25年以上、脳外科医として活躍し、 ハーバード大学で教鞭もとっていた米国の神経外科医エバン・アレキサンダー氏、彼はアメリカのベストドクターズにも選ばれた経歴も持っており、 25年以上医療の最先端で科学的に脳を研究してきた脳外科医の権威ですが、
その彼が「臨死体験」を経験して「死後の世界がある」という結論を導き出したことが話題になっていますね。これは本来は非論理的なものに対して懐疑的な理系エリートが神秘体験によって一気に飛躍してしまう結論の出し方に似ています。
私は理系的な分析だけではおそらく当分は解決できないだろう未知の感覚を全否定はしませんが、だからといって理系的な分析も否定はしていません。
また私自身が様々な神秘体験を過去に経験したとはいえ、オカルト的な解釈を全肯定しているわけではありません。(一部は肯定しています)
光が見える、霊や妖精を見る、神を見る、物理的には不可能な位置から遠く離れた人の状態を知覚する、正夢、他次元的感覚などの経験は、臨死体験や麻薬とは無関係であっても実際に起こりえますし、不可思議なことは沢山あります。
それでも私はオカルト的な霊的進化の世界観に関しては基本的には否定的です。何故かというならば、そういう体験はどれだけリアルでも表象的なものに過ぎないからです。もっと本質的なものをその内奥に感じるからです。
そのような非論理的な霊的世界も物質的な現実も、「その内奥にある何か」の表れの全体性の一部に過ぎないから、
どちらにも囚われ過ぎることがないよう、内外の調和バランスをもったまま対象を過剰に分離せずに全体性として見つめるという立ち位置が必要なんですね。
よって霊的なカルト・病的なオカルトも、過剰な現実主義者も、実際は同じ穴のムジナであり、根っこは同じで表象が異なるだけの原理に過剰に囚われた似た者同士ともいえるわけです。
カルト的な破壊性や分離性の強さは過剰な現実主義者にもよく見られるし、むしろその規模は遥かに大きく強いのです。この両者は双子の兄弟であり、共に「無意識の全体性」から分離し生まれた一方が過剰化した結果に過ぎません。
なのでどちらも互いの世界観に対して非常に攻撃的で闘争的で排他的なんですね。そして霊的なカルト・病的なオカルトの方がより小さなミームであるため、文化葛藤によるアノミーと認知的不協和は共に増大しやすくより病的になる傾向が高いことを指摘しているわけです。
なので伝統宗教や伝統的な民族文化がシッカリと社会に機能していることが必要だと考えます。そこにはオカルト原理主義的な霊的方向性への過剰な一体化はなく、過剰な唯物論的な現実主義でもなく、
「その民族と生物学的に親和性の高いより普遍的な中性の集合的物語」が存在し、それは両者を繋ぎ、二つの集合的無意識をバランスさせる役目があるからです。そのバランスさせる働きが自我を過剰な内的分裂から守ることにもなるからです。
ですが高学歴の理系の人たちが起こしたカルト事件のように、「神秘体験と理系」というセットは深層心理学的に見ると「非常に相性がよい」です。
何故かというと、「非論理的なもの」に対して過剰に抑圧化する社会の中にあってさらに理系の人たちはその極みに生きているわけで、そのため、逆に無意識内では「非論理的なもの」が強化され不調和が形成されやすい状態だからです。
論理的な人や高学歴な人が何故、普通の人ならそこまで過剰に囚われないような「非論理的」なことに過剰に囚われるのか?と言えば、
「存在の無意識の全体性」において「片方が不足している不調和状態」である時、「本質的な調和の回復を求める無意識の反動」が生じることによって、より過剰な囚われが起きるわけですね。
「臨死体験」「死後の世界」とは何か
「個人と他者は完全に分離されているのか?」と問われれば、普通はそんなの当然だろうと人は言うでしょう。
まぁ確かに個人と他者は分離されてますね。ですがあなたの身体感覚や体と外界の境界を作り出しているものは全て脳・神経によるものであり、これは例えば脳の麻痺や、身体の一部の切断などが起きた時、人が味わう奇妙な身体感覚で説明するとわかりやすいでしょうか。
過去に書いた記事で、「脳と変性意識と集合意識」をテーマにした記事が幾つかありますが、補足として以下のリンクでそのひとつを紹介しておきます。
その記事の後半部に張っている動画に、脳科学者のジル・ボルト・テイラーが体験した驚くべき体験があります。彼女は広範囲に及ぶ脳卒中の発作により、自分の脳の機能―運動、言語、自己認識―が、1つひとつ活動を停止していくプロセスを観察することになったのです。
「私」と「外界」の境界を脳が作り出しているという体感的な経験を彼女はしました。
疑似科学・迷信・オカルト的思い込みの心理学「脳と変性意識と集合意識」
人が手や足などの体の一部を人が失うと、そこにはもう物理的に存在しないはずの身体を、人は「まだそこにあるように感じる」という現象が起きることがあるのですが、これは脳が知覚として私たちに「身体とその形状、境界の感覚を与えている」からです。
同じく脳の麻痺などで脳の働きが停止すると体の境界がわからなくなり、その時「私」と言う物理的な区分けが脳・神経の与えた記憶・情報であることを体感的に確認できるわけです。
ですがこのことを理解するために脳麻痺や手足を失なう必要はなく、これは瞑想でも体験できることなんですね。
よく「宇宙と一体化する」などということをスピの著名人が話していたりしていますが、あれは「私」という身体的な外界との分離感覚を取り払ったときに生じる、無意識の領域の状態を感性的に表現したものなんですね。
「臨死体験」「死後の世界」と呼ばれるものは、そこで「垣間見るもの」は、自他の物理的境界が壊れたことによって、個人の無意識と集合的な無意識の記憶情報の相互アクセスが強力に生じ、その複合的な情報の感受・伝達によって投影されたものが表象化された結果、ともいえるのです。
無意識内で起こる瞬間移動や次元の切り替わりによるビジョンの変化も内観で確認していますが、それは「臨死体験者」の報告や「死後の世界」を語る霊能関係者と何ら変わるものではなく、また幼児や赤子が「前世の記憶を持つ」という「生まれ変わり」の報告にしても同じなんですね。
自他の区別が明瞭ではなく、集合的無意識へのアクセスが頻繁に起きている状態が幼児や赤子の状態であり、個人の無意識と集合的な無意識の記憶情報の相互アクセスが強力に生じていることで、文化的なミーム以外にも、様々な転写や投影が起きています。
集合的な無意識で表現されるものは物質的には非存在であっても、精霊化した情報(比喩表現)としてホログラフィックに存在しており、内的には最大の影響力を持ち、その内的影響力が外界に投影されるという意味で外界の物質次元にも影響しているわけです。
ここで「死後の世界」「生まれ変わり」はあるのかないのか?どっちなの?と言う方は、今までの話で私が伝えようとしている真意がよくわかっていません。
「死後の世界」「生まれ変わり」は「自我」や「主観」を「どう解釈するか」で「あるともいえる・ないともいえる」「どちらともいえる」ようなものなんです。
そしてそういうことよりももっと本質的なものがその内奥にあることを感じ「生」の全体を見つめるならば、「死後の世界」「生まれ変わり」は、「どちらもない」、そもそも「それがあろうがなかろうがどうでもいい」ともいえるんですね。
霊的進化だとか霊的な世界だとか、現実への過剰な囚われとか、そういう分離的な概念にこだわるより「もっと意識を向けることがある」と気づくからです。
誰でも「無意識の領域」を感性的に経験すれば、元々それは初めからそういうものであり、誰でもそうなのだから、それを経験したからといって、その誰かが特別な存在とかいうわけではないんですね。
そういった霊的な経験に過剰に囚われ現実をおろそかにする、あるいは現実を幻として無意識の体験のみを一方的に投影するような在り方には何の意義も無いからです。そしてその情報の感受の仕方には多くの歪みがあることを知らないままにそうする時、それは狂気にもなる。
「自分と外界の境界がなくなり万物と一体化する経験」は、荘子の胡蝶の夢(こちょうのゆめ)での問いかけのように、「果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。」というような、一切斉同の体験が含まれています。
自他の境界感覚というものは、顕在意識では強力に区分けされているように感じるものですが、潜在意識から無意識の領域へ向かうほど、それは無くなっていくんです。
もちろん完全に無くなるというのではなくて、主体として「存在」はあります。ですが無意識下での私たちは、「あらゆるもの」であり同時に「個」でもあるような、様々な意識が混在し共存した存在なんですね。
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