社会学からみた「宗教機能」  何が必要で何が害か?

 

以前に、自殺・犯罪・カルト問題をテーマにした記事で、社会学から考察した原因分析を行い、デュルケムマートンアノミー理論や、緊張理論下位文化理論などを紹介しましたが、

今回は、社会学からみた「宗教機能」というテーマで記事を書きます。宗教・宗教心・信仰心をやみくもに否定するだけでは、本末転倒になりかねません。

このテーマは一応前回で終了する予定でしたが、このテーマへの関心と要望が多いことを考慮し、次のテーマに進む前に幾つかの追加記事を書くことにしました。

当ブログのテーマが広いために、読者さんも様々な方がいて、心・精神の病に苦しむ一般の方、そして男女の心理学や心の安定などに関心がある方、癒しや元気の糧にしている方、心理学に興味のある方、

そしてオカルト・精神世界に興味がある方、カルト系宗教のアンチの方など様々です。

私としては読者を選ぶつもりはありませんし、テーマを絞るつもりもありません。私の書く記事が何らかの参考になればそれで良いと思っていますし、元気が出たり励みになっているのであればなおさらです。

今回は「宗教をどう捉え、そして宗教なるものとどう向き合えばいのか?」という現実的な問題としての補足の追加記事になります。

私は「宗教機能」を集合的なミームとして考え、「その国の民族の気質・自然・社会に調和したもの」であることが、第一の条件だと考えています。

では集合的なミームにはどのような性質の違いがあるのでしょうか?ここで教育学者の岩永雅也氏の参考PDFからの引用文を紹介します。各ミームの違いを、「ミーム = 神」として見てみましょう。

「社会学入門」 より引用抜粋

「14 現代社会と宗教」
宗教の目的は救済にある。救済には「来世救済」と「現世救済」がるが、「来世救済」は死後に極楽浄土できるよう、望むことである。「現世救済」は家内安全、無病息災などのいわゆる現世利益の信仰である。

14.1 ヌミノーゼ

ヌミノーゼとは心霊的な体験のことをいい、この体験が実在するか聖なるものが存在するとする考え。宗教の体系の中心はこの「聖なるもの」であり、人間はヌミノーゼを経て聖なるものにたどり着くという考えを神学者オットーが定義した。

14.2 宗教の価値

個人の孤立化 アトム化 や内閉化をあおる宗教の価値は低いものとていい。

14.3 神々の位座

14.3.1 抱擁神

全てを包むように守ってくれる神のこと。日本の宗教観から「仏様」がこれに相当する。

14.3.2 絶対神

キリスト教やユダヤ教の神。唯一神は超絶した高みから一方的に命令を下し、人間はそれに絶対服従しなければならない、厳しい神。

14.3.3 機能神

現世利益をかなえてくれる神のこと。

14.3.4 超越神

無限、永遠、かつ不滅で、何ものにも依存せず、全知全能の実態で
る。

14.3.5 統合神

社会における共同の営みを行い、統合力となる神のこと。

14.4 キリスト教の宗教観

キリスト教の基本は絶対神である。また、社会を秩序立てていくたに統合神の存在も重要である。統合神は絶対神、抱擁神のいづれ結びつき宗教の基本教義を完成させる。

キリスト教の場合、「現世利益」という考えはどちらかといえば少いほうなので、機能神の存在は薄い。

14.5 日本の宗教観

日本ではどんな神様も機能神としてはたらく。それは現世利益信仰根深さがあるためだが、その力はあまりにも強大であるため統合衰退を招き社会解体や秩序破壊の温床ともなりかねない。

仏様(先代)信仰の考えがある限り抱擁神は増減なく存在していくろうが、日本の宗教に必要とされるのは機能神と統合神の緊張関係バランス維持である。

14.6 入信動機

連れられ型は入信する親や兄弟がその宗教を信仰していることが主原因である。この型の場合、本人がその宗教に消極的であっても親や兄弟に支えられ、長期入信にしたがって友人が増え、次第に積極的な信仰に変わっていく。

煽られ型はマスコミなどの「霊界ブーム」等により煽られ入信するタイプだが、いつまでもオカルト現象にしか興味のない入信者は超常現象が一向に起こらないので、やがて飽きて脱会していく。

これが同じように霊的信仰を強調して若者を集めている信仰教団でっても、家族、学校、職場から信者を引き離し、社会との結合を拒否するオウム真理教や統一教会などとは決定的に異なる点である。

それらは社会とのつながりを一切遮断し、個人のアトム化を煽る要因となる。つまり、統合神のない宗教は社会から逸脱し、いづれ滅びる宗教と思って間違いない。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元 ⇒ 社会学入門

 

日本には何が必要で何が害か?心の問題の今後の対策

日本の宗教には「機能神」「抱擁神」は十分に存在するため、後必要とされるのは上記の引用記事にもある通り、「機能神」と「統合神」の緊張関係とバランス維持、ということです。

これは神道仏教で全て条件を含んでいます。なので日本には伝統的なミームとして、基本的に神道伝統仏教及び他の「社会と調和的な伝統宗教」で十分ということですね。

では人々からカルト指定されている新興宗教やオカルト原理主義とはどういうものでしょうか?

絶対神 ・超越神、あるいはその代弁者しての絶対者・超越者として君臨する独裁的指導者を有する組織や、「唯一絶対の真実を掲げる原理主義的な教祖」たちであり、

その教えは個人の孤立化 アトム化 や内閉化をあおるものであり、また日本の自然や文化との調和もなく社会に健全なる繋がりを橋渡し出来ていません。

つまりそれらの宗教組織及び個人の霊的思想=ミームの価値は低く、教祖の病的要素に比例して文化葛藤・アノミーを増大させるものであり、有害であるということです。

先の引用記事では「統合神のない宗教は社会から逸脱し、いづれる宗教」と思って間違いない、と書いていますが、確かにこの手の宗教は徐々に先細りはしていますし、世間の批判が高まり拡大は途中で止まるでしょう。

ですが、それでもまた新しいカルト系宗教は生まれてくるでしょうし、実際に日本には沢山乱立していますね。また「宗教という形をとらない宗教」も今後出てくるでしょう。

何故「有害で不必要であるもの」がこんなに沢山発生するのでしょうか?というと、それは以前にも書きましたが、社会が心・精神・のを生み出す大元になっているからです。

そして社会要因で生じるアノミーを解決する対策ができていないことと、実存的な問い、そして様々な自我の問題を支えるシステムが不十分で上手く機能していないからです。

なので今後の対策としては、神道伝統仏教に今一度その本来の役割に立ち戻って頑張ってもらいたいのと、心理学や各種セラピーの分野をもっとシッカリしたシステムに磨き上げ、

心・精神の問題に対し、本当に使える技術・能力を持った人を育成する、ということですね。と同時に、今の社会の在り方も更新していくことが求められるでしょう。

 

宗教・宗教心・信仰心は必要か?

宗教や霊的なものが根こそぎ否定されるならば、人間は人間を逆に見失う結果になるでしょう。

何故かというと、部分を追求し部分を定義する科学のみでは、たとえ統一理論が完成したとしても、それだけでは「人生の糧」には成り得ないからです。

科学がどれだけ発展しても、心・精神の問題、実存的な問いは残り続けるでしょう。

生まれ・老い・死にゆく有限の生の中で、実存は科学定義の数学的公式と理論では支えられないでしょう。

人は、文字や数式・理論だけでは決して満たされない生き物です。恐怖や不安や痛みに直面している時に、そして自我が無意識に飲み込まれ崩壊しかかっている時に、文字や数式・理論だけで心・精神を守れますか?満たされますか?唯物論の人はそこがわかっていません。

もし全てが脳科学や物質的な過程であるというのなら、何故あなたは親の問題や宗教の問題で苦しみ、そして囚われているあなた自身の心・人生の問題を「あなたの盲信している科学」で完全解決できていないのですか?

西洋二元論的な生命観には限界がありますね。あなたは自身の生死すら解決できていないんですよ。そして精神状態においても同様で、オカルト信者と大差ないあり方で囚われていますよね、怒りや憎しみや不安や無気力や悲しみや卑屈さやプライドなどに。

そしてカルトを根絶したいのであれば、それは唯物論とか唯心論とか、そういう表面的なスタイルの話ではなく、宗教に限定するような姿勢ではなく、社会に存在する「カルト的な意識」そのものを変えなくては公正とはいえず、しかも上っ面のモグラ叩きにしかならないでしょう。

今の社会がカルト宗教を生み出す原動力でもあり、それだけではなく、心理学的に見て「カルト」と同じ次元の心理構造を無宗教も持っていることがあるからです。

無神論の中国共産党の宗教否定・弾圧はカルト以上に狂気的なカルト思考であり、正義や大義名分を盾に集団の同調圧力で過剰に誰かを追い詰める姿は、ひとりの犯罪者の暴力以上に犯罪的な暴力性を発揮します。

そしてカルトで使われる洗脳技術というものは全て、社会に存在するものを組み合わせてその組織の型に編集したものでしかありません。

つまり社会及び人の心・精神の中にも原因があるんですね。それが様々な力学で特殊な個性として凝縮して表現されているに過ぎません。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のように、何でもかんでも否定すると、かえって本質を見失います。私が否定するものは「有害なもの」だけであり、「霊的なもの」が存在してはいけないなどと思ってはいません。

「オカルト的なもの」が全て「思いこみ」というのなら、科学的な検証・実証もなく感性体験もないままに、それを「思いこみ」だと頭から否定する人の態度もまた同次元の「思いこみ」でしょう。

だから盲信や過剰な肯定も、そして真逆の過剰な嫌悪・否定も同一の心理的な原理が存在するのであり、この両者はお互いに反発しあいながらも似た者同士でもある。

精神医学や脳科学は、人間の全てを規定できるような科学的実証レベルには達してません。あくまでも部分的実証であり、そして人間の部分的側面を捉えたものに過ぎないんですね。

それが人間の認識の全てと盲信するなら、それもまたカルト的な盲信の思考状態なわけです。

日本で宗教のイメージが悪い理由 

 

帰還不能点累積システム

ではここで「ソシオン理論」という社会学的考察を紹介します。社会学者関西大学教授木村洋二氏大阪国際大学講師である渡邊太博士(人間科学)の参考PDFからの引用文を以下に紹介します。

シャドー概念によってカルトの入信勧誘システムである「帰還不能累積システムを説明しており、「囚われの心理的マトリックス」をかなり詳細に分析した文献です。

「親・子・カルトのトライアッド ―信者と家族と教団のソシオン・ネットワーク分析」 より引用抜粋

ソシオン理論の仮定によれば、1)直列結合による媒介増幅と、2)並列結合における共鳴励起、それに3)PN震動増幅の3つの増幅メカニズムの相乗によって誕生した超越荷重体を中心に、ソシオネトは一種の免疫機能を発動しながら、自他を識別 する閉じたネッワーク、ソシオス(socios)を形成する。

個々人の参入離脱を超えてソシオスの中心に燦然と輝く超越荷重体象徴が、兵士が守ろうとした泥まみれの「軍旗」で あり、信者が崇拝・擁護しようとする聖なる「書物」や「教義」である、と考えられる。

しばしば「神」や「革命」、「真理」や「楽園」といった言葉で指し示されるその超越的な純粋荷重は、M.ウェーバー[Weber 1921=1968]も指摘するように、「目的合理性」 を逸脱もしくは超越するいう側面をもつとはいえ、単なる妄想でももちろん狂気でもない。
(中略)
「ソシオン」は、社会ネットワークの結び目としての個人ないしは集団を指す概念である。ソシオン・ネットワークは、デキゴトに対する正負の「予期ポテンシャル」である「荷重」の還流回路からなる。

ソシオン・コミュニケーション・システムは、鏡像帰還メカニズムによる「くり込み」と「くり出し」の多重交叉構造として構成されている。

本稿は、ソシオン理論によるカルト分析の試みである。シャドー概念によってカルトの入信勧誘システ ム(「帰還不能点累積システム」)を説明し、

さらに親・子・カルトのトライアッドに焦点を合わせて統一教会信者入信・脱会の事例研究から、「トリオン」(くり込まれたトライアド)のダイナミックスをあきらかにした。

カルトのソシオン・ネットワーク分析の結果は、「トリオン」に介入る第4項「フォース・ソシオン」の社会学的重要性を示している。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 親・子・カルトのトライアッド―信者と家族と教団のソシオン・ネットワーク分析

 

コメント

  1. 哲学はなぜ間違うのか? より:

    宗教よりも現世

    ビジネスに熱心な人々、あるいは生活に熱心な人々、あるいは淡々と日々を送っている人

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