引き続き、世界の見つめ方part2 です。社会・現実は変わらないものでしょうか? そしてマイノリティの叫びというものは非現実的な「存在しないもの」でしょうか?今回はこのテーマで掘り下げていきましょう。
ではまずここで、スイス在住の精神療法家アルノ・グリューン氏の『「正常さ」という病い』という著作から以下の引用文を紹介しましょう。
現実の世界における人間的な価値の喪失にもはや耐えられない人々が、「狂っている」と見なされる一方で、人間の本質を放擲してしまった人々には、「正常性」の証明書が与えられている。
そして、われわれが権力を委ね、われわれの生活と未来について決定させるのは後者の人々なのだ。
彼らは現実に正しく近づく術を心得ていて、それを扱うことができるのだと誰しも信じている。
しかし、「現実との関係」が、その人の精神的な病気、あるいは健康を確認する唯一の尺度なのではなく、
どの程度まで、絶望のような人間の感情、共感のような人間の知覚、感激のような人間の体験が可能なのか、あるいはどの程度までそれらを失っているかということも問われなくてはならない。
(馬場謙一・正路妙子訳『「正常さ」という病い』青土社より)
社会というものは巨大なので、短いスパンでは変わらない、変わっていないようにも見えますが、長いスパンでは物凄く変化しています。
たかだか数百年前の江戸時代の人でも、今の日本の姿を想像できたでしょうか?大きなスパンで見ればそれくらい社会は変わるんです。
そして高度経済成長期に日本は今の中国のような公害の縮小版を経験していますが、社会的な問題提起と具体的なアクションによってそれを解決しました。地域社会の人々は、自然や文化を守ろうとして様々な取り組み、社会的な問題提起をしてきました。
社会問題提起というものは単に「社会を変える」だけではなく「守るため」にも必要なんですよね。
ですがそれは当時リアルにそれと関わっている人からすれば、一向に解決しない現実に思えたでしょう。ですが、長い年月を経て、それは少しずつ改善されていったんです。
彼らが黙して「ただそのままを受け入れればいい」と黙ったままならば、何も変わらなかったでしょう。中国でも一般庶民は酷い公害に苦しめられ、それを社会問題として提起しています。
そのアクションによって、ようやく政府も変化を生じさせていますね。ですが「ただ現実をそのままを受け入れればいい」という人しかいなければ、権力者と既得権益者たちは「何もなかった」ことにするでしょうね。
そして現在生きている人もその子孫も何代にもわたって公害に苦しみ続けるだけでしょう。つまり、社会問題がリアルとして起きているから社会問題を提起する必要が生じてくるわけですね。
「何にもしない生き方」の嘘
本当に「何にもしない生き方」というのは、例えば森に暮らすインディアンのように大自然のままの人間であるということです。
しかし人間社会というのは「ありのまま」を「変える」歴史なくして成立しません。もし「ありのまま」を受け入れるという考えがこの世にあるとするならば、インディアンのように生きることでしょう。
そこまで筋を通して生きている人が「私は何もしない」というならば否定しません、インディアンは好きですので。
しかし、日本社会という高度にシステム化された人為的な社会に住んでいる以上、「ヒトのありのまま」は最初から否定されているという前提を理解する必要はあるでしょう。 ※完全否定されているわけではありませんが。
大自然は生き物のありのままを認めていますが、人間社会は人のありのままをそのまま全て認めることはできないのです。人は野生的な生ではなく社会化が求められるからです。
つまり現代社会において「何にもしない生き方」など自立的には存在しえず、依存的にしか存在しない。。その場合、「何もしないあなたの変わりに誰かが面倒なことを全部やってくれている」わけです。
あなが何もしなくとも、どこかで誰かが守ったり、改善したり、そういう社会的な具体的アプローチが連綿と行われて「今」が保たれている。
社会の「今」は動的な複合的な力学によって保たれているのであって静的な「形」がそのまま固定的に存在しているわけではないんですね。
これは細胞が絶えず生まれ変わりながら、「私たちに意識させずに」無意識下では様々なことを行って形と機能が保たれている人間の体によく似ていますね。
社会の価値観というのは、マジョリティーたちの「今とりあえず受け入れている」その現実の傾向で決まっています。ですが、これは時代とともに変化しています。
では何故変化するのかというと、「今とりあえず受け入れている現実」の背後では、無意識的な様々な「負の力学や不調和」が存在しているからです。
これは無意識的であっても「リアルとして存在する」のであり、それが意識化され問題提起されることによって変化していくのです。
社会を変える人
一部の「社会を変える人」というのは、あくまでもその時点での社会・時代の集合的な無意識を部分的に意識化・具体化した代表者でしかないんですね。
時代の大きな流れの根底にあるものは人間の集合的な無意識ですが、「具体的に目に見える社会現象」としては「一部の人」が行っているように見えるだけです。
そして「時代を先取りする人」と言われるような人は、集合的な無意識の一部を先取りして意識化・具体化しているんですね。
ですが無意識の領域は広大なので、個人にせよ社会にせよ、それを一度には意識化は出来ません。少しずつ少ずつ、徐々に意識化していくしかないんです。
実はこれは個人の無意識と意識の関係でもそうで、私たちは自身の無意識を全て理解してはいません。むしろ多くのものが無意識のままであり、ほんの一部が意識化されているだけなのです。
個人の能力差や才能の開花の差というものも、無意識の意識化や統合化が相対的にどれほど深く行われたか?と比例している、ということなんですね。
これは社会の無意識においても同じであり、社会の集合的な無意識の意識化や統合化がどれほど調和的に深く行われ、具体化・システム化に成功したか?がその社会システムの機能の能力に比例するんです。
当ブログの読者様へ
私は大自然や宇宙の法則は変えられないものだと思いますが、人間が作ったものは人間に変えられるものだと思っています。
ですがその変化のタイムスパンが1個人の人生より長く緩やかというだけです。今日何かをアクションして明日社会が変わるようなものではありません。
ですが、個人の問題であれば、もっと短いスパンで変わりうることは多々ありますよね。
「個人」から「家族の問題」へ移行すると、それは社会の問題ほど巨大ではなくても、個人の問題よりは大きくて厄介になってきます。
なので「個人・家族・社会」、その他にもありますが、その問題が「どの領域の問題なのか」によって「変わりやすい、変わりにくい、変えられない」ものがありますので、あくまでも「それぞれが出来る範囲で取り組むしかない」というスタンスですね。
私は誰も導きませんし、導こうとも思ってはいません。このブログは私の探求心が動機でもあり、また私自身の過去の心・精神の病の経験での気づきが、何らかの参考や励みになる人が一人でもいる以上、私はやる価値はあると思っています。
ある角度から見れば私は左翼的であり、他の角度から見れば右翼的であり、また別の角度から見れば相対主義的であり、さらに別の角度から見れば本質主義的でしょう。 そして科学的・客観的でもあり同時に主観的で感性的でもあるでしょう。
またある角度からは「形而上のことを思索する哲学」のようでもあり、別の角度では「形而下のことを検証する現実主義者」でもあるでしょう。
そして唯物論のようでもあり、唯心論のようでもあり、唯識論でもあり二元的でもあり一元的でもあるでしょう。その全ての要素が私であり、その全てで表現していこうとしているだけなんですね。
私はまだこのブログテーマの最終結論や自己完結には全然至ってはいません。まだブログ開始から半年程度で全ては途上です。使える時間と体力の制限もあるので、まだまだ時間はかかるでしょうね。
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