今回はカルト・スピ系の最終回です。そろそろこのテーマも終わりで良いでしょう。とはいっても全てを考察し終わったわけではないので、補足記事や他の角度からの考察記事は今後も色々と書いていく予定です、あくまで「このテーマをメインに記事を書いていくのは今回で終わり」という意味です。
このテーマをメインにするのはラストということで、今回はやや厳しい感じの文を「敢えて」書いています。
霊的な自我肥大者たちの心理
たまに「霊的な世界を現実にそのまま現すことが私たちの役目」みたいなオカルト原理主義者がいますが、それが様々な種類の霊的な自我肥大者たちがみなこぞって「我こそは真実」の名の元にやっていることなんですね。
そして「霊的な世界を現実にそのまま現すこと」というのは、統合失調症やある種の人格障害によって、「分裂・退行化した意識状態」になった時に発現する「低次・原始的防衛機制」と同質のものを含んだ自我運動ともいえるんですね。
参考に以下の過去記事もどうぞ。
⇒ 霊的絶対者とカルト組織と信者のスパイラル構造 part2
それは世界に何の調和ももたらしません。独裁的な霊的自我肥大者のものの見方を万人に押し付け、その幹部と身内たちの好き勝手放題の世界を作り出し、病的な分離と権力の世界を生むだけです。
本当の意味で「霊的な世界を現実にそのまま現す」というならば、それは原始の世界に戻ることを意味します。その時、あらゆることは大自然の法則のままに表現されるからです。つまり新石器時代あたりに戻るということなんですね。(言うまでもなくこれは完全なる集団退行ですね。)
それ以外の「霊的な世界」云々は、教祖の思考の世界に全世界を同一化させるというだけの意味しかありません。それは最悪の狂気の世界です。信者以外の誰も望まない異常な世界です。
つまり、「霊的な世界を現実にそのまま現す」ということは「退行か狂気」そのどちらかにしかなりません。前者の場合は、「無意識を一切統合せずにそのまま顕在化させる」、つまり原始人及び自然自我への先祖返りであり、
そして後者の場合では、病的なオカルト原理思考をそのまま全人類の思考と同一化させ、その思考を現実化するということです。
病的なオカルト原理思考に見られる「原始的防衛機制」は、幼児的万能感と関連にしています。だから自我肥大化したオカルト教祖は「王様気分」で、人でも世界でも何でも思い通りにしようとしたがるんです。自身は神の代弁者のつもりでしょうが、その本質は「大きな赤ちゃん」と同じ心理状態。
ちょっと気に入らなければすぐに人事を変えたり、予言が外れても取ってつけたような理屈で正当化し、教義は都合でコロコロ変わり、言ってることもやってることも矛盾だらけであるにも関わらず、子供じみた幼稚な振る舞いをして、まぁそんなことばっかりやってる「幼児性の心理」です。
さらに有名人やらを無理に教義に取り込もうとしたり、他宗教の教えやら科学知識やらを我田引水して「その宗教以外の素晴らしさ」で塗り固めた寄せ集め宗教じゃないですか。
まぁ信仰自体は自由で心の何を信じてもそれは自由なので、存在してもいいんですが、どうしてもやりたいんだったら趣味的に個人で信じて他者に押し付けずに一人でやればいいんです。
それだったらまだ実害はなくて済みますし、その方が治療の可能性だって全然あります。(カルト的な教祖・指導者のような存在になっちゃう病的な自我肥大の人は、もう治療の可能性は殆どないです。)
オカルト原理主義的な生き方
カルトを筆頭に、病的なオカルト組織・思想など、他者に多大なお金や時間や労力を使わせて努力させること自体が異常であり、まぁ実際には、それを本気で相手する人なんて数千人に一人くらいしかいないでしょうけど、
それでも一旦盲信し、そして「自分が間違うはずがない」という思い込みが強くプライドが高い人ほど後に引けなくなるんですね。うすうす気づいている場合でも、もう既にいろいろ周りに言い過ぎてやり過ぎてて、今更「私は愚かでした、間違っていました」とはなかなか言えないまま、変に意地を張るようになる。
だから結局行くとこまで行って思い知るか、もう病的な一本道しかなくなるために失うものも大きくなる。なので私は「変なプライドのない下の信者の方がまともな人が多い」と分析しているわけです。
凡夫の方がよっぽど健全ですから、そんな病的な教えなど適当な感覚くらいでやってる人の方がよほど救いがあります。そんな組織で上に上がっていくような人、平気でその立場に居続けられる人なんて、ありのままに事実を見ない、物事の本質を見ようとしない人でしょう。
そして信者は無意味な使命感を持たされて、「私は光の戦士」とか「高尚な目的を遂行している存在」とかの選民意識状態になり、組織内の格付けによって競争心をエスカレートさせていくわけです。
本人は「自分は闘争的・攻撃的ではない」と思いこんでいますが、大体においてこういう人々は表面は穏やかで真面目な感じですが、心の根っこには凄いプライドがあって闘争的な状態が慢性化してて、その自覚がなくもう完全に麻痺してるんですね。
だからちょっと突っつけば「真理を守る」っていう大義名分を持ち出して、すぐにわめき出すか、完全無視の否定・排斥をします。結局、抽象的なものを絶対化して勝手に優越感に浸っているだけの在り方は、それがどこの組織であろうが「同じ心理状態」に行きつくということです。
これまで日本の有名どころのカルト系宗教の様々なケースを生で見てきました。
私が見た中で一番大変そうなのは二世の人ですよ。親がやっていたから自動的に押し付けられるって本当に迷惑でしょう。物心つく前から一方的に教えを刷り込まれていくわけだから。
「親と子の問題」というのはそれだけでも深くややこしいいものである上に、さらに「カルト系宗教」なんていうものが絡んでくれば、この溝はどうやったら埋まるでしょうか?
他にも「子供がキリスト教系で親が仏教系の新興宗教で家庭内対立している人」とかもいましたね。これも酷いものでした。全く分かり合えないんですね、別々の新興宗教を互いにやってる人っていうのはホントに最悪に排他的で独善的な意識状態です。
そんな姿で一体何が「愛」なのでしょうか。互いが盲信した「観念」だけしか見ておらず、自身の姿・していることをありのままに見ることができないんでしょうね。
【追加更新】2017/2 – ここから –
この記事自体は2013年に書いた記事ですが一部追加更新します。私は、日本に元々ある伝統的な禅・仏教・神道の方にもう少し文化的な努力をして頑張ってもらいたいんですね。
時代の変化や若者向けにもう少し工夫してほしいですね。やっぱりちょっと高齢者向けな文化のイメージが強いので。
あと信教の自由をいいことに「宗教的行為」の名の元に詐欺や犯罪同様のことが平然と行われ続けていることに対応できる制度・法律の見直し・更新が必要だと思います。
どんな会社・組織に入るのも個人の自由だし、どんな仕事を選ぶのも個人の自由で、同じように「宗教」を信じることは個人の自由ですが、
社会に属している以上、それがどんな仕事であれ何の組織であれ、あまりに杜撰なことや酷いことが行われていればどうやったところで社会問題になるでしょう。
ブラック企業はテロなどしませんし、直接人を刺し殺すわけではありません。学校のイジメ自殺もそうです。しかしだからといってほっておくのですか?ということ。
「もはや宗教とは言えない、宗教的行為を悪用したただの詐欺行為で、個の侵害があり多くの人々に不幸をもたらす」と客観的に認められる内容である場合、宗教の範囲で片づけられるものではなく、カルトは宗教の問題を超えた「社会問題」として扱われるべきものです。 参考PDF ⇒ 信教の自由というリスク
とはいえいきなり警察や公安などの強い権力が介入するというのではなく、段階的処置として「ブラック宗教」、「カルト宗教」などのラベリングを公的に付加し評価を下げる、そういう「中立的な権限のある第三者機関」が必要でしょう。
それでも全く改善しない場合は「法人資格取り消し処分」でいいでしょう。
例えば、悪質・危険度を3段階のラベルで分ける場合の例
➀ ブラック宗教 (ややカルト的) ➁ 精神崩壊カルト ➂ 危険破壊カルト
➀は期間限定の注意・指導で改善が見られればラベル解除、➁ は期間限定の活動制限・停止命令で、期間内に改善が見られない場合は「資格を剥奪」、改善が見られればラベル解除で➀のラベル段階へ繰り上げへ ➂は警察・公安が実行的に介入。
警察や公安などが実行力を発揮するのはいよいよ危険な暴走レベルに達して事件になった時の最後の出番、あるいはその直前か事後の対応・処理でしかないわけです。
宗教というのは科学とは違います、また「ただの一般論」の範囲に収まるものではありません。そうであるならばそれはもう宗教ではないんですね。たまに宗教の本質は「反社会的」なもの、というような学者や宗教家がいますが私はそうとは考えません。
宗教は「社会的な価値観とは異なるもの」、「非科学的」「見えないもの」を含むところに特徴がありますが、=「反社会的」とは限らないのです。
宗教が作られている以上、宗教が「非科学的」で「常識とは一致しない」のは当たり前です。なので、「非科学的」「常識とは一致しない」「見えないものに価値を置く」であることを持ってカルトとするなら宗教はみなカルトです。
そしてどんな宗教であれオカルト的要素を含みますが、オカルト的要素それ自体は「反社会的」とは限らないんですね。しかも「非科学的」「常識とは完全一致しない」であるからといって必ず人を不幸にしたり傷つけたりするとは限りませんし、無価値で迷惑とは限りません。
それが「社会・一般・常識の範囲に収まり切れない部分」を補完する働きとして、役割に徹しているのであれば、その多くは問題はないどころか、そして非合理的には観えても、人間にとって意味・価値・必要性があるのです。
ですが「反社会的」なカルト宗教や病的なオカルト妄想は、自他を不幸にしたり傷つけたりすることが多々あるわけですね。
「反社会的」なカルト宗教や病的なオカルト妄想は、「社会・一般・常識の範囲に収まり切れない部分」を補完する働きではなく、役割以上のことを欲張って過剰にしようとする時に生じます。
何故欲張るのか?それは自我が肥大化して「全能感」に満ちた意識というのは、「自分が世界を動かしている」「私は全てを知っている」「私は常に一番正しい」という錯覚が異常に強くなるからです。
そういう人は元々「宗教に向いていない人」「宗教的・精神的ではない人」「内省能力が低く瞑想的ではない人」なんですね。あるいは「宗教をやるのが早すぎた人」です。
そういう向いてない人、センスのない人、未熟な人が新興宗教を生み出したりすると勘違いばかりが増大すします。「明確な根拠もいらず自己申告・自称だけでも成り立つ抽象的な世界」では、「勝手な思い込みの絶対化」に向かいやすいからです。
しかも特定の教義を信仰する信者だけで構成されている世界では、ズレ・逸脱が大きくなっても修正されにくいし意識化されにくいので尚更そうなりやすいわけですね。
なので、「未熟で病的な人が生み出した新興宗教」の場合、それに同化するほど「退行」「解離」の悪化に向かいやすい。そして一時的であれ組織が発展してしまうケースは余計に肥大しおかしくなるんですね。
なので本来、宗教なんてものを一から作る場合、「かなりシッカリした人、精神的な人、内省的で瞑想的な人」で、「感性も人間性も豊なバランスの良い人」でないと、あっという間におかしくなるだけです。
まぁそんな人は滅多にいないし、仮にいても普通は宗教なんて作らないので、そういうことを始める人は大体はおかしくなるか、最初からおかしい人ばっかりなわけです。
社会には役割に適した人々、その役割を最も適切に果たせる能力・経験・資格を持ったプロがそれぞれにいる。自分に出来もしないこと、ふさわしくないこと、を「全能感」で出しゃばらないことです。
そのため通常は、社会・文化と調和した伝統的な宗教組織で地道に謙虚にやったほうがずっと安全で、自我も肥大膨張しにくいので、自他にとってより調和的になるわけですね。(まぁ伝統宗教の組織やそれに携わる者たちにも闇はあるし、問題はありますが。)
警察や公安などの実行力の発揮まで待ったところで、多くの場合、社会を震撼させるほどの大きな犯罪やテロ事件を引き起こすところまではいかず、
ギリギリの腐敗状態が組織崩壊まで続く結果、「長命の精神破壊的カルト」は信者とその家族や周辺、巻き込まれた人数や不幸の累積での被害は、「短命の危険破壊カルト」以上に大きく可能性はあるでしょう。
テロや殺人などの目に見える物理的な暴力や犯罪だけが人を苦しめるのではありません。
「その宗教を信じた結果、家族も崩壊、仕事も失敗、そして生活ができないほど金銭的に追い詰められて自殺者が出る」など、そういう生き地獄に多くの人が陥る、そのような精神的・経済的な破壊的暴力性がある。
そして「加害者」も最初はただの「1信者」からスタートだったわけで、それが時間の経過と共に「平然と精神的暴力を行えるような偏狭で異常な盲信状態」になっていくわけで、最終的に加害者になっている人たちの多くも、負の作用を受け続けた結果の姿なんですね。
なのでそれより早くに、「よりソフトで中立的な権限のある第三者機関」による調査・分析・対処が公的にシッカリと行われた方が良い、と考えます。
早い段階で在れば、多くの若者たちがもっと自然に復帰してやり直すことが出来ますし、失うものもずっと少なくてすむからです。
まだ組織が腐敗化し破壊カルト化する前であれば、元信者を世間が受け入れることに心理的抵抗は少ないでしょうが、どんどん悪化して異常化した集団になって長期間放置された後に組織が分解した場合、
末期段階で信者が社会に戻っても、元信者たちは「個々の人間性」ではなく、状態や活動内容に関係なく、「一括りでみんな一緒」に見られます。
悪い印象があまりに強すぎると、「信者はみな全く同じ人間ではなく、それぞれ個々で違う人間」なのに、世間では防衛心が強く働き「一括りでみんな一緒」で対処する傾向性に向かいます。
そうなると元信者を気持ちよく受け入れたいと思う人はずっと少なくなり、なかなか健全な社会復帰ができないままの人も増えるわけで、
そういう「居場所がない人たち」が再び集まって結局は大小の分派が発生し、「負の継続」が行われるだけだからです。それは誰にとっても良いことは一つもありません。
霊的世界観の病理
私は精神世界の心理学的検証・分析・研究として、精神世界のコーナーにあるシュタイナーやスエーデンボルグなどをはじめとする数々のニューエイジ・伝統宗教・オカルト関連の本を読みましたが、
変性意識でいろいろ神秘体験したい人は伝統的な仏教・ヨガで十分なんですよね。とはいえそんなもの体験しても偉くも凄くもなく、何か凄い超能力がつくわけでもありません。
そういう世界の構造を理解するためであれば役には立ちますが、オカルト・スピ系のようにそこで現れてくるものに囚われて妄想を深める場合はかえって害の方が多いでしょう。チャネリングや霊媒などもそうですね。
そして後者の方が圧倒的に多く、だから病的なオカルト・スピ系の霊的世界観や神秘系の新興宗教などが生まれてくるといええるでしょう。
スエーデンボルグさんはキチガイか? っていうと、おそらくいい人だと思いますね。頭も素晴らしく良いし。変なオカルト教祖と違って人相も悪くないですし、信者かき集めて政治デビューして贅沢三昧女遊びの教祖とかとは違いますね。
ですがそういうことと関係ないんですね、霊的体験というものは。人格が良いから見た世界も真実とかそういうことではありません。これは人格に関係なく起こることなんです。
まぁシュタイナーもおそらく性格はとても良い人だと思います。先天的な感性に支えられた人だから変性意識のコントロールはかなりのものです。そういう人は無意識の領域に深く入っていても犯罪とか凶行とかはまずしません。
しっかり持ったままコントロールは出来ているからです。ですが、彼の本を相当読んでみて、シュタイナーの霊的世界観に病的なものを感じました。
クリシュナムルティが神智学徒の病的な霊的世界への囚われを全否定したのも必然的な反動だったのでしょう。(まぁ彼自身も己を修復出来てはいませんでしたが ー 検証済み )
ですが彼等はまだ前時代的な人々であり、当時の科学や無意識に対する理解のレベル及び精神文化の影響力を考慮に入れれば、仕方なかった部分もあります。なのでこれらの人々を責める気持ちはありません。
人間の精神文化の歴史のひとつとして、その途上での試みのひとつでもあるからです。なので、そういうものを反面教師として「原理主義化しない調和した精神文化の在り方」を試行錯誤していく必要があるわけですね。
神仏の存在価値
神仏は集合的無意識・原始的なミームから生じる元型的物語であり、それを盲信して原理主義化しても、そうすればそうするほど幻想を深め中二病的なSF世界になっていくだけです。
民族の共有物語としてその精神文化を保護しながら、個と社会を繋げるものとしての役割だけで良いんですね。また民族に調和した思想・哲学として「自我を保護する役割」もあるでしょう。
ですが伝統文化の共有物語に満足できない人々が、過剰なアンチテーゼとして別の集合的物語を創作し、それを原理主義化したものの一部が過激なカルト系の宗教に発展していくわけです。
そもそも根本認識がズレているんですね、それは集合的な物語に過ぎないのに、調和を無視した形で「宇宙の絶対真実」などとして盲信してしまうことでおかしくなるんです。
「神仏」という霊的な物語世界であるなら、既に日本には伝統的な文化と調和した優れたものがあります。なのでそれで十分という意味です。
感性的に見て「光の強い人」「徳の高い人」というのは確かにいますよ、でもそういう人はオカルト系の新興宗教にはまずいません。そういう人ほど、どこかの教祖や手前勝手な教義などを盲信せずに普通に生きています。
後、信仰心というものは大事ですが、それは教祖や教義などを盲信する態度のことではありません。私は信仰というものはもっと深いものだと感じますね。私にもある種の「信仰心のようなもの」はありますが、それは教祖とか教義への盲信ではなく、
そういうものを否定したところからの探求によってのみ見えてくる「その内奥にある何か」に対しての自然な畏敬の念ですね。そこに形はなく固定的な対象も概念すらもありません。
変な組織に騙されてせっせと働いて大金を払っても真理なんて永遠に買えません。そしてそもそもそれが「特定の組織・教義・思考・人物」それ自体にある、と思っていることが「霊的世界の認識の病理」を生むわけですね。
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