二重基準と人心操作(マインドコントロール)  本当の自己責任とは?

 

何故、中国や韓国の政府が自国民衆の怒りの矛先を日本人へ向けさせるのかを考えてみましょう。それは「本来責任を取るべき立場の人がその責任を回避しようとする」ことから生まれます。

それは「上部」に民衆の怒りが向かないようにするためであり、そのために「下と中間」の人々が一致団結しないようバラバラに意志を分裂させていた方が都合が良く、「力」と「真実の理解」を下に与えないように人心操作をするのです。

「下と中間」の人々は、「力と真実の理解」を上に奪われコントロールされています。力を得るには上にいくしかない、そして上にいくために周りを敵化し、力を得る代わりに理解力・共感力をマヒさせ「力だけを得た人」になる、それが修羅の世界の出来あがる構造です。

そのような不調和と分裂を作り出している大元は「上部」の権力と「構造」です。そして「上部」にコントロールされ「構造」に支配され、惑わされた結果の「下と中間の集団の無意識」もセット(構造の一部)なのです。上部構造と下部構造は、対立しながらも相互依存的に存在している、ということです。

それは日本もアメリカもロシアも他の国も、程度の差こそあれ本質は変わらないんですね。

 

二重基準と人心操作

「イジメはやめましょう。人の気持ちを思いやれる人間になりましょう。自分とは異なる個性や考え方に対しても幅広い視野をち、人と協力し合って一緒に頑張りましょう。そして人間性を豊かに育て、未来の子供たちの見本となる大人になって、社会を共支え豊かにしていきましょう」

上のような建前を学校や社会は平然と垂れ流し、自らの善と正しさを実感したがります。ですが、実際は社会の本音は以下のようなものです。

「は?平等なんてないんだよ!騙されるお前は大馬鹿の甘ちゃん情弱か?遅れをとるノロマは費用対効果が悪いだけなんだよ!能力が低い・効率が悪いやつの人格や人間性なんて関係ねえよ。」

「弱者でクズのお前がどうなろうが知るかボケ!チンタラ生きてきたてめぇの自己責任だろうが!能力が高けりゃ性格・人格なんどうでもいんだよ、それが社会ってもんよ、結果と数字が全てだ、後はいらねえんだよ馬鹿!」

建前の裏では、上のような侮蔑と敵意に満ちた心と言葉に溢れているわけです。子供は建前ばかりを聞かされてそれを信じて頑張って「真面目な良い子」になったとしても、

成人後、その「真面目な良い子」とやらは、他者の都合で利用されたり、すり減るまで使われたり、そうやって上部構造に支配された下部構造の中で、他者と競争させられ続けるのです。

このような矛盾した二重基準が人の精神を分裂させるんですね。

会社組織もそうでしょう。表向きでは「主体性」だの「自分の頭で考えろ」だのいいながら、実際に下が本気でそうすると、その人間は煙たがられ干される。

現場で仲良くせよだのコミュニケーションを取れだの言いながら、「下と中間」が一致団結するのを良しとせず、いがみ合うようバラバラに分裂させて競争させ、上に対してだけ忠実なイエスマンであることを要求する。

「立場が対等ではない」ことをそうやって教え込むわけです。黒でも白と言わなければならないような矛盾した二重基準が課される背景というのは、その人から判断の主体性を奪い組織の上部の意志を絶対化する過程であり、

それは「教祖が信者に徹底的な帰依を要求するカルト組織」と似たり寄ったりの社会的な洗脳なんですね。カルトほど過剰ではない、というだけです。しかしその規模の大きさ影響力の大きさはカルトの比ではない、ということです。

● 「会社はお前らみたいな何も生み出せない人間を雇って給料をくれる有難いシステムだ、雇ってくれてありがたく思え」

● 「どんなことしても社長と客が神様だ、そのことを忘れるな!」

一体誰が上のようなことをさも絶対のように決めつけているのしょうか?

社会は相互依存で成り立っています。本田技研創業者である本田宗一郎氏にはそのことがよく分かっていたようです。「社長はただの記号に過ぎない」とまで言っています。「下を雇って食わせてやっている偉い人」なんていう、そんな傲慢な発想は彼にはありませんでした。

なかなかこういう本物にはお目にかかれませんね。 ちょっと成功・達成したらすぐに俺様化し、出来ない人をカス呼ばわりするような自己肥大の人ばかりです。

「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」、と本田宗一郎氏は語りました。

現場という土台があってこそ上も支えられている。どんな役割であれ、それは必要だから存在するのであり、会社を生みだした人間や上部の人間が一番偉いとか、そういうわけではないのですね。

雇われている下の立場なんだから、「使ってもらって給料を与えてもらってることに感謝しろ!」なんていう権力的な考え方自体がおかしいです。

今の世の中のシステムは相互依存で成り立っていることを自覚しない人だけが、そういうことを平気で言うのですね。会社にとってもその仕事・役割が必要だからその条件で雇ったのだから、それは「会社のニーズ」でもあるのです。

必要なニーズを果たしている同じ人間を蔑視する、そうやって下部構造の役割に人間を縛り付ける「階級化」を無意識に肯定する、させる、ということです。

しかし会社を考え創設しただけでは実際は何も大きなことは出来ない。相互依存で会社や組織が成り立っている以上、会社組織に対しても上部に対しても、それを絶対的な有難い存在なんて神様みたいにしてはいけないんです。

「客」も同じ、決して客は神様ではなくただの人。過剰でヒステリーな客のクレーム、そして「速さ・安さ・正確さ」という要求にこだわり過ぎた結果、労働環境はさらに劣悪化し、労働者は疲弊し、ミスや事故が増えているのです。

そのミス・事故・疲弊のつけは誰に来るのか?といったら結局それは「客自身」に戻って来るだけなんですよ。そしてその客も何かの仕事をしているわけだから、自分自身の仕事環境の劣化としても首を絞める形になり、それが社会の負のループとして全体に繋がっていくわけです。

デフレの原理もそうですよね。だから客は決して神様とか、そんな特別なものになんかするべきではなく、人として、仕事上の関係として常識的な対応であればそれで十分であり、それ以上に求めすぎることも応えすぎることも全く必要なのです。

 

2017/1 追加更新記事 - ここから – 

この記事を書いたのはもう3年前ですが、最近ようやく「お客様は神様」なんていう宗教じみた盲信が問い直されています。以下に「神戸新聞NEXT」の記事を引用紹介しておきますね。

2017/1/5 06:30神戸新聞NEXT 「お客様は神様」今は昔 行き過ぎ言動後絶たず」より引用抜粋

かつて流行し、今も社会に根付く「お客様は神様です」という言葉が問い直されている。店員に土下座を要求したり、駅員に詰め寄ったりと、一部の客の行き過ぎた言動が後を絶たないためだ。

他人への不寛容な風潮は強まるばかり。自らの心を押し殺して接客せざるを得ない労働は「感情労働」と呼ばれ、それが必要な職場で働く人を守ろうと、国に対策を求める動きも出てきた。
(段 貴則)– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「お客様は神様」今は昔 行き過ぎ言動後絶たず

関連外部サイト記事の紹介(2018 追加更新)

〇 日本人は「感情労働者」を搾取しすぎている

–  追加更新 ここまで – 

 

本当の自己責任とは?

自己責任とは、自分の行動や選択に対して責任を持つことです。例えば、自分の過ちを認めたり、自分の能力や環境に応じて合理的に判断したりすることです。自己責任は、個人の努力や責任感を高める考え方です。

本当に自己責任がわかっている人というのは、私=個人」「言葉・思考・行為」として直接的・間接的に「世界・外側・他者」に与えている影響の責任が自身にあることを自覚し受け止め、そしてその影響の作用がどのようなものなのかにも気づいている、ということから生まれるものであり、

ある人が自己の在り方と他者・世界への作用に気づいて、日々を注意深く内外に調和して生きているとしたら、それは心・言葉・行為てが調和し統合された徳の高い人だけが継続できる稀有な生き方です。

私は今まで一度も社会や会社の上部にそういう人を見たことはありません。(どこか知らないとこにはいるのかもしれませんが)

人は自身が思うほど公正でも正直でもありません。他人に嘘をつかないことだけが正直さだと思っているような浅い理解の人には、「正直であること」の本当の深さがわからない。

よく気づいている人は、安易に「お前の自己責任だ!」なんて人に向かって言えないものなんですね。まぁ条件を限定すれば、そういえる場合もあるでしょうけど、

人は多かれ少なかれお互い様のレベルであり立場や役割は違えど、相互依存で互いに生かし、生かされていることを自覚しているのなら、そんなに傲慢ではいられない。

罪を憎んで人を憎まずなんていう言葉も今では死語でしょう。本当に酷い罪など犯してなくても、徹底否定と悪意・敵意が容赦なく人に向けられるようなこの時代には、もはやその意味さえわからなくなった言葉でしょう。

今は韓国も中国も日本もアメリカも「人を憎んで罪を憎まず」になっていますね。罪そのものを憎んでいるのならば、「他者を憎んで責め続けるだけ」のような在り方ではあれないはず。

人間存在それ自体を憎んでいるからそうなるのです。結局それが、「人間の罪そのもの」の姿であり、パラドックスを自ら作り出し、無限に負の因縁をループさせていることに気づかない。

だから「上位の悪」は自らの姿が「下位の悪」と変わらないことに気づけず、また気づこうともせず、たえず何かを誰かを悪として吊るし上げていくだけなんですね。

ですが本当の自己責任が何かを多少なりともわかっている人であれば、それは自然に理解出来るのです。そしてそれを実践できるような徳の高い人だけが、依存的ではない自律性をもった主体として本当の自己責任の道を歩むことが出来るのでしょう。

コメント

  1. ノムラマサカツ より:

    人を憎んで、罪を憎まず、、、の、アヤマチを僕は繰り返していることを知りました。
    ルシファー効果のスパイラルに馴染めず反抗を繰り返し、 誰 か を、犯人に仕立て上げる。
    そう言う事をヤってきた自分に気が付けます。
    矢張り、ツナガリを選択出来なく、距離を調節し辛くさせられた事、其れを選択させられた事、向き合える関係を初めから作っていなかった事、其れが結局、ただの条件の押し付け合いの為の無関心、反抗へと繋がったと気が付かされます。
    初めから、誤った選択をしてしまった事、距離と関係を選べ無い位置に飛び込むような真似をした事、、、其処に僕の自己責任、反省すべき事が有ると気が付かされます。

     個人的な話を書き連ねて申し訳ない。
    どんなに、忘れていても、フラッシュバックの様に、怒りの衝動が押さえきれなく吹き出すときが在り、整理する為に書いていると言う処があります。

  2. ノムラマサカツ より:

     罪(ルシファー効果と、その連鎖の仕組み=洗脳)
     人(それに寄る同調圧力を掛ける人々)

     或いは、 人 が、その 罪 の、構造から受ける、高度な 利 を受け取る為、、、
     その、 罪 の、構造が、存在しているのだとは気が付く。付いてはいる。

     利 を、 拒 否 出来なかった 事 に、こそ、自分のアヤマチが有ると気が付ける。
     しかし、初めから拒否出来る関係を作れはしなかった。
     押し付けと、義務の拡大、その為の同調圧力の拡大。
     ルシファー効果に寄る洗脳を受け入れない姿勢に対しての攻撃。(それもまたルシファー効果=洗脳)
     譲れないラインまで、其れが拡大した事により、其れまで押さえてきた 不満の爆発。
     反抗。

     矢張り其処に、否定すべき 罪 は、ルシファー効果(洗脳)の構図の蔓延こそに、在るのだろう、し、憎むべきは、其処にこそ在る。のは、解る。
     しかし、それを、いくら解いても、理解を拒否し思考停止 し た 、事により、自分側に矢張り、解決の出来ない、、、モノを矢張り抱えざるをえなく、またそれは現在進行形で在るとも気が付ける。

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