社会の現状を見るならば、自我の状態を出来るだけ調和させ統合していく、という方がより多数の人の役に立つことでしょう。そしてより少数の人にとっては、そういうことをしても何の役にも立たないこともあるでしょう。
既に苦しみ優位の現実と心の悪循環状態がガッチリ形成されている場合、調和させたり統合すること自体が難しい、あるいはほぼ無理だからです。
この場合は、先に環境を変えることを含めて現実的な防衛・避難・治療・保護救済措置などの具体的・社会的対応が必要になることもあるでしょうし、心・精神へのアプローチはその後です。
ですが物理的に環境を変えても傷んだ心・精神、過去の記憶は一緒についてきます。なので物理的対応だけでは拭いきれないものへのアプローチも必要なわけです。
脳科学・深層心理学的に見た仏教・神道
仏教には六道輪廻・解脱・悟り・涅槃などの世界観があります。これは見方によっては脳科学・深層心理学的にも対応しているし、現実にも対応しています。
六道輪廻の地獄界は、「地獄のような人生」という現実や、「地獄のような意識状態」という心の在り方が実際にありますし、餓鬼界もそうですね、「飢餓に苦しむ人々」が世界には億の単位で現実に存在し、
また「飽くなき貪欲さ」という心理的な飢えや渇きも存在するわけです。修羅の世界もそうですね、飽くなき闘争と蹴落としあいという現実や、その心理も存在するし、「本能的・衝動的な意識が優位な人」もいます。
天界のような現実・心理も少ないですが存在するでしょう。そしてもっと少ないですが、それらの思考の輪廻から完全に離れている人もいるのです。
悟り・涅槃のような世界・意識状態、というものもあるわけです。つまり人は同じひとつの空間・時間を生きていながら、現実・心理は多重構造になっていて相対的なわけですね。これが六道輪廻の姿に重なるということです。
仏教世界観をイメージ瞑想として用いるのであれば、それは心理学的にも非常によくできているといえます。六道輪廻は思考の状態、思考のループに対応し、根本的な三つの煩悩「貪瞋痴」も脳科学的に説明がつきます。
バランスを欠いた精神状態を強力な集合的物語のイメージ力で調和させる、という意味であれば、ユングのアクティブイマジネーションに通じるものだと思いますね。
例えば地獄界に落ちる原因を、怒り・憎しみの心の結果だと仏教ではいいますが、これは脳科学・深層心理学的に見ても、確かに地獄のような意識を形成する要因となり、現実も否定的な状況になっていくでしょう。
飽くなき激しい貪欲さを持つ場合もそうですね。常に「心の飢え・満たされない思い」に苦しむ。これは地獄界・餓鬼界が他の世界に実在する、ということを意味するではなくて、「今現在の心の状態として」、そして「その心の投影である現実として」存在する、ということなんですね。
そういうことを踏まえているのであれば、仏教はそのまま心・精神のイメージ療法にもなる。古来の人は知恵がありますね。
私は温故知新という言葉が好きです。過去の人々の試みや感性の中にも素晴らしいものが沢山あり、それを盲信したりするのではなく、逆に、「つまらない、古い、迷信だ」と簡単に切り捨てるのではなく、「今に生かす」ということ。
そういう目で見れば、ほんとによくできている感性的な治療法です。八正道や十二縁起の解釈もそうですね、心理学的に見れば理に適っているし、宗教的にというより、日常的な自然な形で取り入れれば、良い効果はあります。
過去生は「過去」に、今生は「今現在」に、来世は「未来」に置き換え、カルマは「原因」に、修業は「努力・学び」に、悟りは「気づき・理解」に置き換え、その上で「一日一生」を中心に据えるのであれば、
生きていることが禅であり瞑想であり修行であり、「前後の生」など想像することは余計なことに過ぎなくなり、仏教の本質で見ても、それが「今を生きる修行者」の本来の姿のはずだし、一般人にとっても普通に役立つわけですね。
仏教をイメージ療法的に使うのであれば、それは「社会的自我と存在の不調和を調和させる」という働きや、「過剰な自然自我の働きを弱め、調和させる」という働きがあります。
また潜在意識領域にも働く物語イメージの力があるので「深い部分の不調和の癒し」にもなるんですね。原理主義・根本主義的に盲信するからおかしな妄想世界や狂気になるのであって、
そのように自我を肥大化させるような方向性でなければ、それは自我を破壊から守り保護し、そして内外を調和させるために役立てられるものでしょう。
神道もそうですね、岩・山・海・川・森、生きとし生ける全ての存在がただそのまま在る、その自然の美しき姿への気づきと畏敬の念、そして自然の無量の恵みによって生かされている感謝の念を感じさせる、
そういう素直でシンプルな心を思い出させます。これは自然自我の浄化、そして調和と強化、癒しにも繋がります。
自我を強め生きる人、自我を弱め離れる人はどちらも必要
私は若い頃から、いろんな修行者や聖人とか悟ったとか言われる沢山の人々を分析・検証してきましたが、脳科学・深層心理学と感性で総合的に見て、自我圏内の運動を超えている方は非常に少なく、むしろ無意識領域の罠にドップリハマっている危険な人の方が多かったですね。
私が過去に分析した人はみな、現在は多くの人々からカルト指定されているか、何らかの裁判・トラブル・社会問題を生じさせています。じゃ、やっぱり自我・欲を離れて生きている聖人なんて現代には一人もいないんだ、というとそういうわけでもありません。
近代の聖人ではラマナ・マハルシという方は、おそらく純粋意識の状態を確かに知り、そのままそこでとどまり生きていた稀有な方でしょう。(これは感性的なものなので、科学的に証明できるわけではありません)
ですがそれは条件が揃わない限りは継続できない特殊な状態で、通常は自我を中心に人は活動しているわけです。そしてそれでいいんですね。人にはそれぞれ役割があるわけですから。
みながみな一生山に籠って自我や世界を静観していればいいか?といえばそういうことではないからです。ですがラマナ・マハルシのような方もいてもらわないと困るんですね。
そうでないとグルビジネスとカルト系新興宗教・強欲な霊能者たちの肥大化した自我によって、何もかも汚されてしまい、何が真実かもわからなくさせられてしまいますから。
このブログは、大きく分けて二つのアプローチを紹介していますが、メインは悟りの方向性よりもやっぱり自己統合の方向性ですね。
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