このブログで扱うテーマは病的なもの全般だけでなく、「健康や幸福及び自己実現に役立てる心理学」もテーマにしています。今はまだ「病的なもの」が中心です。何故ならこちらの方がより深刻で「今その状態にある多くの人々」にとって現実的テーマだと考えるからです。
ですが全体の割合でいうならば、「心・精神の病を患っている人」や「病的なものの考察を必要とする人」よりも、「健康や幸福や自己実現」に関心がある人の方が断然数は多いわけですね。
今はよりマイナーなテーマを重点的に検証及び分析しているわけですが、改めて思うことは、人気のないこのテーマを深く多角的に分析して掘り下げる人の数は少ない。
だから病的な原理主義的な霊的世界観やカルト系新興宗教などに人はたやすく付け込まれるんだなぁと感じるわけです。
オカルト系の本は昔はよく売れたし、最近はスピ系がよく売れていますが、それらが総じて悪いわけでも有害というわけではないんです。しかし中には悪質なものが含まれていることがあります。
しかしメディアは利益になれば何でもよいとばかりに煽ってきた。そうやって誇大で過剰な情報に溢れている中で、その中の一部の人が盲信しておかしくなることが結構あり、中には心・精神の病気や何らかの障害を有する人、自我の危機的な状況にある人もいて、
人がそういう不安定な弱った意識状態に置かれている時、そのタイミングでコロっと付け込まれれば簡単に騙されてしまう生き物であることも考慮されないままに、「騙される方が悪い」と「自己責任」にされていることも多いのです。
構築主義的な考え方の元、「全ては本人自身が構築したもの」として自己の責任という理屈に置き換えるわけですが、実際、人は自身の認識やパーソナリティを「自身のみ」で構築しているわけではなく、
人は外部の関係性・干渉などの力学と無関係に認識やパーソナリティを構築するような、「社会から完全に独立した個的な生き物」ではありません。
人の認識やパーソナリティというものは、遺伝・親・社会・コミュニティー、知人・友人や様々な情報・経験などによって複合的に形成されているものです。
つまり本当に「自己責任」を問うのであれば、「そういう状況に働きかけた、あるいはそういう干渉を人に加えて妄想や錯覚を与えることに関わった全ての他者」も、「それぞれの個人に完結した判断と行為でそれをやった」ということになるわけだから、
「自己責任」を公正にそれに従って生きているというのなら、あらゆる自他の行為に直接的・間接的に影響を与えた関係の全体、その部分を構成するそれぞれの個人の責任も同時に問われることになるのです。
ですが実際の世にあふれる「自己責任」という言葉の場合、むしろ都合よく「公正さ」は見過ごされ、しかも外部の存在は問題とは一切無関係であることを装うわけです。
複合的な力学をシッカリ多角的に考察することをせず、一方的に個人の問題として片づけるのは、自殺やうつや犯罪への社会の認識や取り組みの在り方にもよく見受けられることです。
怒りや批判の矛先を「問題を表出化し具現化した個人」のみに向けた方が、「目の前に見えている悪・問題をやっつけたい人々」の心理的なガス抜き効果になるだけでなく、
管理側の処理・対策のコストも少なくて済むので効率的で、そして「責任」も回避出来るからそうするのでしょうが、そういうことをしているから「モグラ叩き」のような表面的対策にしかならず、根っこが残り続けるんですね。
その「根っこ」は、『それを叩いている「その社会自体の在り方」や親やコミュニティー、そして利益を得るためにそれに加担してきた複数の外部存在』の方にも大なり小なりあるでしょう。
しかし黒幕や影響を与えた複数の関係者はいつも安全無事であり、「逸脱した目立つ下っ端」に全責任を押し付け片付けて事なきを得るとうことですね。
だから似たような問題はこの先も次の世代によって引き継がれ、新たな人々による新たな現象として噴出することが続いていくでしょう。
ある意味それは、黒幕や影響を与えた関係者を守り続けるために吊るしあげられている状態でもあり、社会の問題を一部の対象にひきつけて矛先をずらして処理するためのスケープゴート役であり、
同時に、「今はまだ潜在的な病的状態の層」に対して、「そのまま進むとこうなってしまうよ」ということをハッキリと知らしめるための反面教師的な存在にされているともいえるでしょう。
これはアダルとチルドレンの「問題児役」が、親や家族の影の部分を問題化して吊るし上げられる構造に似ています。本当の問題の根っこは親・家族の方にあるのですが、
子供がそれを具体化し問題を自身にひきつける役、あるいは親・家族の抑圧化された影を表面化することで、「根源的に解消しようとする役」を無意識的に選択してしまうのです。(本人自身は何故そうするのかを無自覚でやっている場合が多いんですね。)
※「問題児役」はアダルトチルドレンの家族の役割のひとつであり、それに関しては以下の記事を参考にどうぞ。⇒ 子供の無意識の成長 「不幸にする親」が無垢な愛情を歪ませる過程
これは「家族」という社会的にはミクロな最小単位での無意識の不調和によって生まれる「問題児に働いている無識的な作用・反動」に限らず、より大きな社会的な単位ので集合的な無意識の場合でもそうであり、
無意識の不調和によって抑圧化された要素が、集合的な無意識の負の領域を形成し、それを「根源的に解消しようとする」役を持った存在が「社会的な問題児」として動いて社会の問題を自ら表現し、そして吊るしあげられる、ということが起きくるわけです。
※ もちろん社会の問題児や社会問題の全てがこの原理だけで動いているわけではありませんが、非常に深い闇や影を感じるような、大きな単位で多数の人々が関わり動いた結果の社会問題の場合では、この原理が絡んで起きていると観察されることがあります。
こういう問題が起きた時にどう対処するか、どう向き合うかでその後の流れは全く変わってしまうんですね。これは社会も家族も同じなんです。
本来は社会の大きなノイズとバグの対策は、社会のシステムの更新を持って取り組むレベルの対策が必要ですが、それを更新せずバクやノイズだけをその度ごとに、モグラ叩き式に叩いて、システム自体は旧態依然としたまま「問題なき」とするわけですね。だから本当の意味で変わらないのです。
これは道徳教育も同じですね。表面的な良い子だけを量産しても、本質的なところから自発的に理解し動いていないならば、人間性や個々の潜在能力というものは豊かには育たないのです。
管理人から読者様へ
最近よく記事テーマにしているカルトやオカルト系の新興宗教的組織などの問題は、別に「それだけが異常」ということを強調したいのではありません。それに類似した組織や個人は、宗教以外でも数多く存在するからです。
マルチやブラック企業、そして社会の権力的な組織や権威、既得権益の一部、そしてや過激なイデオロギー集団の中にも、そういう「病的な構造」が正当化された形で同様に働いていることが観察されます。
むしろこの方が「誰も眼にも目立つぶっ飛んだ感じの存在」よりも、もっと巨大で巧妙で悪質で桁違いの否定的影響力を持っていることがあるわけなんですが、
「一部の社会上部の既得権益や支配力を持つ集団」による「無意識的な横暴さ」が、破壊的な作用として社会に働いていることに関しては、おそらく非力な個人では全くどうにもならないことなので、
庶民全体で注意い深くそのことに目を向けつつ、その破壊的な集合作用に批判的に対処しながら、徐々に社会の在り方やシステムを庶民にとってより良いものに変えていくしかありません。それは個人の意見・主張だけでは無理で、「政治」の力学で動かしていく次元です。
このブログはそういう政治的なマクロ単位にアプローチするブログではないですが、時折そういうことを含んだ記事テーマで批判的に問いかける程度のことはあるでしょう。
よりマクロで物質的な形而下の領域である政治や社会の構造や在り方の問題というのは、その道の多くの専門家や学者達によって詳細な分析が行われており、また様々な議論のテーマにもよく挙げられています。
それは人々にとってより現実的な問題で、同時に大きな利権や権力闘争が絡む問題でもあるので、エネルギーがより多く向けられるテーマになっているんでしょう。
ですがそれに比べると精神世界やオカルトなどの世界と言うのは、感性を含んだわかりにくい見えにくい非現実な抽象的な領域であり、
同時に小さな利権しか絡んでいない問題でもあるので、政治や他の社会問題と同じくらいに本格的に学問的及び多角的な調査分析と研究をしつつ考察する人は少ないですね。
要はマイナーで掴みどころのない形而上のテーマを含んだ問題に対して、そこまでエネルギーをかける意義を見いだせないというのはある意味自然なことでしょう。
ですがこのブログでは敢えてそういうマイナーなテーマからスタートしています。
今はまだ「病的な構造」に巻き込まれてなく元気にやってる人でも「他人事ではなくなる」こともあるかもしれません。「私は大丈夫」という人がそうなることは日常茶飯事ですから。
また本人はずっと大丈夫でも、身内や知人友人がそういう病的な状態になる可能性もあります。この不安的でバランスを欠いた現代社会においては可能性はゼロではないんですね。 そういう意味もあり、まずは心・精神の病的な原理を掘り下げて書いているわけです。
またこのグログは、上記のテーマ以外に「癒し」に役立つものの情報や「人間とは何ぞや」という哲学的なテーマ、そして生命に関する科学的な考察なども行っています。これに関しては私自身の探求心がメインでやってるテーマです。
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