どうにも乗り越えられない障害にぶつかった時は、頑固さほど役に立たないものはない。 - ボーヴォワール -
自分自身が無知であることを 知っている人間は、自分自身が無知であることを 知らない人間より賢い。 - ソクラテス -
ソクラテスのこの名言は好きですが、ソクラテスの「知」は学者的な意味での「知」であって、西洋的な「知」の概念ですね。
ですが「知」はもっと多元的で、本や専門知識、学問からは学べないことは人生において本当に多いと感じます。
では本題に入りますが、今回は禅・瞑想のカテゴリー記事で、主にマインドフルネスや瞑想の補足記事として書いています。
マインドフルネスはヴィパッサナー瞑想(観の瞑想)が主軸ですが、慣れるまでは集中(止)と観察(観)のふたつの瞑想を行うという意味では、止観の瞑想を行うわけです。
「集中・統一(止)」の瞑想をサマタ瞑想といい、今日はそのことも少し補足して書いています。
マインドフルネス瞑想で、よく「思考をしている自分を見つめる」的な説明があります、例えば身体の感覚(呼吸・すべての感覚)に気づくとか、
自動思考(頭に浮かぶ雑念・思考言葉・イメージなど)に気づくとか、「気づいている自分に気づく」とかですが、本質的にはこれも全て多元的な自我の運動への気づきなんですね。
自我の運動への集中(止)と観察(観)によって、メタ認知能力を高めつつ広げているのです。メタ認知を高めることで、主我(無意識を含む)の勢い・暴走を沈静化し、冷静な落ち着きが得られるわけですが、
欧米では瞑想は悟りの方向性ではなく主に自己実現の方向性でヴィパッサナー瞑想が編集的に使われているため、また医療的な意味でも、ネガティブなループを外すという方向性で編集的に使われているため、その役割においてはそれでも全然問題ないのですが、
実際は、この瞑想法による「気づき」の深さ・広がりは共に限定されており、一般的な意味でのマインドフルネス瞑想では無意識のもっと深く広い部分に触れることは出来ません。
「観の瞑想」における客観性というものは、「ただそのままに何も評価せずに全体性を見つめる」ことであり、通常の自己反省的な意味合いはなく、
例えば「醜い私=自我」を客観的に見つめる、「醜い自我の在り方に気づく」というような言い方でマインドフルネスを説明するようなやり方は、観念的な内省的な見つめ方を強化するだけであり、
まぁそれはそれで一般的な意味では自己統制に繋がり、自己を内省的な意味で客観的に見つめる能力を高めるので、内省能力が低すぎる自己中タイプの人にとっては道徳的な意味での「社会的自我の成熟」には役立てられますが、
元々自己肯定感が弱い人や罪悪感が強い人、内省的で生真面目な人、不安感が強く繊細で不安定な人が、そんな深刻な内省能力をさらに強化しても、心が重くなり内部の束縛を強めるだけです。
マインドフルネスは、「醜い」とか「美しい」とか「善い」とか「悪い」とか、批判も選別もせず「ただ見る」ことです。
通常の場合、瞑想に危険はありません。関連外部サイト記事をしょうかいしておきます。
[PDF]マインドフルネス認知療法 – 熊野宏昭 より引用抜粋
マインドフルネス実践の方法論上の特徴
一貫して「今、ここ」での身体の動作やそれに伴う身体感覚に持続的な注意を向ける(注意の持続)。
そして、そこで不可避的に現れる思考や感情などの私的出来事に対しては、気づいた時点で身体感覚に注意を戻すようにする(注意の転換)。→サマタ瞑想
注意の持続と転換が安定して維持できるようになったら、注意の範囲をパノラマ的に広げて、意識野に入ってくるもの全てに、同時に気を配るようにする(注意の分割)。→ヴィパッサナー瞑想
身体感覚、思考、感情など全ての私的出来事に、気づきが触れることで、それ以上発展せず消えていくことを繰り返し確認する(法則性の洞察=智慧の発現)。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
上の引用記事にもサマタ瞑想(止の瞑想)が出てきますが、サマタ瞑想はひとつの伝統的瞑想法であり、本来はもっと深い瞑想技法であるので、
補足としてもう少し詳しく書くと、原始的な衝動・本能的感情の抑制に作用し、主我(自然自我)、あるいは身体的自己に集中し働きかけるもの、と捉えられます。
また、無意識領域に深く入るのもサマタ瞑想(止の瞑想)ですが、これは対象との主客合一によって、自他分離を消失させ、境界が取り払われることで生じるものであり、
その結果、感性的にダイレクトに対象を捉えることは出来ますが、それは「無意識との同化」でもあるために、囚われの強さ・無意識の内容・状態によっては危険性があります。
例えばその瞑想の実践が伝統的ではない新興宗教の組織や、霊能者のような人による指導であったり、そうではなくても「瞑想を指導する者」が不適切なやり方や過剰な行法をやらせたりするような場合です。
ヴッパサナー瞑想(観の瞑想)は主に前頭葉に働きかけることで、メタ認知能力の強化の方向性である、とも言えますね。
上記の引用記事に出て来るサマタ瞑想とか一般の方が行う瞑想や行法は、大抵が初歩的なもので深く入るものではないので特に問題はありませんが、
仮にもっと瞑想を深めて本格的にやるといういのであれば、心・精神のバランス異常の方の場合はヴッパサナー瞑想(観の瞑想)を中心に深く行った方が良いと考えるのは、
心・精神のバランス異常の多くに見られる「衝動制御の障害・情動制御不全」などの状態においては、前頭前野の機能低下をまず先に回復させることが必要であり、
つまりメタ認知能力の強化を行い、その後に主我に働きかける順番の方が安全である、ということなんですね。
例えば「大脳辺縁系」の前帯状回が活動過多の状態では、負の思考・行動パターンがループ化し止められなくなるなどの悪循環が生じると考えられているわけですが、
この「前帯状回の活動過多」は前頭前野の活動が亢進するほど抑制される方向性へと向かう、といわれています。
つまり、この脳科学的な知見で考えた場合、ヴッパサナー瞑想(観の瞑想)によるメタ認知能力の回復及び向上は、前帯状回の活動過多を抑制・沈静化する、ということですね。
そして私の場合は、脳科学的なものが先というよりも体験的なもの感性的なものが先にある認識ですが、深い無意識へのアプローチよりも先に、「脱同化」による「衝動・情動制御」の方をシッカリ行っていた方が良いということです。
原始的な衝動・本能的感情の抑制が出来ない=「メタ認知能力の低い状態の者」が「深い瞑想」に入るのは、無意識への同化と囚われによって魔境に落ちる危険があり、
この場合、一般人よりも遥かに「劣悪な衝動・本能的感情の剥き出しの無意識状態になる」、実際、このような人々が取る奇妙で異常な言動は、精神病理とよく似ており、これらは「病的退行」の一種と言えますね。
「欲求の制御能力が低い」ということは、創造的昇華を起こす前にそのエネルギーが衝動・本能的感情のままに浪費されてしまうため、それを防ぐ、という意味もあるでしょう。
もちろん仏教徒でもヨガ行者でもない人が「禁欲」や「戒律」などの強い抑制は全く必要ないですし、通常の生活において過度の抑制・我慢はかえってよくありません。ですがある程度の「衝動・情動制御」も必要であることは変わりません。
そして無意識領域に深く入るには、また深く入ってしまった場合、「心・精神の清明さ」と「活力の制御」が共になければ、危険である、バランスを崩すことには変わりありません。
順番としてまずメタ認知能力が回復してくれば、自己洞察力・衝動制御力も回復してくるため、「脱同化」を行いやすくなり、また無意識をより深く見つめる場合や、創造的退行を行う際にも、自律的なバランス回復がしやすくなります。
ではここで再び「マインドフルネス認知療法 – 熊野宏昭」からの引用・抜粋です。瞑想の本質的なところの一部が表現されています。
以下 [PDF] マインドフルネス認知療法 – 熊野宏昭より
思考の素性
思考は「無知(心の基本的状態)」に由来する。
何を考えても、それはバイアスを伴う。
思考(反芻思考)がなくても五感+自動思考(六根)
は働く。
(中略)
言葉が思考の拮抗反応になる。
思考が無くなったとき智慧が働き始める。
サティパンニャ(事実と出会った瞬間に、その本質
を見極める力)。
つまり、思考は自分ではない。 (引用ここまで)
◇ 関連外部記事・PDFの紹介
〇 瞑想って本当にいいの? 脳の中で何がおきているのか究明してみた
「形」なき自灯明・法灯明とマインドフルネスへ
以下に衝動的行動に対するマインドフルネスのセルフモニタリングの効果を科学的に考察したPDFを紹介しています。
マインドフルネスにより「モニタリングしながら行動する」という「感覚統合や情動調節の脳機能」が改善され、「原始的な回路の亢進を防ぐ」ことができると考えられる。
参考PDF ⇒ 衝動的行動に対するセルフモニタリングの効果
自灯明 「自分自身を島とせよ。よりどころとしなさい」
※本来(仏典)の「自灯明・法灯明」の意味は、四念処(4種の観想)の実践にあります。今回は別の文脈で「自灯明・法灯明」を創造的に用いています。
マインドフルネスは最初は「形」や「方法」から入るでしょう。ですがマインドフルネスの本質である「眼差し」そのものの本質は、一切の形や方法を持たず、
それはとても奥が深く、その広がりはもっと深く大きく精妙な「無形の眼差し」へと進んでいくことでしょう。
私たちは普段、「私たちの思考やイメージ」を通した現実に出逢うことはあっても、「存在そのもの」「ここに今在る全体性」に「そのまま出逢う」シンプルさを見失いがちです。
学者さん等の専門家の言葉や説明は、あくまでも存在の一面を分析的・分離的に捉えて言語化した概念に過ぎず、それは「理解に役立てること」は出来ますが「理解そのもの」ではありません。
ですが私たちの心が自己完結しておらず、いまだ開いた柔軟な心であれば、それらは「生きた学び」として役立てられる「無形の教え」にもなり、
他者や世界から学べることは心の在り方次第では本当に無数にあります。そのような学問的でも専門的でもない「無形の生きた教え」、これを拠り所とするのが形なき「法灯明」の姿なんですね。
本来、全体性と共に在る「心」は、自身で知る力、自身で生きていく基本的な生命力・感性・知性を持っています。その力が発揮される時、本当の理解が生れます。
これが形なき「自灯明」の姿です。
個々の「自灯明」の力を奪い合うのではなく、お互いに補完し合い学び合うために、無形の「自灯明」「法灯明」のスタンスで「今・ここ」に存在する、
そういう非抑圧・非支配的で自然な関わりの中で「知恵」を相互に伝え合うような関わり方が出来る人は、権威主義的な宗教家・学者・専門家・指導者・権力者たちよりも、むしろ普通の一般人の中に多いですね。
創造的退行
健常者の自我発達の流れは「創造」からスタートし、「維持(成長・発展)」、そして「破壊(個の歴史の死)」へと向かいますが、
病んだ心・精神からの回復過程では、破壊 ⇒ 創造 ⇒ 維持です。そして「破壊」というとぶっ壊す的な乱暴な感じに聞こえますが、そういう荒々しいものではなくて、
「無垢な意識」への退行を行うわけですね。そのことで、スタート地点に一回カムバックし、病んだ自我の継続を終わらせる=「壊す」わけです。
子供の無垢さの中には 創造性の元となる活力と自由が含まれています。この活力と自由さによる創造的退行によって新たな自我を創造する=再構築するのです。
そして無意識の世界は深くなればなるほど自他の区別が曖昧になる世界であり、ここには「他者の無意識の転写」と「外部操作の危険性」があります。
私がヨガ・気功・瞑想・武道など、それをやり始めてから既に二十年は経ちますが、(現在は、極シンプルな基本的なものだけを続けています。私自身はヨーギーでも仏教徒でも気功家でも武道家でもありません。
ただ私自身が様々な内的体験を経てきましたし、縁や紹介などで数多くのその道の人々にも出逢ってきました。
もうかなり過去に、インドで正式に認められている瞑想歴40年のインド人の師とか、正式な伝統ヨガ歴30年の日本人の先生たちとか、他にもヨガ系の行者に複数逢ってきましたが、
やっぱりこの分野も本当に人それぞれです。良い人・素晴らしい人もいればそうでない人もいますね。
ヨガ歴、瞑想歴が長いとか、仏教系の本やヨガ・瞑想系の本を沢山読んでいて博学だからとか、そういうことだけで安易に盲信して決めつけない方が良いですね。
また「魔境」とかではなくても、全く別の意味で悪質な人や人格異常系の人も紛れていたりしますので注意が必要です。
この道一本でいくと決めているような行者タイプ人以外は、のめり込まずに普通でシンプルなもので良いですよ。あくまでヨガや気功や瞑想法は「補足的なもの」ですので (^-^)。
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