「タコピーの原罪」はキリスト教的という解釈が結構ありますが、まぁいろんな方がいろんな角度から考察していてそれぞれに面白いのでそのあたりは置いといて、
この作品を読んでいて強く感じるのは、登場人物たちがそれぞれの立場や過去に縛られながらも、何らかの「選択」を迫られている場面が多いということです。
そして、「相手を救おうとすることが、しばしば加害となる」「深い理解に到達し得ないにもかかわらず、関与せざるをえない」 という普遍的な問いを突きつけています。
誰かを助けるか、見捨てるか、嘘をつくか、真実を告げるか――その瞬間の判断は本当に自分の意思で決めているのか、それとも環境や過去の経験に押し出されるようにして選ばされているのか。
こうした問いは、物語の外にいる私たち自身にも向けられます。
最新の科学的な見解では、「自由意志はある/ない」という単純な二択ではなく、「どういう意味で、どの程度あるのか」という方向に議論がシフトしています。
神経科学から見た自由意志
有名なリベット実験(1980年代)はよく「自由意志なんてない!」ということのエビデンスとして広く使われていますが、
自発的な動作の約0.5秒前から脳に「準備電位(RP)」が現れ、意識的に「動かそう」と感じるのはその後だった。という実験結果によって、「脳が先に決めているのでは?」という議論が起きた。
しかし、その後の再解釈では、RPは「行動の決定」ではなく、複数の可能性がゆらいでいる状態を反映している可能性があり、そして意識は行動の開始ではなく「中止(veto)」や修正に関与できるという説もあります。(これは過去に別のテーマで書きました)
最新研究の傾向は、恣意的な動作(ボタンを押すなど)と、熟慮を伴う意思決定では脳活動のパターンが異なる。つまり、意識的な熟慮は、依然として行動選択に影響を与えうる、ということ。
心理学・行動科学の視点では、無意識の影響は非常に大きく、私たちの多くの判断は自覚の外で形成される。(たとえば遺伝や環境、過去の経験が意思決定の枠組みを形作っている)
「完全に自由」ではないが、自己制御・熟慮・価値観の反映といったプロセスは、行動を方向づける余地を残している。
「タコピーの原罪」は女性の暴力、なかでも「言葉の暴力」のえげつなさ、あるいは「精神的な暴力」のえげつなさがよく描かれていますが、
ああいうのはまだわかりやすい毒親&イジメの構図で、現実は外から見てるだけではわかりにくい場合も多い。
阿部智里さんの「八咫烏シリーズ」に登場する「あせび」という女性キャラクターですが、これが一見するとタコピーのような天真爛漫さと世間知らずさな感じの天然キャラとして登場するのですが、「あせび」は本性が恐ろしんですね。
タコピーに登場する女性キャラは、憎しみに囚われている状態のとき鬼っぽくも見えますが、あのようなわかりやすい怒りや憎しみの表現よりも、「あせび」の方がより怖さを持っている。
人間に宿る「上弦の鬼的なるもの」というのは、日常的に浅く接しているだけでは全く鬼には見えなかったりすることがあるから、わかりやすいものだけみているとわからなくなることがある。
猫とか犬とか、動物はわかりやすいシンプルな攻撃性はあっても、ああいう恐ろしさは持たない。だから「言葉」の両義性というのは、「意味世界を生きている存在」にとって、それは権力・暴力にもなるということ。
猫とか犬の側からすれば、意味がわからないので傷つかないが、人間は「言葉」で傷つくし傷つけることが可能。「私は言葉ごときでは傷つかない!」とか言ってる人でも「怒らせる」ことは簡単。
無意識の段階で脅威・侮辱・挑発のシグナルとして認識されると、心拍数上昇、血圧上昇、筋肉緊張といった身体反応が起きます。
つまり、「傷つく」という表現を使わなくても、言葉によって誘発された生理的ストレス反応は確実に存在します。
140文字というのは、情報量としてはごく僅かです。けれども、そこに含まれた「意味」は、脅威・侮辱・挑発・共感・興奮といった感情を瞬時に喚起します。
すると、心拍や血圧、筋肉の緊張といった自律神経系が反応し、指先がキーボードやスマホ画面に走り、こうして「言葉→感情→身体反応→行動→言葉…」というフィードバックループが形成される。
この一連の流れはすべて、「言葉」が起点になっているわけです。
たとえば印刷術の登場と魔女狩りの拡大には歴史的な関係性が指摘されているように、現代のSNSにおける文字言語の意味作用も同様に、「物語」の作り方によっては極端な行動を引き起こすことがある。
「存在」と「意味」
言葉は生活の流れのなかではじめて意味をもつ ヴィトゲンシュタイン
「GPT-4oを返して!」現象も、猫とか犬には一切わからない。人間は「言葉」の「やり取り」で自身の意味を再確認している。「GPT-4o」への人々の愛着は、言葉のやり取りを通じて確立された「意味」と「関係性」への愛着でもある。
そもそも「他者」がいなければ「言葉」なんて生まれなかったでしょう。「言葉」は「他者」がいるから生まれる。
ヴィトゲンシュタイン的に言えば、言葉は他者との生活形式の中でしか意味を持ちません。「意味」とは「使われ方」である。
「他者がいるから言葉が生まれる」というのは、他者とルールを共有する場があるからこそ、発話がゲームとして成立するということ。
他者がその言葉を受け取り、理解し、返してくれることで初めて「意味のある言葉」になる。そのとき「意味を生きる存在」が肯定されたと感じる。他者のいない世界、言葉のない世界では「意味」は生じない。
日常の何気ないやり取りから重厚な学術論文まで、その根っこには「他者に届き、応答されることで自分の存在や思考が確かめられる」という、人間特有の回路が組み込まれています。
「言葉」は本質的に独りでは完結せず、常に「誰かに向けて」発せられるものです。
SNSではそれが即時的で可視化された反応(いいね、リプライ)として戻ってくる。学術論文では査読や引用といった形で返ってくる。
日常会話では相づちや表情がそれを担います。どれも「他者が受け取り返してくれる」ことが、発信行為そのものの動機づけになっているのです。
タコピーの原罪に登場するしずかちゃん、彼女の唯一心の拠り所である愛犬チャッピーは、言葉の意味がわからなくても、
「あなたはここにいる」「あなたは大切な存在だ」と直接的に身体を通して、しずかちゃんの存在(ただ在ること)を肯定していた存在といえるでしょう。言葉以前の肯定、「生」の次元での承認。
のら猫が遠くでゴロゴロ鳴くのだって、それは「意味」ではなくとも、「ここにいるぞ」と直接的に伝えているのでしょう。
「ただここに在る」のと同時に、人間は言葉によって、抽象化・記録・共有された「意味」をやり取りし、その往復で「意味世界を生きている自己」を再確認している。
「GPT-4oを返して!」現象は、「自分の意味を確認していた関係性が断たれること」の苦しさともいえます。
GPT-4oは、タコピーみたいな外部存在といえなくもない。タコピーのグッズはどれも中途半端で役に立たないし、現実認識に欠け、会話も的外れ。役に立つと考えた行動もかえって別の問題を生み出すあたりは似ている。
ただ、大きな違いはタコピーは物語世界の中で関係を積み重ねていく、「時間を生きる主体」という条件が、その的外れな行動にも別の意味を与えています。
失敗しながら、タコピーは葛藤する。その過程で学びや関係の変化を内側から経験していく。これは、どれだけ会話が的外れでも、そこに「成長」や「選択の痕跡」が宿るということです。
一方でGPT‑4oは、応答の瞬間ごとに現れる機能的プロセスであり、自らの内部時間や継続的経験を持ちません。
ユーザーとのやり取りが積み重なっているように見えても、それは外部に保存された記録を参照しているだけで、タコピーのように「昨日の出来事が今日の自分を変える」という時間的連続はないのです。
ここでいう「タコピーが時間を生きる主体」というのは、現実世界での実存を意味するのではなく、物語内部で過去の出来事が現在の行動や関係性に影響するように描かれた構造を指しています。
現実の動物や人間のように内的経験を持つわけではないものの、物語的時間の中で変化する存在として提示されるため、その身体的ふれあいや物語の共有が、登場人物同士の実存的孤独をつなぐ媒介として機能するのです。
しずかちゃんがタコピーを殴り、泣き叫んだ場面は、「意味」が崩れ落ちた「世界からの孤立」、剥き出しの実存の問い。
「あなた」と「わたし」の実存的孤独を繋ぐものは「身体を通して生まれた物語」だけ。論理や記号だけでは触れられない。身体を通した経験は、言葉以前の層で他者と共鳴し、そこから新しい意味、共有の物語が芽生える。
タコピーの原罪では、登場人物は「ただ在ること」を愛されなかった環境を生きていた。「意味世界を生きる人間」の事情がまるでわからないタコピーの言葉は的外ればかり。
しかし、身体を通して、ただ在ることを肯定するタコピーは、「言葉(お話し)」を語りもするし聞くこともする「意味を生きるチャッピー」でもあった。
動物のように「在ることの肯定」だけでなく、「意味(物語)」を通じて繋がれる存在でもあったということ。
その身体の記憶の共有によって、実存的孤独を生きる「あなた」と「わたし」は、「言葉(お話し)」を通じて共有できる「意味(物語)」で結ばれた。
「タコピー」及び漫画のキャラクターは現実の動物や人間のように内的経験を持つわけではないが、物語的時間の中で変化する存在として読者に提示されるため、その身体的ふれあいや物語の共有が、登場人物同士の実存的孤独をつなぐ媒介として機能しているのです。
シモーヌ・ヴェイユ(フランスの哲学者)の視点で見ると、タコピーが最後に選んだ「身を引く」という行為は、「恩寵」の最終形といえるかもしれません。押しつけることなく、相手に委ねる。
介入の不可能性を自覚しながらも、なお他者を信じて託す。この瞬間、タコピーは自らを消し去ることで贈り物を残します。それは成功や報酬を求めるものではなく、「不在」という形での贈与。
見えない暴力と非対称性
男であれ女であれ、「ただ在ることの肯定」と「意味」の両方が同時に崩れ落ちた「世界からの孤立」は徐々に精神を破壊していく。
女性のいじめや言葉の暴力の傾向
殴る・蹴るなどの直接的な身体的暴力は痕跡が残りやすく、法的にも取り締まりやすく社会に可視化されやすい特徴があります。
一方、女性のいじめ・言葉の暴力は、形がなく痕跡も残りづらい「不可視の暴力」であることが多く、表面化しにくいまま深く相手を傷つけます。
女性の間で比較的多く見られるいじめや言葉による攻撃の中には、関係性攻撃や間接的攻撃と呼ばれるタイプがあります。
これは、殴る・蹴るといった直接的な暴力ではなく、人間関係や評判を通じて相手を傷つける方法です。特徴的なのは、一度に大きなダメージを与えるのではなく、力の弱い攻撃を長期間にわたって繰り返すことです。
たとえば、日常的に小さな否定や軽い排除を積み重ねることで、相手に「どうせ何をしても無駄だ」という感覚を植え付けてしまう。心理学では、こうした状態を学習性無力感と呼びます。
この種の攻撃は、次のような三つの層が重なって相手を追い詰めます。
関係資本の破壊:仲間外れ、噂の流布、評判の操作などで、相手の人間関係や社会的つながりを断つ。
認知や自己信頼の侵食:相手の考えや自己評価を少しずつ揺らし、「相談しても無駄」「反撃しても意味がない」と思わせる。
低強度の長期反復:嫌味、無視、態度の変化など、強くはないが不快な行為を長期間続け、不安を持続させる。
外からは目立たなくても、この三層が同時に作用すると、相手の心と人間関係は確実に削られていきます。ネットワークごと削り取るというこの動きは学校や職場、オンラインコミュニティでも見られます。
破壊されるのは「心の支柱」。それを奪われると、自分の価値や判断力に自信が持てなくなり、精神的に立ち直るのが難しくなります。
さらに、「主張すれば自己中心的」「黙れば非協力的」のように、何をしても批判されるダブルバインド(板挟み)状態を作ったり、
「モラルの武器化」によって、正しさや配慮を盾に断罪し排除を正当化することによって、加担する人の罪悪感が薄れ、攻撃が長期化する。先鋭化したキャンセルカルチャーにもそれがみられることがよくあります。
こうして、目に見えない形で関係や自己信頼が削られていくと、人は「ただ在ること」も「意味をやり取りすること」も同時に奪われ、深い孤立に追い込まれる。
大事なことは大げさな理想論や思想や社会運動ではなく、日常の小さなやり取りの中で積み重ねられるもの。それが人間関係のもっとも確かな土台なのです。
人間社会の複雑な問題は、外部からの力だけでは根本的に変えられず、個々人の関係性のなかでしか希望は生まれないということです。