境界性パーソナリティ障害の治療  弁証法的行動療法(DBT) – マインドフルネス

 

マインドフルネスをとり入れている認知行動療法に弁証法的行動療法があります。マインドフルネスに関しては、以下の記事を参考にどうぞ。⇒ マインドフルネス 認知療法(MBCT)・ ストレス低減法(MBSR)

 

弁証法的行動療法(DBT) は、アメリカの心理学者マーシャ・リネハンが 開発した認知行動療法なのですが、マーシャ・リネハン自身が重度の境界性人格障害であり、それを自ら克服した人なんですね。

DBT の治療は大きく分けて以下の4 つの要素からなりたっています。

 

1 マインドフルネス (現在の瞬間に意識を向けるスキル)   2 対人関係のスキル (効果的なコミュニケーションと関係構築)  3 苦悩耐性スキル(ストレスや苦痛への適応力を高める)    4 感情調整スキル(情動のコントロールと適切な表現)

 

2番の 「対人関係のスキル」を除けば、3番の「 苦悩耐性スキル」や4番の「感情調整スキル」に関してもマインドフルネスが応用できると考えます。

DBTは境界性パーソナリティ障害に関連した情動調節不全による自殺衝動・リストカット・過量服薬など自己破壊的な衝動行為に特に有効で、アメリカの精神医学会は境界性パーソナリティ障害の精神療法としてDBTを推奨しています。

また、PTSD(外傷後ストレス障害)・摂食障害・双極性障害・発達障害・薬物・アルコール依存症などにも治療効果があるという報告もあります。

DBTは、エビデンス(※この治療法が良いといえる証拠)の確認されている数少ない精神療法のひとつですが、日本ではまだ治療者の養成システムが未発達であり、

しかもDBTを受けるための医療環境も整備されていないなどの問題もあります。それは今後の課題でしょう。参考PDFを紹介します。参考PDF弁証法的行動療法の有効性と問題点

 

 

境界性パーソナリティ障害

アメリカの統計によれば境界性人格障害の約80%は女性とされています。大抵の場合、人は「自分自身の言動の傾向のアンバランスさ」は「元々の個性」だと思い込んでおり、それを後天的なパーソナリティの障害だと明確に全体像をとらえてはいません。

そして、「ゆっくりと自身を静観する」という時間や習慣を日常に持たない場合、それは難しいことです。

「明らかな精神の異常性を幼い子供の頃から発現させる人格障害」の場合は、何らかの先天的な機能欠陥を持っている場合も考えられるでしょうが、本当に生粋に「先天的な要素だけ」という人は非常に少ないでしょう。

そのように見えるケースでも、よく調べると幼児期の虐待や何らかのトラウマなどが深く絡んでいたりもします。つまり後天的な「本人以外の負の力学」が絡んでいるわけですね。

 

そして幼児期にそのような深刻な虐待トラウマ体験がない場合でも、長期的な生育環境の中で様々な大小の負の力学に晒され続ければ、その負の記憶が認知を条件付けそして負の形状記憶(不調和生み出す原因、スキーマ)となって意識下に形成されていきます。

だからもし本来その人自身に与えられた心身の内的機能が破壊されたり捻じ曲げられたりせず、調和して自我が成長しているならば、そのようにはならなかったなずなのです。

自我同一性が形成されると、「自分」という存在は社会にとって意味があるもので「今ここで生きていること」へ自然な肯定的実感が生まれます。

ところが境界性人格障害の人は、この同一性が崩れて意識内が不調和に分離化しているために、「確固たる自立した自己感」が無く、感情が安定せず、その結果、「自身の心」を拠り所と出来ずに他者に依存し、過剰な投影・同一化をしてしまう、ということです。

だから自身へのイメージも相手次第で良くもり悪くもなり、「他者」によって感情や気分が大きく左右され、外的な干渉によって心が大きく変化してしまう状態なんですね。

 

境界性人格障害の人は、突然ヒステリックに怒り出して相手を激しく罵倒する割には、内面の自己像に関しては希薄で空虚です。

様々な気分の浮き沈みや情動の激しさは、内的に形成された負の形状記憶(不調和を生み出す原因、スキーマ)こそ主因であるわけですが、そして後天的に植え付けられ付加された「外部の力学」の影響の結果でもあるのですが、

本人は「不調和を生み出す形状記憶体」を「自分自身」だと思い込んでいるために、常にそこを中心にした世界・外部への認知・投影を行ってしまう、ということですね。

それは「特定の無意識への同一化」に過ぎず「その人自身の全体性」ではありません。つまり「自身の意識の全体性から激しく分離した、部分的な記憶・経験から投影される感情を、自分全体の心だと思い込んで囚われている状態」です。

 

とはいえ強く囚われている以上、それが「自分自身の性格と個性のようなものに既になっている」とも言えまが、自我というものは本来「絶対性を持たない全体性と共にある性質もの」であり、意識は部分に完結したものではなく、全体性として存在するものです。

なので、意識下に形成された「負の形状記憶」の核力によって中心性を持たされた状態での「私」は、「全体性として存在する意識と調和した自己」が中心となっている状態の時の「世界・対象の見え方」を理解出来ないままなんですね。

よって、過去に形成された分離的な状態を中心とした「世界・対象の見え方」を基準にして自他を見ているまま。

それは過去の負の力学やストレスで形成されたとはいえ、そして既に過ぎ去った「過去の印象」であるにも関わらず、それが理解され意識化されていないために、「現在」にも自動的に印象が投影されてしまうのです。

そのために、何もかもが周囲のせい、他者の与えるストレスのせい、などと、内的な原因で起きている現象でさえ、外的な原因に置き換えてしまう傾向が強くなるのですね。

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