今回は「創造性」にからむことがテーマで、より根源的な野生のダイナミズム、それを失った先にある未来、について考察しています。まず先にツィートをひとつ紹介です。
そもそも「勉強」って楽しいことなんだが、なぜか「学校での勉強」は嫌いだったな。あんなに楽しいものを、あんなに苦痛なものに変えられるのは教師の才能。ある日説教されたあと、なぜか課題を出され「この人にとって勉強は”罰”で苦痛なものなんだ」と思った。んな人に勉強を教わって楽しいわけない。
— プロ奢ラレヤー🍣 (@taichinakaj) September 2, 2019
この感覚、すごくわかりますね、ですがこういうものって、「学校や勉強に適応的だった人」や、真面目に勉強し勉学を生かし順調にその道に進んだ人とか、企業に就職した人の多くはすぐ否定する傾向がありますが、
ただ否定するのは簡単なことですが、この手の問いかけに含まれてことは創造性の問題や、人の成長に凄くかかわるもので、案外根深く大きなテーマに触れるものでもあるんですね。
ではもうふたつ外部サイト記事の紹介です。
「日本はもはや後進国であると認める勇気を持とう」より引用抜粋
「日本はAI後進国」「衰退産業にしがみついている」「戦略は先輩が作ったものの焼き直しばかり」。ソフトバンクグループの孫正義社長による手厳しい発言が話題となっている。
(中略)
実際、日本は多くの面で先進国から脱落しており、ここから再度、上位を目指すのはかなり難しい状況にある。
(中略)
数字で見ると今の日本は惨憺たる状況このところ日本社会が急速に貧しくなっていることは、多くの人が自覚しているはずだが、一連の状況はすべて数字に反映されている。日本の労働生産性は先進各国で最下位(日本生産性本部)となっており、世界競争力ランキングは30位と1997年以降では最低となっている(IMD)。
平均賃金はOECD加盟35カ国中18位でしかなく、相対的貧困率は38カ国中27位、教育に対する公的支出のGDP比は43カ国中40位、年金の所得代替率は50カ国中41位、
障害者への公的支出のGDP費は37カ国中32位、失業に対する公的支出のGDP比は34カ国中31位(いずれもOECD)など、これでもかというくらいひどい有様だ。
日本はかつて豊かな国だったが、近年は競争力の低下や人口減少によって経済力が低下しているというのが一般的なイメージかもしれない。
だが、現実は違う。先ほど、日本の労働生産性は先進各国で最下位であると述べたが、実はこの順位は50年間ほとんど変わっていない
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「日本は出世意欲が最低、断トツで自己研鑽していない国に 【アジア太平洋14か国調査】」 より引用抜粋
(前略)
また、「起業・独立志向」はどうか。日本の起業・独立志向は「とてもそう思う」「ややそう思う」の合計が15.5%で最も低くなっている
(中略)
また、日本は勤務先に関する満足度が低く、「会社全体」に満足している人の割合は52.3%、「職場の人間関係」は55.7%、「直属の上司」は50.4%、「仕事内容」は58.2%であり、これらすべて最下位だった。今の勤務先で働き続けたい人の割合を見ると、日本は52.4%で最下位。一方で、日本の転職意向は25.1%でこちらも最下位。勤め続けたいとそれほど思っていないが、積極的な転職も考えていないという状況のようだ。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
まぁ孫さんが言いたいことはよくわかりますが、既に「仕事に対しても、職場の人間関係に対しても、上司に対しても」、満足度が世界最下位のような「やる気もなく嫌々働いている」ような国で、
失敗に厳しく挑戦者に厳しく多様な在り方への大らかさもなく、空気を読めないだけで集団からのけ者にするような過剰な協調性、
そして軍隊的な一糸乱れぬ集団秩序だけは妙な形で残存した、生真面目で融通が利かずキチンとしていないと後ろ指刺されるような空間では、心身はカチカチに硬直した過緊張状態が慢性化するだけで、
そんな状態で伸び伸びした自己主張なんて満足に出来るわけもなく、さらに長時間労働で過労死&自殺者多数、という仕事環境に疲れ切った親父たちに対して、
お前は創造性がない!この国は後進国だ!もっと自覚せよ!ってまた新たな課題を、その道の権威みたいな偉い人からガンガン言われたらどうなるか?
日本人はそれもまた生真面目に捉え、妙にズレてて力んだやり方で頑張ろうとするだけ。
いつも引き算目線で互いのミスを細かくチェックし、互いが人からどう見られるか気にしてばかりで、空気ばっかり読んでいる「籠の中の風見鶏」たちには、そもそも「自由な創造性」など想像すらできない。
そして「人様、社会様に御迷惑をかけて申し訳ありません」、「結果が出せなくて無能で使えなくてごめんなさい」、とさらに上乗せされた努力目標の課題ーに必死に応えようとして押しつぶされる悪循環に陥る。
「好奇心」とか「創造性」とか伸び伸びした心の状態、っていうのは、そんなものとは真逆の環境から生まれるものなにのに、
『 お前はここが悪い!ここがダメだ、いやそもそもお前は以前から駄目だった!」努力も足りない!工夫も足りない!自覚も足りない!なにもかも古い、全部ダメ!こんなんじゃもう駄目、無理!』とか、
そんな風に偉い人や上の立場の人間から言われれば言われるほど、下は本当にダメになっていく。そしてまた叩かれる、そしてさらにダメになっていく。
孫さん個人は確かに有能で立派な起業家だが、今の日本人に必要なのは、まず先に同調圧力過多な集団意識から解放されることが必要。「集団ではなく、個人として、生き物としての自然に帰れ!」だ。
ロボットみたい一本調子の真面目さ、緊張でカチカチになった石化した精神、クタクタになったボロ雑巾のような躍動のないハート、これ等の状態を初期化し再設定・再構築することだと思う。
『 諸君、空気読むのと行儀だけ世界一の良い子はもう終わりだ!』、『真面目なだけが取柄の君たち、つまらない仕事を、嫌な職場環境で嫌な上司と共に何とかかんとか渋々仕方なくやってきた、よくやった!だがもうそれは終わりだ!』でいい。
今はもうこれ以上「ダメ出し」ばかりして追い込まないこと。否定否定で追い込んでももう何も出ない、ずっとそうやってきた結果がこれだ。そして気力も情熱もついに「世界の底」まで落ちた。
「世界の底で創造を叫ぶ!」なんて滑稽だ。疲れ切って冷め切ってカチンコチンの指示待ち状態なのに。「叩けば創造性が出てくる」なんていうのは瓢箪から駒のような神話的希望でしかない。
創造性というダイナミズムを引き出すには、まず今の状態をリセットし、今までの固定観念を忘れるまで離れることが必要。まずはもっとバカンス、いやもっとバカになろうッス、だ。
よく「この世は理不尽なことばかりだ」「この世は間違っている」「この世には希望がない」「日本はこの社会はもう駄目だ、終わりだ」というような言葉を耳にします。
ですがそれは本当にそうでしょうか?どちらが先か、外界が酷いので心がそう感じているのか、心が酷い状態なのでそう感じているのか、
あるいは外界それ自体が問題点だらけなのでそう感じているのか、外界の問題の総量は変っていない、あるいは減っているにも関わらず、
意識(見る側)が現象を細分化し外界の解像度を上げ続けることで、際限なく問題を見つけ続け、問題意識を高めることでネガティブな感情を増幅した結果の「暗い思い」を、「外界」の印象に結びつけるからそう感じるのか、どうか。
私は最近の日本の現象を見るに後者が圧倒的に多くなっている、と感じます。人々の心がセッカチで潔癖化し続けていて、
少しでも「心を不安にするもの」が発見されると過剰反応する、これは汚れや異物に対してだけでなく、時間やスケジュールのズレや言動への違和感、倫理・道徳面での不適切さなども含めて、
「対人間」「現象」に求める期待値・要求度の全てが昔よりも上がっている、だから、現象の質自体は本当は悪くなってるわけではなく変わってなくても、いや本当はよくなっていても、
見つめる側の基準・期待値が上がり、許容度は下がっていくために、相対的に現象の評価が「劣」に向かい、許せない物事がことが増えていく。
これは例えば「社会学」でもそうで、ある方向性を持った解像度の高まりは、その方向性のみにスポットをあて続け、問題を細かくピックアップして人々に意識化し続ける作用を持つため、
世界の見え方に偏りを生じさせ、否定的なバイアスが強化され現象に投影され続けます。
社会学が格差や差別と闘う,特定のイデロギーに指向した「活動家的学問(activist discipline)」に転化していることを批判したアメリカの著名な社会学者J.ターナーによる論考。これは恐らく世界的に見られる傾向だろう。それが社会学の学問としての可能性を狭めてしまうという主張には賛同する。 https://t.co/yqKRBKpgHx
— 佐藤成基 (@ssbasis) February 13, 2020
「あれがダメ、これがウザイ、あれが悪い、これが不快」と常にイライラ、すぐにムカムカ、そしてすぐに否定し、すぐに裁く、という在り方をあちこちで見て聞いて過ごすうちに、
知らず知らずに自身にもそれが感染し、やがて以前なら気にすらしていなかった対象へ、細かい問題の発見力だけはどんどん高まり、
かといって人生が豊かになるとか楽しくなるとか、そういう方向性で何かを生み出すわけでもない、という人たちに囲まれていると不満だけが増大します。
楽しさや自由さ豊かさは増やさないのに、つまらなさと規範だけはどんどん増やす、ただ「良し悪し」の二元論で何かを否定するだけ。そんな人ばかりに囲まれていては、心は常に戦争状態でしょう。
「良し悪し」の二元論が肥大化した過剰メタの社会では、不安やリスクの意識が細かくなって引き算目線での解像度だけが向上していくため、
「解像度の高さそれ自体」が息苦しさが増していく原因、というような皮肉な関係性になっていますが、
「息苦しさが増していく」ことを「見るもの」=自身それ自体が原因とせず、「みられるもの」=「外部」とすることでさらに息苦しさを増やしていく、という潔癖的追求の無限ループに陥るのですね。
その結果、外部に存在する「他者の創造性」や「挑戦する意識」、そしてグレーな空間性の中での自由なゆらぎさは硬直し萎縮するが、「外部の事態」がそのように変化していっても、「自身の原因」だけは自覚しないわけです。
恥の神
「良し悪し二元論」の価値基準で過剰に潔癖に言動をチェックされ続け、他者から様々な「恥意識」が付加されてきた結果、内面化した社会に束縛され硬直している精神は、
もはや恥の化身、恥の神である。
恥の神、これはつまり「人間がヒトであることを許せなくなってきた」ことの結果にたどり着いた、という滑稽なパラドックスですが、
現代の過剰な道徳意識は。ほとんど宗教の戒律(特にキリスト教的な高潔さの基準)と変わらない質であることを考えるなら、
極端な二元化・本能の抑圧の傾向性が、「やがてそれ自体・全体に向かう」ということは十分に予想できたことでもある。
しかし人間から動物的な要素を去勢し続けてきた結果、ついには人間そのものが去勢され恥の神となった。
神は死んだ、神は殺されたが、その次に来たものそれは「ヒトは死んだ、ヒトは殺された」となり、その結果、ヒトの創造性の神である超人は流産した。
「ヒトであることは恥ずかしい」、「終わりなきあるべきもの」としての無限向上地獄を生きる、「潔癖な理想的観念体」それが「恥の神」。
この潔癖な理想的観念体である「恥の神」は、生き物としての身体性・無意識を徹底的に否定し続けることでしか成立できない意識体である。
そして脆弱化するその先に..
地上に根付かず天にも帰れないこの理想の幽霊は、己がヒトとしての身体性を憎みながら、幽体離脱的な解離性を生き、「どこにも居れない」まま観念界を浮遊する。
これが「ヒトは死んだ」の次に来るニンゲンの在り方である。
ヒトの全体性を許していくにつれて、ヒトは対象への細かい問題の発見量が減り、おおらかさに向かいます。ですがこの「おおらかさ」は脆弱な自我には耐えられない状態です。
だから自由は「個の強さ」とセットでないと苦痛でもあり、「脆弱な自我」は「自由のおおらかさゆえの多様性のゆらぎ」に耐えられないゆえに、
「細かく管理された全体主義的社会」の中で他者のゆらぎを止めて、生命力を殺すことで「傷つき」から守ろうとする。それはますます自我を脆弱化させ、ますます傷つき感度が増していくループに陥る。
このような脆弱な自我たちの運動性が「監獄的規範社会」を生み出し、「生からの逃避と過剰防衛」からの規範が個々の生のダイナミズムを奪い、社会はどんどん活力を失い、ニンゲンは生命力失う。
ヒトは本来は動物であり生き物であり無意識を含んだ生命体だから、全体性としてのヒトを許容している時は、ヒトがヒトとして在ることを否定する意識は生じず、「問題」を発見しないんですね。
ヒトがヒトとしての全体性として在る状態の中に「許せないもの」が増えるにつれて、「ヒトはヒトの全体性から締め出される」のです。
そうして野生、生命のルーツから離れ遮断することの先には、生き物としての基底の力を失う、という本末転倒になるわけです。
「不快さがなくて当然」のような漂白化された社会に向かうに比例して、逆に不快へのアレルギー反応・拒絶反応も強くなり、それを引きおこすアレルゲン対象への拒絶性も高まっていきます。
そのピカピカにしたところにポツンと汚い染みでもつけばもう大騒ぎ、ギャーギャー過剰反応して消毒(対象抹殺)するわけですね。
他責と責任転嫁では何も変わらない
マネジメント力のない上司ほど、他責思考で部下や周囲の人間の「無能さ」に責任転嫁したりしますが、
「己こそが駄目な1日本人」という自覚もないまま、その駄目さを全体に投影して責任転嫁するから、何も変わらないわけです。
「(私・私たち以外の)無能な権力者と馬鹿な庶民 」=「残念な社会」という、短絡的な決めつけの心理は、物事を加害と被害、善と悪の二元論の価値判断で物事を切り分け、
そこに属性をハメ込んで内集団と外集団を生み出し、
そして「私・私たちは賢く正直で真面目にも拘わらず、馬鹿でクソな社会・人間に迷惑を掛けられている善良な被害者」、「正直者は馬鹿をみる」という立ち位置から世を憂いため息をつくのです。
この無自覚な「上から目線」の層が増え続けているから、社会はしかめつらしく陰気で暗い、「お気持ちの大量に混じった被害者的正論」のお説教ムードに覆われ、
重い硬直した場になっているパラドックスも見えないまま、「日本はもう駄目だ」を連呼する「行動なき難癖だけの老害」になっていくわくですね。
そもそも人間はマクロな目線で相対的にみれば殆どが無能なんですね。(個々に見ていけば多元的な能力を有し、天性の質を有しますが)
有能というのは相対的に少ないから有能と言われているだけであって、「多くの無能さが少ない有能を支えている」わけです。
「多くの無能さが全体としてちゃんと機能する」ということがシステムの有能さであり、「システムの無能さ」こそ責められるべきものであるわけです。
マクロレベルの構造を変える有能さ、というのは「多くの無能さが全体としてちゃんと機能する・適応できる」だけのシステムを作れるかどうか、であり、
有能な人しか適応できない、有能な人しか機能しないしようなマクロシステムは無能の極みなんですね。