「全てが自己責任」というのが正論 という風潮が今の日本社会には満ちています。確かに(ある面から見れば)「自己責任」ともいえますが、
ですが私がここでいう「自己責任」とは意味合いが異なります。まず、「自己責任」と「他者責任」「自責」と「他責」の違いについて簡単に整理しますね。
他者責任と他責、自己責任と自責は、それぞれ似ているようで異なる概念です。
他者責任とは、社会や他人に対して責任を持つことです。例えば、自分の行動が社会や他人にどのような影響を与えるかを考えたり、社会や他人からの要求や期待に応えたりすることです。他者責任は、社会の公平性や平等性を重んじる考え方です。
他責とは、自分以外の人や状況に責任があるとして、とがめることです。例えば、自分のミスや問題を他人や環境のせいにしたり、自分の不満や不幸を他人に押し付けたりすることです。他責は、自分の主体性や自立性を欠く考え方です。
自己責任とは、自分の行動や選択に対して責任を持つことです。例えば、自分の過ちを認めたり、自分の能力や環境に応じて合理的に判断したりすることです。自己責任は、個人の努力や責任感を高める考え方です。
自責とは、自分を責めることです。例えば、自分の失敗や不幸を過度に反省したり、自分の価値や能力を低く見積もったりすることです。自責は、自分の幸福感や自信を損なう考え方です。
つまり、自己責任自体は別に悪いものではないんですね。他者責任も同様です。しかし今の日本社会でよくいわれる自己責任の理屈というものを心理学的に分析すると、それは弱肉強食の正当化、「勝った方」のためだけの理屈であり、時には詐欺師の理屈に近いほど一方的に感じるものです。
このテーマを社会心理学的に考察した記事を以下に紹介します。
⇒ 「原因」の外的・内的帰属のバイアス 「原因帰属のエラー」
つまりこういうことです。
「騙されるお前が悪い、お前の頭がシッカリしていれば俺に騙されることはなかったし、お前には俺を否定する選択肢もあったはず。それにお前を拷問しそれを強制した覚えはない、結局はお前が選んだんだ、だからお前の責任だ」
というのが、「一方的に感じる」という自己責任の理屈です。
まぁだから「半沢直樹」があんなに人気が出るわけですよ。多くの人が心の中では「納得がいかない」と思っているからです。
今の日本社会でよくいわれる自己責任の理屈は、「一部の人間の責任の放棄」のためのレトリックであって、巧妙な嘘なんですね。
とはいえ、「状況が悪いのも酷い目に合ったのも、全部お前が情弱で意志が弱く能力が低く見通しが甘いからであって、自己責任だ」とかそんな感じのことを強者の立場の誰かに言われてスカッとしている人って結構いますよね。
「主体性を奪われた人」にそういう受け身の人が多いですが、それは「騙されて勉強になった」と言い続けているあの心理と同じです。未だに「自己責任」と「他者責任」の区別もつかない人です。
自己責任と他者責任のバランスを考える際には、以下のような点に注意すると良いでしょう。
自己責任は、自分の行動や選択に対して責任を持つことですが、それは自分の能力や環境に応じて合理的に判断することを意味します。自分の力を超えたことに対して無理に自己責任を負おうとすると、ストレスや不幸を招く可能性があります。
他者責任は、社会や他人に対して責任を持つことですが、それは社会のルールや倫理に従って行動することを意味します。社会や他人のために行動することは大切ですが、それが自分の価値観や幸福感と矛盾する場合は、自分の意見や感情を尊重することも必要です。
しかし、強者が弱者に押し付けている「自己責任」の理屈というものは、「強者が他者に対してもつべき責任(他者責任)」を放棄し、反対に弱者には他者責任を過剰に意識させながら、同時に「結果」に対しては弱者の自己責任であると意識させることで、責任を過剰に負わせているわけですね。
一方的に弱者に責任を負わせて意識させ「自責型人間」を大量生産する。 その方が都合が良いからそうする、ということです。
「自責型人間」は一見真面目で大人の態度に見えますが、こういう人は人生の主体性を他者に奪われていますから、心の奥は負の感情に満ちていて、その投影作用で他者にも自責を強要する人間になっていくのです。
そうやって負の同調圧力が生まれるんですね。それで社会は首の絞め合いばかりになって、うつや自殺者を量産し、社会には閉塞感と無力感が満ち、元気・活力・創造性がなくなっていくわけです。
つまりこのような「自己責任」の理屈は、人にも社会にも良い影響を与えていないのです。では誰にとって良い影響を与えているのか?それは一部の強者だけです。彼らにとっては非常にやりやすく都合が良いでしょう。
先に書いたように、自己責任自体は悪いものではないんです、バランスのとれた自己責任があるならば、それは「自責型」にはならず、「首の絞め合い」にもなりません。
また「馬鹿・クズ・アホ・死ね・甘えるな」などという、何の建設的な意義も生まない言葉が飛び交うような攻撃的な思考の量産にもなりません。
日本と韓国の自殺者・うつの増加は、こういう「無責任」な「自己責任」の理屈を弱者に押し付けた修羅社会化の結果でもあります。韓国の場合はもっと悪質ですが、それが社会の「上」が社会の「下」にやってきた人心操作のひとつ、ということなんですね。
関連記事 ⇒ 社会の閉塞感 「生きづらさ」の社会心理を生む構造
以下の風刺は、作者が何人で誰なのかは定かではないですが、(アメリカ?韓国?)どちらにせよ、多数派の空気に逆らうと、周りからの同調圧力によって徹底攻撃される社会現象を描いています。
シンプルながら非常に的確な指摘である、とネットでも話題になっています。韓国社会で日本社会であれ、そして閉鎖的なコミュニティや分断化した社会、国においてこれは通じるところがあるでしょう。
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