「病的な精神世界」「禅・瞑想」のカテゴリーが中心の記事の更新です。
宗教・スピというものは反証・検証が不可能な形而上の要素が含まれていることが本質であり、昔はともかく、現代においてそれは科学とは全く異なるものです。
本来、信仰者にとって宗教と社会、宗教的世界観と科学的事実が一致している必要はなく、宗教的真理が科学的事実とズレていてもいいわけですね、科学と宗教はそもそも役割が違うからです。
なので輪廻を信じてそれを前提に修行に励む宗教者たちに、「輪廻を実証しなさい」と言うのは無意味です。「あるかどうかわかない」だけど「私は信じる」というのは本人の自由で、それ自体が良いとか悪いとか、そういうことは誰にも言えないからです。
実証出来ようが出来まいが「○○はある」と信じることは自由で、また「信じたことを信じたままに他者に語る」ことも自由、「あの世はきっとある、私はそう信じている」と、他者に向かって天国や地獄を語るのも自由です。
と同時に、それを否定すのも自由なわけです。「そんなものはない、あるはずない、実証できないし、私は信じない」でいいわけです。
とはいえ、どちらの立場にせよ、頭ごなしに何でもかんでも全否定もどうかな?と私は思います。科学にしてもまだ生命の謎や進化を全て解明したわけではありません。
そしてヒトの心理メカニズムを生物学的適応というアプローチから研究する進化心理学の視点は面白いとは思いますが、まだまだ発展途上の段階です。そのあたりのテーマに関しては過去記事に少し書いていますので参考にどうぞ。⇒ 嘘の多元性 科学者は嘘をつく・権威主義的な学者・専門家を疑え
基本的に否定も肯定も選択も自由なわけですが、無制限に許容されるわけではなく、犯罪的・有害なものには一定の制限が加えられるという線引きは社会に必ず必要で、
法的責任(民事責任か刑事責任)が問われない場合でも、道義的責任(社会的責任)が生じる場合は多々あります。「常識に照らし、社会批判(後ろ指をさされる)を受けてもしかたのないルール違反に伴う責任」を道義的責任と呼ぶ。
道義的責任(社会的責任)に対して、反発したり拒否したり開き治るのであれば世間はそんな組織をまともなものとしては認めないのです。それにキチンと向き合えるかどうか、どのように責任を果たすか、が重要なんですね。
その対応が真摯で自浄作用が働いているのであれば、その組織の信用・信頼は極端には下がらず、そして改善しより良いものへと変化していけるのであれば、信頼を取り戻して高めていくことも可能です。
現代は仏教やキリスト教などの宗教的教えにのっとってみなが生きる必要などなく、仏教やキリスト教の戒律や価値基準を非信者が守る必要もなく、
まして相手がそうしないからといって、何とかそうさせようと躍起になったり相手を過度に否定したり怒るような場合は、もうそれはカルト的な方向性なんですね。
信者は信者自身にそれを課せばいいだけで、例えば仏教徒であるというのであれば、自身に仏教の戒律を課せばいいだけです。それは仏教徒の教えであって非仏教徒の基準ではないのです。
仏教徒のモノサシで測れるのは「非仏教徒の相手」ではなく「仏教徒自身」であり、仏教の戒律に照らして自身の言葉や行動を戒めることです、それが仏教を選んだ人の修行であり課題のひとつなのだから。
ただし、仏法を語るだけなら誰でも出来、単に綺麗な言葉を使うとか論理的な思考をするとか立派な事を言うだけなら誰でも出来ます。
そういう本を読んでその内容を思考するだけなら誰でも出来ます。組織に所属し教義を知るだけなら誰でも出来ます。なので、そういう形や上っ面の部分の属性だけで「私は○○だ」といっても、主体そのものに内実が伴っていなければ無意味でしょう。
表向きの形だけでよいのであれば、裏でどれだけ異なる姿でも構わないってことになるでしょう。そういう誤魔化しの姿勢によって、本質的な部分が腐り、本来の真摯な姿勢が失われていくのであれば本末転倒なことをしているだけです。
仏教徒が仏教徒であるための条件、それは単にある宗教組織に属しているとか仏教のウンチクを他者に向けて語ることで満足している人ではなく「自身が仏教を実践する人のこと」です。
そもそも何のための宗教か?
そして現代社会において宗教は社会道徳ではなく社会の法と違い、社会の基準と同質ではなく、それぞれの宗教が社会とは異なる独自の基準を持っている別物の法であるわけです。
そのため、現代社会においては生粋に宗教を実践すればするほど、社会的感覚とはズレていきますし、また「宗教的世界観と社会とのズレ」を宗教の方に強引に合わせようと、努力すればするほどカルト性を帯びます。
「社会・常識など気にせず考慮せず宗教的世界観のみに忠実・本気な姿勢」に比例して、カルトに向かう可能性が高まるわけですね。
現代社会は始めから宗教的世界観と乖離しているため、宗教的努力が社会的な成功・達成・自己実現などとそのまま繋がらないことは当然です。
始めから乖離しているにも拘らず、「この宗教をやれば成功し幸福になり健康になり家族とも夫婦も円満で仕事も起業も上手くいきます」、みたいな自己啓発と宗教がミックスしたような新興宗教は、そういうものを確信的に謳って宣伝し膨大な金銭を信者からとるわけです。
過剰に謳う方もおかしいし、そういう社会的・現実的なものを求めているのであれば、宗教ではなく現実の中でシッカリと目標に取り組むのが筋でしょう。
仮に祭政一致型の原始的な社会であれば、宗教的実践が社会的自己実現と繋がっている関係性なので、それなりに調和的に上手く行く構造性だからいいのですが、現代社会はそうではありません。
宗教行為の原型はネアンデルタール人・クロマニヨン人にも既に見られる普遍的な現象であり、そして未開人の呪術行為にはじまった宗教は「共同的信憑」をベースにしています。
「共同的信憑」は、「エビデンスも証拠もないものをただみなで信じているだけじゃないか?」といえば身も蓋もないので、「共同的信憑」による癒しを医療人類学的に考察してみました。呪術行為の作用のひとつである「共同体に再統合する役割」について少し書きます。
「共同的信憑」による癒しはコミュニティ全体で行うから意味をなすんですね、その文化の中で共有されたものであるから効果が出るわけです。共同体からはじかれた孤独な者を、儀式を通じて「仲間」として再び共同体に引き戻すわけです。
ここでいう「仲間」というのは、「あなたと私は共に生きる同じ存在である」ことの共感的自覚であり、「共同的信憑」を元に「儀式」を経ることによって、共同体に「承認」され再び「包摂」される実感を得ることが、癒しに繋がる、ということです。
「共同的信憑」のエビデンスがどうとかではなくて、「それをみなで行う」、ということそれ自体に意味があるんですね。
「文化」のひとつの作用は「繋げる力」にあります。カオス化し意味性を失い断片化した個を、再び集め繋ぐための「中心力となるシンボル」が共通の物語であり、型(儀式)は個を承認し意味を与える作用を持ち、
日本の祭りや神社の行事も、「共同的信憑」を持って共に行うならそういう効果があり、共同体の「承認」を通して「包摂」された個人は、「疎外された個人(よそ者)」ではなく「コミュニティに帰属した仲間(身内)」であり、
その場に在ることを肯定されるゆえに「共同体の責任」を受け入れ、「自己の役割」を引き受けるアイデンティティが得られるんですね。
大地に根差していない人は生物学的に脆弱ですが、「疎外された個人」は社会的存在として脆弱なんですね。
「疎外された個人」の自我の傷つきが「魔」を呼ぶ、その傷の痛みが、敵意と破壊的暴力性(報復感情)へと反転する時の状態を「魔に憑かれる」と比喩したわけです。
そのような個人を儀式を通じて傷の痛みを癒し再び共同体に戻すことで「祓う」。本来の悪魔を祓う「禊」は優しく暖かいものだったわけですが、「幼稚で非科学的でおかしなことをやってる」と合理的な現代人はスグに物事の表面だけを見て笑います。
「何か失敗した人」、「ちょっと変わった人」、「現代社会の価値観になじめず疎外感を味わった個人」、「傷を負った者」を不適合者だと排除し、何か問題があればしつこく連日咎め叩き、家族や周囲まで巻き込んで執拗に追い続けたり自殺に追いんだり、
あるいは地域集団からのけ者にして受け入れることを拒絶し、陰湿にイジメ続けるような残酷で排除一辺倒の現代社会の「禊」なんていうものと比べてどちらがいいでしょうか?
間違ったら失敗したら社会のどこにも居場所がないような状態に追い込んで、徹底的に責めることしかしない小賢しい正論の理屈ばっかりの「正しい人達」よりも、
「一緒に踊って笑って馬鹿みたいなことにみんなで付き合って辛い時も共に生きる仲間」の方が、ずっと心強く信頼できるでしょう。「疎外された人」が「自我の傷つき」から再統合するために必要なものは、「共に在り包摂する人達の存在」なんです。
ではカルトの場合はどうでしょうか?カルトも「共同的信憑」を持って個を「包摂」しますが、問題はその後です。カルトは「包摂」した個を、自らの小集団のために忠誠を尽くすように方向づけし、それを受け入れない外部・社会を敵視するのです。
よって共同体(家族・地域・社会)との調和的関係性を壊し、個を共同体に戻さないどころか引き離し分離させる働きかけを行うのです。これによってむしろカルトは「疎外された者」を量産してしまいます。
カルトの働きかけによって「疎外された者」は、カルトの「共同的信憑」の中だけでしか「包摂」されないため、カルト内だけで「承認」されカルト内だけで連帯意識を持ち「役割」を果たす存在となります。
最初は、カルト信者たちはカルトの働きかけによって「疎外された者」になったわけですが、次は「社会によって疎外される集団」となり、
その集合意識の傷つきが「魔」を呼ぶ。その傷の痛みが集合的な敵意と破壊的暴力性(報復感情)へと反転し、カルトはついにそれ全体が「魔に憑かれる」。そして凶暴化していくわけですね。
参考PDF ⇒ [PDF]病いの身体とナラティヴ ―医療人類学の射程 –
そもそも何のための宗教か?ということですね。社会で成功したいのであれば宗教は別にいらないし、能力やセンスを高めるのも宗教はいらないし、経済的な達成にも宗教はいらないんですね。
社会の中で成功・達成したいのであれば、それぞれの分野の基準でそれぞれの分野を極めていくことであり、能力を伸ばし力をつけ成功したいのであれば、それぞれの道の先生・先達達に学び素直にそれを実践すればいいんです。
なので、宗教をすれば物事は全て上手く行くかのように語る宗教組織があるとすれば、それは全て誇大表現です。宗教的実践で具体的な現実的な結果を出そうとすること自体が、目的も手段も間違えている在り方なんですね。
社会・現実では得られない、または得にくいものが対象であるのが宗教の本来の目標・役割であって、本質は「非日常なハレ」で「形而上の領域」で心・精神に作用するものなんですね。
「形而下」への作用は、間接的にそれが現実にも良い影響を与える、という副次的なものなんです。
ところが詐欺的な宗教組織というものは、宗教的実践が社会・現実(形而下)での問題解決や成功・達成や幸福とダイレクトに繋がっている、かのような錯覚を与えて、
エネルギーを向けるべき場所、人、そして関係性や方向性を全て組織活動の方に向けさせることで奪ってしまうわけです。
ですがこの仕組みの中に取り込まれた場合、「まるで本人が望んだかのように究極の全人格労働を自主的にさせられる」ため、信じて行動した人ほど無自覚のまま底まで突き進むんです。これが宗教を悪用した搾取の本質的構造とその結果です。
万能で全知全能の神とか何とか自称して、「出来もしないことを出来るように謳い」、他者の人生の時間・金銭を大量に奪い、形而上的な役割も果たしていない上に道義的責任すらも果たさないなら、反発や怒りを受けるのは至極当然の事です。
「単に無価値なだけ」「単にちょっと意味不明」「単に少し迷惑な感じ」だけなら全然かまわないですが、人を欺き人生を無茶苦茶にするなら「有害」としか表現できないでしょう。
ある社会に属し共に暮らす以上、たとえ社会の価値や基準に全てが当てはまらない宗教の教義や世界観に信仰を持っていても、「今・現実」の社会のルールは否定せずに守り、その中で暮らす他者に害(物理的・精神的を問わず)を加えてはならなないし、
大きな摩擦や批判やトラブルに関しては真摯に受け止め、改善すべき問題点は改善する、という日常世界(ケ)との調和を失わないことが基本です。
まず大事なことは、「我々何も間違っていません」という態度を先にとることではなく、まして「あなたがたの勝手な決めつけであり悪意ではないですか?」などと開き直ったりするのは最低の対応・姿勢です。
まぁそれだけでレベルがわかってしまうのが世間というものなんですね。
そういうことをしても誰も納得しないし、やればやるほど「我々はこういうレベルの組織です」と世間に公言(自己紹介)しているようなものです。
なので本当にシッカリした組織であれば、幹部はもちろん、末端の信者にもそういう低次元で未熟な対応はしないように指導し教育を行うはずでしょう。
自身及び身内に対しての基本的な教育・指導を行うことがまず先で、それも出来ていない上に組織への世間の評価が最悪で減退に向かっているような時にすら、
未だにシッカリと反省もせず自浄作用もなく、逆切れ的に外に対して批判やクレームへの攻撃的な反発をするなど論外で、そうなるともう手の施しようがないわけです。
頭が悪いというよりも、社会も人間のことも理解出来ていない未熟な意識レベルだから、やればやるほど印象を悪くさせていくしか出来ないのです。物事・現象・心・精神をありのままに理解しているのであれば、そんなに一方通行にはならないものです。
多くの不満・クレーム・トラブルや摩擦が起きている時、まず大事なことは、「真摯に受け止め、実害を与えたことに対しては被害者・関係者にシッカリと謝罪し、嘘や誤魔化しや言い訳はせずに改善出来ることを実行すること」です。
状況次第ではそれでも回復は難しいケースもあるでしょうが、その姿勢は伝わっているものなんですね。一番やってはいけないことは逆切れする態度です。
まして「悪いのは我々ではなく彼等だ、彼等こそ悪魔だ!」、みたいな責任転嫁をする反応レベルはもう最悪なレベルです。
まぁそこまで酷いレベルの組織は滅多にないので、通常は関わる確率は低いはずですが、運が悪く出逢ってしまった人は、出来るだけ深く関わらずに全力で立ち去りましょう。
「方便」とハレとケ
宗教はある種の絶対基準を持つ絶対評価の世界ですが、ゆえにその基準・評価軸に忠実であればあるに比例して、世俗の基準・評価軸とのバランスもとらないと、その国・社会の中で生きる上での適応性と調和性を失います。そこに方便が必要なわけですね。
ただカルトが何故他の宗教と比較して激しく嫌われ批判され、反発を受けるのかというと、彼等が使う「方便」は「ハレ」と「ケ」の質の異なる基準・評価軸の調和にベースが置かれているのではなく、「不調和を誤魔化すために悪用されるもの」だからです。
ハレとケの本質的な質的差異から生じる自然な認知的不協和を調和することで、ハレとケのバランスを保つもので
あるなら、それは適応的な宗教的方便とも言えるのですが、
「病的な虚言・妄言と組織の醜悪な実態、世に不快感を与える言動」などの事実と、それへの当然の否定的反応から目を逸らすための「認知的不協和の合理化」に使われているわけですね。
だから組織はますます適応障害化し、程度の差はあれ反社会化し、バランスがどんどん崩れて信者全体が魔境的になり、その結果、多くの人々が「気味の悪さ」「不快感」などの「異常性」を強く感じ取り、世間からのパッシングも強くなっていく。
人々がこういう組織に入ってしまう原因は、社会要因や身近な他者の心理的力学もあると私は考察しているのですが、「入った後」の組織・信者の劣化というものは、陰謀でも社会のせいでもなく組織外の誰のせいでもなく、
「姿勢・取り組みの歪み・認識の甘さ」と、その集合的な精神活動のベースにある「認知バイアス」のさらなる強化と、「低次の防衛機制」の慢性化、その結果としての「不調和で分離的な活動・言動の質」に原因があるわけですが、
一切聞く耳も持たず自浄作用もないため、やがて悪循環のループから完全に抜け出せなくなって、後は年々劣化し続け、いつか崩壊するまで細々と惰性的に続くだけの不毛な未来しか待ってない、ということになるわけなんですね。
ハレとケは質が異なる二つの領域であり、相互補完的なものでどちらがいいとかどちらが悪いとかではありませんが、質が異なるものが同時に存在する時、そのバランスをとるために「方便」が必要と先に書きましたが、
カルトの場合はその関係性が逆転してたり極端なバランスになっています。
ハレはケとは分けるべきであり、ケはケとしてハレはハレとして相互補完的な関係性としてあればいいんです。これを意図的に逆転させたり、一方を過剰に否定するのが原理主義や過剰な教条主義・根本主義の与える負の作用です。
通常ヒトは現実基準で物事を絶対・相対評価し、ケが基準ですが、カルトの場合は自己の絶対・相対評価をハレの方に逆転させるわけです。そして方便は不調和を隠すために、認知的不協和を合理化するために悪用されています。
方便を使いながら明らかな矛盾を正当化し、「今・現実」の社会のルールを否定したり守らなかったりも正当化し、その中で暮らす他者に害を加えたり、大きな摩擦や批判やトラブルに関しても正当化し耳を傾けず改善しないために、
どんどん不調和は酷くなり孤立化し過激化・極端化していきます。
ですが本来は、個の内的な信仰(意識の世界)は自由で、社会的なものと一致している必要もないし、科学的でなくても全然かまわないわけです。
宗教というものの本質は自然科学ではなく社会道徳でもなく、人間の創造性が生み出した一つの昇華された表現で、原始時代から人類は芸術性・宗教性をもっていたのです、
なのでこの原始的な創造性は、元々人間の脳にある構造性(無意識)に由来するものともいえるため、そのものを全否定する必要はないし出来ないんです。むしろこの根源的な創造性は生かすこと(昇華すること)で良いものにもなるし、
逆に悪用すれば、人類の深い無意識に作用するために、人の心を操る洗脳の道具にもなるわけですね。
これは疑似科学の暴走に質が似ています。迷信やオカルトが文化に止まり予定調和的であるのであれば、それは本来害をなすようなものではないんです。
ですが本来の存在意義から外れて異なる別の領域に侵入したり、反発・敵対的な関係性になったりする時に問題が起きてきます。
そしてハレがケを否定したり、逆もまたしかりですが、一方が一方に対して優位なわけではなく、敵対・反発しあうようなものではないわけです、本来は。
ですが、内的に分裂した意識においてはそのような作用になり、社会・現実の方が劣・幻影・低次元だとされ否定されるために、事実は非実体化され、実体のないものが実体化される(ように感じるだけだが)= 同一化、が起こります。
これによって現実での評価を「脱価値化」し、妄想観念内で相対評価・絶対評価化することで、ケでの絶対評価・相対評価の束縛から外れます。
実はこれを上手く使えば、現実での価値が実際に低い者、あるいは実際は低くないが自己肯定感が低いために本人は低いと感じているような者が、その苦痛から一時的に解放されます。
また個人で思い込むよりも、「集団であること、儀式ばっていること」に心理的な効果があり、その方が実際にプラセボ効果を高めるわけですね。そしてこれは信じ切っていることが大事なので、無意識的である事が意識的でありるよりも効果があるわけです。
その意味で、彼等・彼女たちのあの無自覚な盲信状態には、集団セラピーのような同調効果による癒し(上手く使えば創造的退行の効果)と、自信回復(上手く使えば自己肯定感の回復効果)がある、ということです。
ポジティブ心理学の父でもあるミハイ・チクセントミハイというアメリカの有名な心理学者がいますが、彼の語る「フロー体験」は、病的ではない一種の浅い変性意識体験であり「忘我」の体験の一種です。
このフロー体験は集団フローとしても生じますが、これは自他分離性と主客分離性が弱まる宗教体験でも生じてきます。
ここで、関連するテーマとして宗教心理学者の堀江 宗正 氏のPDFを紹介しますね。興味のある方はご覧ください。参考PDF ⇒ 心理学的自己実現論の系譜と宗教
そして一種の一体感と快感状態が生じ、その中には、ピークエクスペリエンスによる疑似的な死による生まれ変わり(悟り)という劇的な変容が生じる場合もあります。
そして「固定的で静的な予定調和の世界観への依存」から自立し、「個々の自立した動的で複雑系の創造的な生の連鎖調和」へと向かいます。
(※ これは自力回復・成長が困難な人が、他力を上手く使い、そして指導者のバランスが良く、信者の関係性が良い場合に、適切な働きかけで行った場合の可能性の話しですが。)
新興宗教やスピ・オカルト系でも酷い悪質なものでなければ否定しないのは、ある特定の状態にある人にとって、「精神に好作用を与える」「劇的と言える変化を与える」などの効果が、人によっては確かにあると考察しているからです。
また特殊な使命や生きる目的を霊的世界観から与えられることで、「自己高揚動機」によって現実の自身の「痛み」から一時的に避難したり、「転移性治癒」などの一時的な苦悩からの解放が生じたり、(※ 転移性治癒は本当の治癒ではないのでその後が重要ですが)
また、現実的にはどこにも到達こそしないが、架空の「希望」「理想」が一時的に与えられることで、それを生きる意味の代用品として上手く使えば、苦悩からの心理的解放へ向かう治療的動機づけ的なモチベーションとして疑似的に機能します。
どうやっても救いも希望も感じれない現実の中にある不運な人だっているわけです。そのような人にとってこの宗教的な他力の構造性には、自我の中心性を強めたり弱めたり安定化させ支えたりする意味・心理効果もあります。
ただそれに過剰に依存してしまい慢性化すると、本来は不足を補う「代理的なもの」だったものが中心に置き換わってしまい、手段(目的達成のための方法)と目的(無意識が求めていたもの)が混同されてしまい、
その結果、ハレ(形而上)とケ(形而下)は反転します。
つまりある部分において通常の人と逆に世界が見えてくるわけです。ですがこの場合でも「出家者」のような場合はそれは手段ではなく目的であるわけだから、本人は反転しても構わないわけです。
そしてバランスの良い組織でシッカリと指導・教育されている場合は、その後も暴走しないよう制御・保護されているため、ハレに従事する専門家としての役割をこの世において適切に果たすでしょう。
ところが霊的な絶対者的人物が好き勝手にやりたい放題のカルトや、「過激な新興宗教・霊的な思想集団・個人の霊能者」などの場合では、ストッパーもなく自浄作用も働かないため、この段階で暴走・変質に歯止めが利かず分離肥大化していくわけですね。
そして意識にダイレクトに働きかけるような修行・行法をストイックにやっている場合、変性意識はより強く生じてくるため、
その結果、日常に対する現実感の無さはより進みます。「離人症」や夢と現実の境界– 「顕在意識と潜在意識(個人的無意識)のバウンダリー」が曖昧になり、「解離」は進みます。
ここで退行が生じ、それが「創造的退行」ではなく「病的退行」になって、無意識に同化・一体化した場合、原始的防衛機制が発動して暴走する、ということが生じることもあるのです。=※ 魔境の状態。
(※ ここで主に働いていると観察される原始的防衛機制は、「分裂」「原始的理想化」「歪曲」「躁的防衛」で、これは精神病的防衛とも呼ばれるものです。「創造的退行」の場合は部分的退行であり、制御が働いており、無意識の情報を生かすことが出来ます。)
ある種のトリップが生じた場合は、大人だろうが元は定型だろうが普通だろうが、色々見えてきたり意識状態が相当に変化していきます。これは変性意識を体験している人や、ヨガ・瞑想・行法を深くやったことがある人は自然にわかることです。
常軌を逸している人は原始的防衛機制状態ですが、大体は「未熟な防衛」の段階です、特に投影(投影的同一化)と理想化が多いことが観察され、これは4段階の防衛機制で見た場合、レベル2の防衛機制で「中二病」の意識状態と同質です。
中二病は若い頃(思春期・青年期~若い大人ぐらいまで)はよく見られる自然現象で、その発達段階の時期にそういう現象が顕著に見られることは何の病気でもありませんし、
社会化の過程でその豊かな想像力が昇華されることで、様々な創造的活動にもなっていく原動力になりますのでそれ自体はネガティブに捉えなくてもいいでしょう。若い頃はみなある程度はそういうものなので、あまり深く考えず健康的に明るく昇華していけばいいと思いますね。
もし「理想化自己対象」とされた教祖が、調和的でバランスの良い成熟した人物である場合はそうはならず、コフートの自己愛性の治療効果と同質の現象、「変容性内在化」が生じる可能性は多少はあるでしょう。
「自己」の学び直しが可能になります。つまり選択した指導者の質が決定的な分かれ目になる、と考えてよいです。言うまでもないですが指導者がカルト教祖の場合は最悪です。
今回書いたことの全ては、「宗教を使わなくても出来る」と考えていますが、新興宗教だからって何もかもダメで無意味で有害とかではないですよ、ということだけは書いておきます。
一部の人にとっては宗教が治療に、ある人は自己実現の「動機づけ」になることは可能だし、実際に効果があるわけなのですが、
そして彼等・彼女等にとって、現実にはそれに変わるものが「その時、そのタイミングではなかった」、あるいは「他力を用いなければ出来ない状態だった」からそれを求めた、とも言えますので、
個々のタイミングや状態の多元性に関しては仕方のないことだ、とも思いますね。
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