承認飢餓ループと自己愛  承認欲求の悪用による支配と依存

 

老人だろうが若者だろうが子供だろうが大人だろうが、基本的な認欲求は必要であり基本的な自己愛も大事です。

 

アスリートだって芸術家だって企業の社員だって、他者評価による承認欲求がモチベーションの基本的な原動力あるいはキッカケのひとつであることを私は全く問題にはしていません。

作家であろうと音楽家であろうと、著書・作品等が世間から高評価されたり、沢山売れたり、「○○賞」とか受賞すれば嬉しいと感じるわけで、不特定多数の他者から承認されるということは、その逆の「拒否・否認」よりも嬉しいわけです。

 

健全な人・環境下ではそれで全然いいのです。是非、承認欲求を肯定し良い形で自己拡大し続けてください、と思っています。

 

ですが誰もが人生の良き先輩に囲まれ、健全な組織でスクスクと成長している、そんな状況・環境に置かれているわけではないのです。

 

承認欲求が適切に使われているのであればそんなに騒がないはずで、そもそも承認欲求が適切に満たされているのであればそれを気にすらしないでしょう。

 

本来そんなに悪く言われるようなものではないものが悪く言われる背景にあるものも同時に見ておいた方が良いでしょう。

 

 

承認飢餓と自己愛

 

ヒトのような社会的な生き物にとって、集団から無視されたり馬鹿にされ仲間外れにされた時に、ショックを受けるのは「当然の自然反応」であって、それ自体は何ら悪くも病気でもないわけです。

 

それが著しく否定され続けた結果として不足を補おうとするのも当然の自然反応であり、その形式が負の形であれ「その環境・状況下においては自然な反応であり適応の結果」ともいえるんですね。

 

飢えたら食べ物を探す、得ることに必死になる」のと同様に当たり前です。飽食社会で衣食住に満たされた人が、飢餓に苦しむ人々を見て「何必死になっちゃってんの?」というのは、相手の置かれている状態を無視している姿です。

 

 

 

➀ 人として存在意義・存在価値を過剰に否定される ⇒ ➁ 自己肯定を得られず飢餓に陥る ⇒ ➂ 自律的な安定を失い自己愛によって補おうとする  ⇒ ④ 過剰な承認欲求を外部に求めることで自己を備給しようする  ⇒ ⑤ 周囲から「承認欲求の強さ」を否定される  ⇒ ➁に戻る

 

これが繰り返されることで、承認飢餓ループから抜け出せなくなり、それが慢性化することで人格化するわけです。これは別の角度から見れば「イジメの構造」に重なるものでもあります。

 

「特定の対象」を集団からはじき基本的な「承認欲求」を認めないことで、承認飢餓ループに追い込み、そして心の飢餓感による当然の自然反応を「承認欲求が強い」とラベリングすることで否定し続けるわけですね。

 

だからこそ承認飢餓ループが終わらないのにさらに人格全体へ向けて攻撃するわけです。ですが本来は、➁ ⇒ ➂の段階自己肯定感を得られれば、承認飢餓は弱まり、過剰な自己愛の備給に向かう悪循環にはならないのです。

 

健全な信頼関係による繋がりや支えが少なく、「成長過程での必要な要素を共に充たし成熟させ肯定的な変化と可能性へ向かう」という長いスパンでの眼差しが希薄な社会だから、

 

デジタルな目線で「目立つ点」への攻撃によって潰しに入って、逆に「承認飢餓」が強化・慢性化したりすることがアチコチで生じくるわけですね。

 

しかもそもそもの最初のキッカケは人格の問題ではなく「状況に対する一時的な反」に過ぎなかったものですが、それが見過ごされて繰り返されることで、「人格的なもの」のように慢性化・肥大化していく、ということですね。

 

実際、本人の強い承認欲求以前に、「それを取り囲む状況」の方が苛烈で狡猾で酷い、ということもよくあります。

 

そうであるならばまず変えるべきは「それを取り囲む状況」の方であって、「本人の在り方」ばかりに全ての原因を求めるのは偏っているのです。

 

なのでそこをどうすればいいか?を自他共に考えることが建設的な方向性であり、「承認欲求の強さ」を指摘してやみくもに否定して追い込むだけの在り方は解決に繋がらないのです。

 

ですが「過剰に承認欲求が強い状態である」という傾向性やパターン性を把握し明確に考察するために、「ラベリングして言語化し理解すること」にも意味はあります。

 

ようはそのラベリングを「過剰に攻撃する」ことや「自己嫌悪」に使うのではなく、自他共に「何故そうなったか、そしてどうすれば解決するか?」へ思考やエネルギーを使う、ということです。

 

そして集団による不毛な否定・攻撃は、ますます個人を自己愛過多の傾向性へ向かわせる心理的力学にしかならないのですね。

 

他者・周囲の否定的力学が強く作用し続けている場合での承認飢餓による自己肯定感の不在」の場合では、「個人のみで自己肯定感を回復して動機づけて成長・向上していく」ということはなかなか難しい場合もあり、理想通りにいくとは限りません。

 

それは個人の気質・性格・能力・体力・状態・環境にもよりますし、「周囲の理解ある眼差しによる外発的な動機づけ・支え」が必要な場合もあるでしょう。

 

とはいえ、「環境や周囲の人の理解・眼差しや接し方」が、「本人に対して肯定的な作用」へと変わることが全く期待できない状況下にある人もいるわけです。そうなると外発的な動機づけ・支えも頼れないのです。

 

余程運の良い人を除いて、人生においてそういう不遇な時というのは誰にでも多かれ少なかれあり、人によっては長期間、孤立無援に近い状況を余儀なくされる、ということも現実に在るわけですね。

 

承認欲求の悪用による支配と依存

 

そして承認欲求は悪用されることも多いんです。パワハラ上司にせよ毒親にせよ、詐欺師的な輩にせよ承認欲求を「悪用」するわけです。

 

それも 最大限に「相手のため」という顔を装った「自身のためだけ」』 に。よって健全な動機付けでの「与えるべき承認」を与えず、自身のためになる時だけに承認を与えます。

 

こうなると、「承認飢餓に陥った子供・部下」は「親・上司のレアな承認」を得るために、 「歪んだアメムチ操作」で「強迫観念的条件付け」を仕込まれていくわけです。

 

このように承認欲求システムには正負のシステムがあり、カルトブラック企業にだって承認欲求システムがあるんですね。

 

彼等・彼女たちは「上」に認めてもらうことは何よりも喜びであり、大量のドーパミンを放出することでしょう。笑  「支配・依存性がある関係性」では自身の承認欲求の充足が「支配・依存対象(他者)の評価」のウエイトに大きく傾いている状態だからです。

 

このことが認知的不協和を生じさせ、理想自己(あるべきもの)と現実自己(あるがまま)が統合できず、自己分離的に一方が肥大化し、

 

ますますイビツで極端な動機づけ=洗脳にされていくわけです。そして下を操り徹底支配し滅私奉公させて搾取し抑え続けながら、上はガッポガッポと財をかき集め、

 

「絶対者・カリスマ」という印象操作で承認欲求を独占し、自己中心的な物心両方の富の一極集中を形成し、どこまでも醜く自己肥大化していくのです。

 

そして「自身のイエスマンと都合が良い者」だけに、「承認」の分け前を「ホレ!」とくれてやるわけですね。

 

ドーパミンワンコはシッポふりふり大喜び。アメムチの外発的動機づけに首ったけ状態に堕していくわけであります。こうやって下のモチベーションをコントロール下において、支配関係を維持・強化しているのです。

 

生かすも殺すも「上」次第、そういう外発的動機づけメインな心理状態で固定的な場に置かれている場合、強迫観念的に頑張ってでも、「ここでの評価を高めない限り存在価値をどんどん奪われていく」という恐怖不安に強く条件付けられていくのです。

 

「動機づけ」は脳内に条件付けされた物理的な反応・運動性でもあり、精神論で一方的に批判だけしてもダメです。

 

こういうものは権力・権威をもった自己肥大者たちに悪用されやすい諸刃の剣でもあるので、段階として「関係性の負の作」を強く受けている場合には、順序としてこれをまず先に否定的に考える必要性があるわけですね。

 

そこがわかっていないから、「人や環境のせいにするな!」と全部自己責任にして非力な個人だけを追い込む、の一辺倒の姿なんです。

 

そして歪んだ権力・力関係の支配があるコミュニティや組織において、「意図的な承認欲求の操作によって強迫観念的に方向づけされている人」の数は想像以上に多いのです。

 

なので承認欲求が否定的に言われる背景にあるのは、承認欲求の悪用が多い社会の機能不全の構造性にも問題があるのです。

 

例えば昔のムラ社会の伝統的な承認欲求システムへの束縛・強制のイビツさに気づいていても、昔は村八分が怖くて言えなかっただけで、内心ではわかっていた人も結構多かったでしょう。

 

生きていく世界が物理的に条件的に強力に限定・固定されていたら、それを受け入れる以外に選択肢がないでしょうが、現代ではそういう負の環境下において無理に内心にとどめておく必要はなく、表現することが可能です。

 

そのような自然反応としての表現を「過剰な承認欲求」だと封殺することは、同調圧力による束縛や表現の抑圧化でしかないのです。

 

 

そして「心理」は「物理的なもの」のように「誰かが独占している、あるいは独占できるものではない」ように見えますが、社会システム・コミュニティ内での立場・関係性・動機づけによって、「心理作用の質・方向性の相対差」を生み出しているわけです。

 

それにより、負の力学による理不尽な形で「ある人は大量の承認を得、ある人は殆ど承認を得られない」という格差(過不足)が生じています。

 

では記事のラストに、幾つかの外部サイト記事を紹介してます。特に為末大さんの「承認欲求」の捉え方はとても素晴らしいと感じました。

 

「誰の得にもならないのに人を攻撃する人が多すぎる」より引用抜粋

攻撃的な書き込みにはある共通点があります。それは「承認欲求」です。平たく言うと「もっとかまってよ」ということです。

幼児期の母親のように自分を無条件に受け入れてくれる存在が見当たらないから、イライラしてネット上で攻撃的な言葉をまき散らしてしまうのかもしれません。

面白いのは、攻撃的な人は、第一印象は敵にしか見えないのだけれど、ちょっとかまってあげると、案外いい人で、敵どころか味方のように応援してくれるようになったりすることもあります。
(中略)
他人をわざわざ傷つけるようなことを言ったりやったりする人は、太古の昔から社会に一定数必ず存在しています。そのつもりはなくても人を傷つけていることだってあります。

誰もが豊かで幸福な時代になれば、他人を傷つける人はいなくなるでしょうか。僕にはどうしてもそうとは思えません。むしろ「誰も絶対に傷つかない世界」があるとしたら逆に怖いですね。

正直な感想が人を傷つけたり、大半の人には正しいと思えることが一部の人にとっては受け入れがたいことだったりもするのが世の中です。

と言ってしまうと何の解決にもならないのですが、僕は人を攻撃する人は人から注意されたり懲らしめられたりしなくても、すでに罰を受けていると思うのです。

限られた貴重な時間を、呪詛の言葉を吐くという何も生まない行為に使わずにはいられないということ自体が懲罰のようなものです。

珈琲でも飲んでのんびりすごせる時間に、わざわざ副作用のあるようなことをしているわけですから。人を故意に攻撃する人は、その言葉が相手を傷つけるということをわかったうえでやっている。

つまり、自分もその言葉で傷ついたことがある人だと思います。そういう経験がないと、相手を傷つけようと思ったときにわざわざその言葉を選ばないでしょう。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 誰の得にもならないのに人を攻撃する人が多すぎる

 

◇ その他・関連外部サイト記事の紹介

羽生結弦選手と「承認欲求」

「承認欲求を満たす」ことがなぜ罵倒語のように機能するようになったのか?

 

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