「正しさ」の独占が終わるとき──「大衆は愚か」という神話

 

 

制度は本来、政権交代可能性、民意の反映度、政治の安定性のバランス設計の問題であり、特定党派の勝因、敗因の分析とは切り離して議論されるべきものです。

たとえば小選挙区制は政権交代可能性と安定性を高めやすい一方、比例性は低下しやすい。比例代表制は比例性は高いが、政権の安定性は弱まりやすい。どの制度も万能ではなく、どこに重心を置くかという制度哲学の問題です。

「結果が気に入らない → 制度が悪い」という即時的帰納は論理的に弱い。制度評価は、党派的帰結ではなく、制度原理と実証データに基づいて行うべき、というのが政治制度論の基本姿勢でしょう。

 

ではここで一曲紹介。ニュージーランド出身のシンガーソングライター Fazerdaze「Lucky Girl」です。曲と一体化したMVがお気に入りです♪

 

 

複数メディアの世論調査によれば、今回の衆議院議員総選挙の結果について国民の 過半数が評価しているというデータが出ています。例えば、ある全国世論調査では 約55%の回答者が「選挙結果を評価する」と回答 しており、これは単なる少数意見ではなく、国民の過半数が結果に肯定的であることを示しています。

一方で、オールドメディアでは特定の政治評論家が「国民の7割以上は選挙結果に距離がある」と主張しましたが、この数字は客観的な世論調査の結果と明らかに乖離しています。

衆議院選挙の直後にNNNと読売新聞が行った緊急の世論調査で与党が3分の2を上回る議席を獲得し、中道改革連合が大きく議席を減らした選挙結果について「よかった」が55パーセントと、「よくなかった」を大きく上回りました。

世論調査で、高市内閣を「支持する」と答えた人は、前回、先月の調査からほぼ横ばいの67パーセント、「支持しない」と答えた人は22パーセントでした。 引用元➡ https://news.ntv.co.jp/category/politics/96ed75239c624713a051b33ee98fc26d

 

ここで、肯定的に評価している55%+「どちらともいえない人の%」を含めると、実際には 約7割程度は「選挙結果にある程度納得している、距離は感じていない」といえます。反対は約3割です。

そして高市さんへの支持率も7割近く、不支持は2割程度。 これでは「彼の考えの逆が正しい」になってしまいますね。

批評家が「○○である」と断定調に言うことも自由ではありますが、とはいえ事実に基づいて物事を判断したほうが信頼されるだろう肩書の人が、結果が気に入らなかったからと主観的イメージに始終するようでは信頼されなくなるでしょう。

 

また、世論調査の詳細な内訳が各メディアから段階的に公表される中で、若年層に限れば選挙結果や政権支持について高い評価が示されている傾向も報じられています。特に18‑39歳の層では評価が比較的高い割合に達しているという分析もあります(各年齢階層の数値は世論調査機関ごとに若干の差異あり)。

 

 

公共圏を歪めた「正しさの独占」

長らく日本の公共圏における応答関係は歪められてきた。その中心にあるのは、「正しさ」の名を借りた特定のエリート層による言説空間の支配です。   □ 参考用として過去記事の紹介 ➡ 公共圏、公共性 と「賢い愚鈍」

かつて、言論は新聞・テレビ・学術雑誌といった「門番」がいる場所でしか流通しませんでした。

こうした構造の典型的な例として、大手新聞・テレビ局によるアジェンダ設定の独占、学術界や知識人コミュニティによる「言説の序列化」、政府審議会や学会での「代表的意見」としての正統化プロセスなどが挙げられます。

 

知識人が「現状維持」を望むのは、その門番が自分たちの仲間であり、自分たちの言葉が届き、尊重されるシステムだったからです。

つまり、日本は公共圏が成熟しておらず、言説空間が特定の属性が占めていたという点で、「選挙の在り方」それ以前に「民主主義の不備」があったともいえるでしょう。

それゆえ今の状況は、彼らにとって「自分が審判を務めていた言説の出来レースに、観客が乱入して勝手にルールを変え始めた」ような絶望感を感じるのかもしれません。

 

つまり、現在のオールドメディア、人文系アカデミア、知識人、学者への批判やSNSの活発化は、単純に「衆愚政治 ➡ 民主主義の劣化」の文脈に回収はできず、

もともと日本の公共圏は偏っていて、構造的問題が維持されてきたが、それらがようやく解消されてきた創造的過程としても理解できるわけです。

この視点から見ると、むしろ今までが硬直した状態(良くも悪くもコントロールされ過ぎた秩序の状態)で、その「現状維持」を壊していく創造的破壊の過程が「今」といえるでしょう。

もちろんここには「良い可能性」「悪い可能性」へ向かう不確実性があるわけですが、創造性が働いている状態とはほんらいそういう「危険性」を含むのです。

 

とはいえ、「解釈の独占」に対する健全な反発が、「危険」「無知」として封じられることも同時に続いてきました。創造の過程には破壊が生じるため、「現状維持」を求める側にとっては負の揺らぎとなるからです。

公共空間の成熟とは、各々が自らの頭で考え、相手と対等に向き合う姿です。ところが、こうした対等性を嫌い、異論を抑え込もうとする人々がいます。彼らは「正しさ」を盾にし、自らの解釈を唯一の基準として押しつけ、異議を道徳的に封じ込めようとします。

その背後には、自分の語りが揺らぐことへの恐れ、自らの正しさが否定されることへの耐性のなさ、そして強い自己愛があります。

 

嫌われているのは「批判」ではなく「攻撃のための攻撃」

現代の公共空間では、「批判が嫌われている」のではありません。嫌われているのは、根拠なき罵倒や、声の大きさで相手を圧する攻撃です。

以下の外部サイト記事では、『とにかく「他人を批判するものは悪」。そういった観念が、ティーンでなくても中年や高齢者にまで、社会全体に蔓延している。』と断定されており、「中道=正しい側」というような論調で展開されています。 ➡ 中道改革連合破滅の原因―「正しいこと」は通用しない

しかし、若い世代が拒んでいるのは批判そのものではなく、理解を欠いた断定や他者を排除する言葉の暴力です。これは世代論ではなく、コミュニケーションの質の問題です。

 

そもそも「批判」はSNSやネットに限らず、職場、家庭、学校、報道、日常会話のいたるところに存在しています。むしろ現代社会は、評価・比較・是正・指摘が絶え間なく行われる「恒常的批判社会」であり、何も批判しない人のほうが稀有な存在です。

そして皮肉なことに、先の外部サイト記事のコメント欄も「批判だらけ」です(笑) ツィッターなんて批判まみれのSNSですし、オールドメディアも含めて批判が好きな人はもの凄く多いんですよね。

そして外部サイト記事の内容よりも、コメント欄のほうにむしろ鋭い批判が散見される現象にしても、「なぜ左派・リベラルが負けるのか」、「なぜオールドメディアが信用されないのか」を端的に表しています。

「他者に対しても社会に対しても、自分が見たいようにしか見ない」、そういった方向付けられたものの見方を補強する形で知識や知性を使うタイプのインテリは、どれだけ高度な理屈に見えても「人文レトリックを塗した屁理屈」に過ぎない。

 

 

おかしいと思うことを言えない世の中はおかしい」という主張は一見もっともに響きますが、その背後には「自分の意見は反論されないはずだ」という無意識の前提が潜みます。

しかし公共空間とは、誰かが「おかしい」と言えば、別の誰かが「いや、それは違う」と応じることによって立ち上がる場です。反論は封殺ではなく、むしろ対話成立の証拠なのです。

 

「自己投影」としての批判

そもそも日本の左翼や一部のインテリ知識人は、SNSを見る限り、フォロワーは多く、オールドメディアにかぎらずYouTube等でも精力的に発信していたりする人も結構いる。信者たちには崇拝されているようにもみえる。

しかしその見かけの量や知名度に比較して、実際にはほとんど現象を動かす力がない。むしろそこまで知名度がなく、見かけの量が少ない人がより大きく現象を動かすことが観察される。

 

まぁそれはともかく、左翼にかぎらず、メディアやSNSで目にする学者や精神科医などの一部にも以下↓のような感じの人は結構いて、「偏差値」や学歴にかぎらず、知識量や言語化能力、IQだけで測るタイプの学者、インテリも結構いる。

支持率下げてやる」が成功しなかったら、今度は「支持した奴らを下げてやる」みたいな、「俺たちは上、お前らは下」の形に何としても持っていきたい、そういう勝ち負け意識が前面に出過ぎていると、

勝因分析にせよ敗因分析にせよ、粗く雑な主観的ロジックになる。負けた側が勝った側のロジックを腐すことばかりしているのは、自らの思考パターンを内省し、成長させることの放棄でしょう。

「これが偏差値60以上の知性か!」というよりも、「これが偏値60以上の人の思考パターンか!」という感じです(笑)

一言でまとめるなら、この発言群は「賢い愚鈍」の典型です。他者を見下しながら、自分は高みに立っているつもりで、なぜ拒否されているのかを最後まで理解できていません。

 

過去にも、社会学者が「インターネットで人々が政治参加すると民主主義が良くなる ── 。ありえないでしょ。だってクズが参加してくるんだよ。クズが参加した結果、民主主義が劣化していったんですよね」とメディアで発言していましたが、

現代の政治・思想言説で頻繁に使われる「幼稚」「劣化」「クソ○○」「○○ウヨ」といったレッテルは、分析概念ではなく、理解を放棄するための雑な単純化です。

これらの語が多用されるのは、他者を理解し損ね、自らの言葉が届かない理由に耐えられなくなったときの「症状」です。

 

皮肉なのは、こうした単純化が、彼ら自身がもっとも批判してきたエコーチャンバーやポピュリズム的思考、さらには「自動機械的なる反応装置」としての言説様式と同型であるという点です。むしろそれは他者批判の形式をとった自己投影であり、結果的に「自己紹介」になっている。

けっきょく「灯台下暗し」のまま他者を批判するだけだからダブルバインドになり、信頼を損なう。

 

知的権威の孤立と創造的退行の公共圏

インテリ層への反感というのは、単なる「嫉妬」ではなく、知的権威が民主主義的平等原理と衝突する場所で発生します。

現代では、インテリ層の知が形式化する一方で、大衆的知識(SNS文化、ミーム、俗語、感情共有など)がリアルタイムの社会的知性として作用しています。この二つの知の間に生まれる緊張が、まさにいまの公共圏のダイナミズムを形づくっています。

 

SNSではこの二つの認識が直接ぶつかり、「専門的知」が政治的に相対化されるようになった。結果、インテリは「大衆の声は劣化だ」と感じ、大衆は「インテリは傲慢だ」と感じるという二項対立が強化されていく。

この断絶は、政治的民主主義と認識的ヒエラルキー(知の階層構造)との緊張でもあります。

インテリ層はSNSの「大衆のノイズ」を“劣化”と呼ぶ傾向が多く見られるけれど、たとえば「加速主義」も大衆的なるものへの「諦め」が根本にあり、加速主義には大きく二つの型があります。

 

シニカル型(破局待望型):社会の自壊を「清算」として受け入れる立場。これは「構造的絶望」を理論化したもので、行動より観察と皮肉に傾く。この型は特に「左派的知識人のニヒリズム」に見られます。社会への関与よりも「知的超越」を選び、結果として現実変革の可能性を放棄します。

参与型(自己免疫信頼型):社会のノイズや混乱を「治癒の兆候」として捉える立場。矛盾や逸脱を排除せず、開かれた自己修復システムとしての社会を想定します。この見方は、〈社会=閉じた機械〉ではなく〈社会=免疫システム〉と考える点で重要です。破局の代わりに揺らぎを正のエネルギーとして活かす。

 

私の場合は、SNSの「大衆のノイズ」をマクロな次元での「創造的退行」の一種として捉えています。退行(regression)は通常「未熟化」「幼児化」として否定的に捉えられますが、心理学的には、抑圧された感情や集合的無意識が表に出る再生の契機にもなりえます。

SNSの「ノイズ」も、社会の深層にあった欲望・不安・違和感が表出する過程だとすれば、それは破壊的であると同時に創造的エネルギーを孕んだ動きです。

 

個々の投稿や炎上現象に注目すると、無秩序で不毛に見えます。しかしマクロ、あるいは長い時間軸で見ると、それらは旧来の公共圏・知識体系・権威構造がもう機能していないという社会的シグナルでもある。

つまり、「ノイズ」は「新しい秩序がまだ整っていない状態」=次の段階への過渡期的混乱とみることができます。社会的フラストレーションのカタルシス的排出が行き過ぎれば破壊的ですが、そこから新たな感情的文法や社会的共感の回路が生まれる可能性もあります。

つまり「創造的退行」とは、社会が自己の衝動面を再発見し、それを通じて更新される過程とも言えます。SNSのノイズは「理性の崩壊」ではなく、「理性を超えた社会的創造過程」の初期段階だという見方です。

このカオスは未だ「可能性の段階」であり、見切りありきの加速主義的な捉え方はしていません。

 

なぜ多くの高学歴者が前者(シニカル型)に偏るのか。いくつかの社会心理的・構造的理由があります。教育制度の成果主義が「答えのある問題」に慣れさせており、「カオスからの創発」を信じにくい。

思想的文脈(啓蒙主義の遺制)が、「進歩は理性による秩序化」でなければならないという無意識のバイアスを生むこと。そして感情的領域の軽視が、大衆発の情動運動を「非理性的」と断じる傾向につながるから。

この結果、彼らは社会が自ら変容する“非計画的過程”を信じられなくなり、「破局による浄化」しか想定できなくなるのです。

 

近代民主主義は、「大衆は未熟だが教育可能」「討議を通じて理性的になる」という前提をどこかで持っていました。しかし「クズが参加するから劣化する」という発言は、大衆は改善不能、参加はマイナスという、ある種のエリート的ペシミズムです。

既存の知識層は「統制可能な公共圏」に慣れていたゆえに「現状維持」に拘るが、現状維持したいものがSNSによって壊されることに彼等は我慢がならない。

つまり、彼らが守りたいのは「民主主義」ではなく、「自分たちが優位に立てる民主主義の形式」です。

そこにあるのは最初から「庶民」「社会」に対する「諦め」でしょう。「クソ社会」とか、「劣化した○○」などもそうで、最初から決めつけて自己完結しているだけなんですね。

 

平たく言えば、左派・リベラル知識人や人文系インテリの「賢い我々の言うことを馬鹿な大衆は黙って聞いていればいいのだ」という心理は、裏を返せば「自分の言葉が世界を規定できる」という万能感への執着です。

なのでこういった人たちによる「クズ」とか「馬鹿」とか「劣化した○○」等のラベリングは「構造的防衛反応」に過ぎません。

大衆が自発的に(知識人の想定外の方向に)動き出すことは、彼らにとって自分の知性が否定されたことと同じ意味を持ちます。そのため、社会の変容を「進化」や「変化」と捉えることができず、「劣化」と呼ぶしかないのです。

大衆が自発的に行動し始めると、知識人は自分たちの権威的立場が揺らぐため、侮蔑の言葉で距離を取る――という心理構造ですので、一切気にする必要はありません。

 

彼らが守ろうとしているのは「社会の質」ではなく、自分たちが言説空間の中心に座っていられた「古い椅子の座り心地」に過ぎないからです。

本当の意味で非インテリや社会や民主主義を信じているなら、あるいは「対等な他者」と思っているのであれば、想定外の動きを見せる非インテリに対して、侮蔑ではなく、「なぜそうなっているのか」という知的好奇心を持って向き合うはずですから。

 

とはいえ、「賢い愚鈍」が、他者を「幼稚」「馬鹿」「底辺」と定義する理不尽な構造もようやく終わりつつある流れに入ってきています。

 

見世物化された論争と排他的公共圏

本来の公共圏は、「立場を超え応答し合う」ことで「前提や価値観を問い直す場」であるはずです。ところが、「誰がより正しいか」「誰が相手を論破したか」という勝敗の論理が支配すると、思考の往復運動が止まり、公共討議は枯渇します。

昭和から平成にかけて一部の社会学者や知識人がメディアで「論破」や辛辣なレッテル貼りを見世物化した姿は、この傾向の縮図でした。そこで形成されたのは、自己評価が過度に膨らみ、他者からの承認を糧に語りを強化していく、いわば自己愛的に肥大した“教祖型の言論スタイル”です。

当時はSNSが存在せず、情報発信の回路が限られていたため、「知識量が多く、テレビや論壇に登場できる人物」は希少でした。

その希少性が“選ばれた語り手”というイメージを強化し、視聴者からの注目や称賛が集中することで、自己愛的報酬(ナルシシスティック・リワード)が繰り返し与えられる環境が生まれました。

この環境は、心理学的には「外的承認による自己肥大」を促し、本人の内的な検証能力や他者理解の回路を弱めていきます。

その結果、論破や断罪を行うほど評価されるという成功体験が積み重なり、“攻撃こそが自分の価値を証明する”という歪んだ自己強化サイクルが形成されていきました。

 

こうした言論スタイルは、後の公共圏における攻撃的言語のテンプレートとなり、そこでは「理解」ではなく「切り捨ての鮮やかさ」が重視され、言説は対話からパフォーマンスへと変質していきました。この「見世物化された論争」は知的に見えても、公共圏の討議能力を蝕みます。

やがて人々は彼等に対する「違和感」を自信をもって言語化することをやめ、公共空間は「正しさを演じる者」だけが居座る閉じた舞台になっていきました。こうして日本の公共圏は長い間、特定の価値観を「正統」とみなし、それ以外の声を黙殺してきた。

 

平成期以降、アカデミアや一部メディア空間では、リベラル的価値が「正しさ」「倫理」「科学」「弱者の側」という語彙と結びつき、規範的正統性の中心を形成してきた。その語彙と接続できない声は周縁化され、可視化されにくい状態が続いた。SNSの普及とともに、それらの声が一挙に可視化され、政治的に噴出した。

人文アカデミアへの批判、ジェンダー言説への反発、ポリコレ拒否、参政党の支持拡大、自民党の大勝利、チーム未来の伸長——これらの現象の一部には、公共圏における規範的中心性への反発という側面が確かに含まれている。

 

この構造は、ハーバーマス「討議的公共圏」よりも、ナンシー・フレイザーが批判した「排他的公共圏」モデルに近い。特定の価値観が公共性の基準として固定化され、それに合致しない声が「危険」「無知」「反科学」「差別」として排除され続ける構図です。

しかしいま、この構造は根底から再編されつつあります。左派・リベラル的価値観が「公共圏の正統」として機能してきた時代が終わり、これまで排除されてきた声がSNSを通じて可視化されている。言葉の正統性そのものが問われる局面に入ったのです。

この変化に最も強く抵抗しているのが、長年公共圏を支配してきた知的エリート層です。彼らの言語には、異論を「ネトウヨ」「反知性」「差別主義者」などと括り、議論を始める前に相手を無効化する傾向が顕著です。

この攻撃的レッテル貼りは、己が信じる正しさが揺らぐことへの不安と、承認された自己像を維持しようとする構造的依存から生まれます。専門家やアカデミアの語りが「お説教モード」「閉鎖性」「言語的マウント」として現れるとき、公共圏は硬直し、生活現場の知恵は切り捨てられていく。

いま生じている公共圏の変化は、混乱や質の低下でひとくくりに出来るものではなく、その中に「生の主権」を回復する地殻変動を含むものです。

生の主権とは、他者の語りに回収されず、専門家の意味づけにも無批判に従属することはなく、正しさの名のもとに沈黙させられない生の動きそのものを守ることです。

公共圏の成熟のためには、「正しさの独占」を手放し、「解釈の多元性」を認め、「対等な応答関係」を再生させることが不可欠です。そして、今起きている変化とはまさにその回復の始まりともいえるのです。

 

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