生に対する不安からの防衛である。
よって「おおらかさ」を失い潔癖に対象の確実性を識別し選択する。
エビデンスの神様
何かのエビデンスが語られる時、直線的因果律のような形式で、結論を断定的に言い切っているものをよく目にする。
だが円環的因果律で見るならば、ある直線的因果律が円環的因果律の部分でしかなく、その全体ではないことも多く、それだけで言い切ることができない場合でも、言い切られている。
それでもある現象の直線的因果律が円環的因果律の部分であればまだいいが、「部分とはいえなくなる」というような場合もある。複雑系で考えると殆ど意味をなさない、場合である。
エビデンスの神様は、偶然性の神様と相性が悪い。「偶然性、カオス、非合理性、感性、主観が人、心を育てる」、というn=1力学の凸凹とランダムさとは相性が悪いからである。
統計的に見れば、「n-1」とかバカにされる個人的体験談、しかし「n-1」の主体である個人、人間の「わからなさ」がどれだけ深いのか、それはエビデンスの神様すら動揺させる。
円環的因果律の複雑系の中には「わからなさ」が背後に大量に潜んでいる。その不確定さゆえに、エビデンスの神様には全体が捉えられない。
一人の人間にとって、「個人」のわからなさの奥行が、どれだけ深く日常で強い力を持っているかを教えてくれるのは、エビデンスの神様の力が全く及ばないときである。
以下に紹介の記事に登場する、ある脳科学者がみた「n-1」の「わからなさ」とその奥行、そこからみえてくる何か、未だ知られていなヒトの奥行のほんの断片なのである。⇒ 脳科学者でも母の認知症にうろたえるー治らないと覚悟したその後
「必然」から生まれる強さは、「生き物としての逞しさ」を持たない者の防衛反応であり、確実性の中だけで生きようとする精神は,、「生の不確実性」に対する恐れと脆弱さの結果である。
「平均的な人間観」「統計的人間観」は、個々の差異の深みを削ぎ落した類型で、「こういう時は人はある程度の確率でこうする」を公式化し、
「こう行動すればある程度の確率でこういう結果になる」、という風に「そこそこのエビデンス」を幾つか見せて、「主張」に権威性を持たせ、主観を排し、
そうやって注意深く極論さやグレーさを排し、「健全な科学的分析です」と胸を張っていえるようクリーン化に努めた先の結果は、
味気のない「事実」の羅列と、平均の音、平均の味、安全で平均的な正しさを、「科学の名のもと」に食わされ聴かされ選択させられる、という統計的な確実性の生である。
だが個々の「n-1」の奥行に潜む「わからなさ」、「私」がこの不確実性(わからなさ)と向き合い、
仮にその先で失敗し苦しみ時に死んでも私はそれでいいんだ、という個の実存的
「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ」
↑こんな「とりあえずやってみろよ」から生まれるかもしれない人生の奥行きも、エビデンス、確率と平均に基づくならこうなる、
この道を行けばどうなるものか、エビデンスが大体教えてくれる。リスクを知らなければ道はなし。踏み出すまえにまずエビデンス、エビデンスに照らして迷わず行けよ。行く前にまずエビデンス
近代人の道しるべとしての宗教教義になっていくでしょう。
「私たちが人生全般の選択において安全で良いものを用意しました、みなさん、エビデンスの案内に従って人生ルートを科学的に選択行動してください、
自分で考えてはいけません、それは不確実です。「愚者は経験に学ぶ」というでしょう。主観も経験はあてになりません、そしてあなたに科学的権威はありません。」
私たちが提供するエビデンスを知ればもう大丈夫です、あなたは騙されない、かなりの確率で上手くいきます。ではよい人生を!
我ら権威が「エビデンスの神様」なので、反対する人はみな悪魔です。邪道、外道、悪人ですので近寄らないでください。
と、「集合知的な帰結と大差ない大衆的な底の浅いもの」になっていくでしょう。
仮に「心を純粋に科学する方法だけで人間に迫る」ことしかしないならば、それは逆に心を永遠に見失うことに繋がるでしょう。
脳を開いても物質をいくら観察しても、そこに愛も喜怒哀楽そのものも、それを感じている主体も見いだせないでしょう。
主体そのものではなく、その運動を「後付けで」概念として見るだけの「客観性」の中には、「生命それそのもの」はない。
「生命を持たない物質としてのただのモノ」と「イキモノ」は異なる。そして「他者の主観・生命そのもの」は、別の他者が「客観的に知る」ということは出来ない。
誰かを理解する時、「主観的に知る」ことを通してしか知り得ない。
幾つかのイメージや思考のパターンを科学的に知ることが出来ても、それと主観の全体性をそのものとして感じることと、その深みの底知れなさはまるで異なる質のもの。
感じている主体そのものは脳・体とリンクしていてもそこにはない。どこにあるのか?「それ以外のところ」=個々の主観のその内奥に、「定義できないそれ自体としてただある」。
「語られないもの」を聴く
「定義できないそれ自体としてただあるもの」のコトバは、アジールの中でしか姿を現さない。
アサイラムの中では、「語られないもの」は無意識にアサイラムの思考の型に条件付けられた、「聞くもの達」に適した何か別の「語られるもの」に変性してしまう。
アサイラムの中だけでなく何かの権威性を前にすると、聴く側の型に適した(期待される)返答に無意識に誘導される。相手が求めている形に合わせてしまう。
たまに専門家が、「語られないもの」を聴くことを傾聴などと傲慢なことを言うが、そういうことを語る専門家こそが一番相手を見ておらず、学問的概念での考察を押し付ける。
まさにその専門家の在り方によって、一部の人以外の「その他大勢の真実」は一切開示されることはない。
職業カウンセラーによって、「語られないもの」に何かの定義が付加されてしてしまうことで、あなたの無形の心は、相手の観念の型(外部の定義)に置き換えらる。
コトバの背後にある「あなただけのもの」、それは感じるものであって、言語で他者が再定義して変換して相手に投げ返して解釈させる、というようなものではないんですね。
コトバを聴く力など、テレビでよく出てくる一部の心理学者やら職業カウンセラーには殆どありません。そういう人はむしろ専門外の人に多いです。
何故なら、準備されたり意識的に観察されたり権威化されていないアジールの中で、「偶然性」「自由さ」がそれを意図せず開示することがあるからです。
それは学問的なものではなく、技術的なものではないからです。
技術や思考分析で対象に迫ろうというこちら側の能動性を一切捨てた時に、向こうからこちらに向かって予期せずに開示されることで見えてきたり聞こえてくるものなのです。
その開示は全て向こうが主体であり、こちらにはそれを知る何の権限も資格も始めから一切ないのです。
そして最も深い真実を聴く可能性があるのは唯一「自身自身だけ」です。それを見ること・感じることが出来るのは「自分自身だけ」なんですね。
本当に深い部分というのは、精神科医もカウンセラーも脳科学者も一切出る幕はないんです。心はあなただけのものであり、あなただけの現実です。
科学者、宗教家、教育者、両親をはじめ、一切の他者は「私の全体性」を本当には知り得ない「部外者」です。開示されたほんのわずかな何かから、「私」の極一部の断片が理解されるに過ぎません。
客観的事実・知識によって心の解像度を上げることと、心の生命力を失わないままそれそのものと出逢うことは全く別の質なんですね。
そして人が自然にそうあることが出来るならカウンセラーなど一生必要ないし、その条件では職業的カウンセラーなど不要なんです。
カウンセラーは、あなたがあなた自身によってあなたを導けない状態を一時的に支えるか、あなた自身であなた自身を見ることが出来るようにするお手伝いくらいしか出来ないんですね。
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