比較可能性の危機 ─ 制度的中立性の喪失と「悪」のインフレーション

 

八月も終わりですね。まだまだ暑いですが、やっぱり九月は夏という感覚ではなく、終わったなぁという感じ。

八月は時間が作れたので、下書きのまま数か月放置していた記事がやっと編集完了して更新できました。今月からははもっとゆっくりペースに戻ります。

 

前回書いた「本心とは?」の考察ですが、二項対立で考えるのではなく、相互作用している動的な運動としてみたほうが捉えやすいですね。

あとは構造。構造とは、単なる配置や形ではなく、関係性の網目です。たとえば医学における身体の構造的理解も、骨や筋肉の位置だけでなく、それらがどう連動し、どう環境と応答するかという動的な関係性を含みます。

つまり、構造を知るとは、動きの可能性と制約を知ることでもあり、これは有限性の領域です。

 

「本心」は「私」の領域。ここには「制約(有限性)」が作用しています。「無心」は心身一如。心身一如のゆらぎが創造性(可能性へ向かう動き)。

しかし人は無心だけを生きてはいません。動物のようにありのままだけで存在していない。

身体は自然界と相互作用し、「私」は社会と相互作用しています。「心」はその「あいだ」に動的に生じる。「心」はそれ自体では存在せず、「本心」などいう静的な実体などないのです。

 

語るという行為は、その「量」や「質」に関係なく、すでに言葉を使っている時点で、言葉を対象化し、外から眺める立場に立っている。

しかし、言葉はその「外」から完全に眺めることができない。なぜなら、「私」たちの思考も認識も、すでに言葉の構造の中にあるからです。これは「価値」も同様に。

 

心身一如の状態とは、その分離が起こっていない語る前の存在そのものから触れる。

 

しかし、「唯一の○○」を語る瞬間に、すでに他と比べられる構造が言葉の中に組み込まれてしまう。これは、言葉が「共有された意味」を持つために、必ず比較や分類の枠組みを伴うからです。

「語りえぬものを語ろうとばかりする」のではなく、言葉を使う以上は「語りうる範囲」を丁寧に探ること、「言葉」の有限性を引き受けたうえで有限性を見ていくことが「言葉」の領域においては大事なんですね。これは「価値」も同様に。

 

では一曲紹介です。なぜか夏の終わりに聞きたくなる曲のひとつで、Eagles「New Kid In Town」です。Eaglesの曲の中で一番好きな曲です♪

 

 

比較可能性の危機~力による決着へ

制度や判断の枠組みにおける「中立」とは、特定の立場や価値観に偏らず、誰に対しても同じ基準と手続きで比較・検証できる状態を指します。その核心は、基準と手続きの公平性にあります。

この理解は、マックス・ヴェーバーの価値自由論、ジョン・ロールズの政治的リベラリズム、ロバート・ダールの民主主義理論、ロナルド・フラーの手続的正義論など、複数の理論的伝統に支えられています。

共通するのは、「中立」を個人の態度ではなく、制度の性質として捉える点です。

 

もっとも、完全な中立は理論的にも実践的にも到達不可能で、どんな基準も暫定的で不完全です。

よって、『中立とは何か マックス・ウェーバー「価値自由」から考える現代日本』の著者の野口雅弘 氏が語るように、『制度を運用する側は自らの偏りを自覚し、他者の立場と「付き合わせる」対話的な作業』が必要です。

この基盤が崩れると、制度への信頼は失われ、最終的には「力による決着」へと回帰しやすくなります。それが不十分なままきた結果、世界は今のようになっている、ともいえます。

これは突然そうなったのではない、ということ。

 

「中立」の揺らぎと社会の分断

1970年代以降、欧米を中心に「絶対的な真理」や「普遍的な基準」への信頼が揺らぎました。価値観は歴史や文化によって変わるという認識が広まり、制度や教育、メディアに浸透しました。

この変化は、少数派の声を可視化し、多様性を尊重する動きを促しましたが、同時に社会全体で共有できる判断基準が弱まり、「どの物語を信じるか」が政治的争点になりやすくなりました。

 

リベラル派の一部の社会運動は、差別や不平等の是正を目的としながらも、特定の集団の声を優先しすぎる傾向が強まり、他の立場が軽視・排除される事例が見られるようになりました。

こうした偏りは、教育、報道、政策形成などを通じて制度に組み込まれ、数十年かけて蓄積されてきました。

 

人間の知覚・判断は、言語・文化・経験・価値観といった条件に必ず媒介されます。何を「事実」とみなすか、何を「重要」とみなすかは、観察者の枠組みに依存します。

どの事実を取り上げ、どの順序で提示するかという編集行為そのものが、価値判断を含みます。完全に価値中立な情報提示は不可能です。

 

中立」を標榜する制度やメディアも、設計段階で前提や範囲を設定します。その初期設定が、何を可視化し、何を不可視化するかを決定します。したがって、「純粋な中立」は理論的にも実践的にも到達不可能です。

それでも中立が重要な理由は、比較可能性の基盤として、中立的な手続きや基準は、異なる立場や証拠を同じ土俵で比較・検証するための座標がなければ、議論は相互不干渉の並列主張に陥ります。

 

中立とは、特定の立場に等距離を装う態度ではなく、異なる立場や証拠を同じ基準と手続きで比較・検証できるようにする制度的・判断枠組みの性質である。

 

フェミニズム的枠組みと「制度設計上の前提」

多くの実務で採用されてきたフェミニズム的な「ケア」の制度設計には、「女性=被害者」「男性=加害者の可能性がある」という前提が組み込まれてきました(地域や時期によって違いはあります)。

制度設計の観点から見ると、こうした前提は制度設計上の偏りとして働きます。制度の入り口(名称、対象となる人の条件、広報のメッセージ)に含まれる前提は、その後の利用のされ方や社会の認識に長く影響を与え、簡単には変えられなくなります。

 

その結果、制度は中立性を失い、個人の価値観や判断傾向ではなく、制度そのものの構造に偏りを生む仕組みとなり、男性の被害や女性の加害が見えにくくなる状況が生まれました。

たとえば、DV防止法の制度設計では「女性相談センター」「女性シェルター」といった名称が使われており、「被害者=女性」というイメージが強く定着しています。

行政の資料や研修でも、加害者は男性、被害者は女性という構図が繰り返され、主要なメディアの一部報道もこの二分法を再び強調する傾向があります。

 

男性被害の「不可視化スパイラル」

調査では、男女とも一定の割合でDVや性暴力の被害を経験していますが、制度利用率は男性の方が極端に低く、この差は単なる被害率の違いでは説明できません。

ここには、制度的不可視化(入口設計・対象要件による排除)と言説的不可視化(メディア・教育・啓発における表象の欠如)が相互に強化し合う「不可視化スパイラル」が働いています。

 

男性被害者の多くは「どこにも相談しない」と答えており、これは制度の入り口に心理的・文化的な壁があることを示しています。

この構造は、恋愛や結婚の場にも波及し、婚姻行動の変化に対し、他要因と重なり合う一因として作用した可能性があります。経済要因だけでは説明できない傾向が、制度と社会規範の連鎖によって生まれているのです。

 

制度—文化—人口モデル

こうした現象は、フェミニズムが「平等を目指したが行き過ぎた結果」というよりも、制度設計と運用の複合的帰結として定着した構造的偏りとみる方が適切です。

制度設計上の偏り → 不可視化スパイラル → 異性間信頼の低下 → 婚姻行動の変化 → 人口動態への影響、という因果連鎖は、制度—文化—人口モデルとして整理できます。

このモデルは、統計、制度文書、社会行動のデータを組み合わせることで検証可能であり、もはや「副作用」という言葉では足りません。制度の根本的な特徴として再定義すべき課題です。

 

中立の再定義と未来への提案

本来的な意味での中立とは、誰にでも等しく適用できる測り方を設計・運用することです。態度としての等距離ではなく、制度的な比較可能性の基盤をつくることが重要です。

完全な中立は不可能でも、「不完全さを前提にした基準や手続き」を不断に見直し、改善し続ける姿勢が、信頼と合意形成の土台になります。

この姿勢は、数学における「極限」に似ています。到達できないからこそ、意識的に近づき続ける努力が必要なのです。

 

感情がつくる正しさ──ラベル化と社会的制裁の構造的循環

 

1. 感情から道徳への変換

心理学者ジョナサン・ハイトの研究によると、人はまず直感的に反応し、そのあとで理由をつける傾向があります。

この流れはだいたい次のようになります。

  1. 感情が生まれる(不快=望ましくない/快=望ましい)
  2. その感情をもとに価値判断をする
  3. 価値判断を「道徳的に正しい」として言葉にする

つまり、理由は感情のあとから付け足されることが多いのです。

 

2. 認知の違いと自己投影

たとえば、男性は必ずしも女性と同じ考え方や価値観で動いているわけではありませんが、しかし、この違いを意識しないと、相手の行動を自分の基準で解釈してしまいます。

心理学でいう自己投影とは、自分の中にある感情や欲求、攻撃性を、無意識に相手の中に見てしまうことです。

たとえば、女性的な経験や攻撃のパターン(人間関係を通じた攻撃や間接的な攻撃)に慣れている場合、それを「みんなに当てはまる普遍的な基準」と思い込み、男性の行動をそこに当てはめてしまうことがあります。

こうして、相手の意図を自分の行動パターンで説明してしまい、誤解が広がります。

 

3. 関係性を使った攻撃の三つの層

人間関係を利用した攻撃には、次の三つの層が重なることがあります。

  • 評判を傷つける(外側):噂や情報操作で社会的な信用を減らす
  • 自己評価を揺らす(内側):自分の判断や価値を疑わせる
  • 長く繰り返す(時間):軽い否定や無視を何度も続ける

これは、ガスライティングや小さな嫌がらせの積み重ねともつながります。攻撃の強さよりも、積み重ねによって効いてくるのが特徴です。

 

たとえば、先鋭化したフェミニズムや反差別運動の一部で見られるキャンセルカルチャー的手法は、「関係性を使った攻撃の三層構造」を政治的に応用した形と捉えることができます。

本来は解釈の余地がある表現、発言、行動を、悪意ある意図に結びつけて非難する → 「外側」の評判攻撃と直結し、対象者の社会的信用を一気に削ぐ。

事実確認や文脈検証を経ずに、特定の意図や属性を断定する → 「内側」の自己評価揺らしと結びつき、対象者に罪悪感や混乱を植え付ける。

事実に反する加害者像が固定化され、訂正が困難になる → 「時間」の層で再炎上や蒸し返しが繰り返され、社会的復帰を阻む。

 

もちろん、これらの批判やラベルが事実に基づく場合もあります。実際に差別的発言や加害行為が存在し、それを指摘することは社会的に必要であり、被害者の救済や再発防止に資する重要な行為です。

しかし問題は、事実の有無や程度にかかわらず、新たなラベルが次々と作られ、対象を「悪」として分類する範囲が際限なく拡張していく流れです。

この細分化は、

  • 社会的合意のないまま「悪」の定義を拡張する 
  • 軽微な過失や誤解も重大な加害と同列に扱う
  • 異論や反論を封じる構造を強化する

といった作用を持ち、さらに次のような特徴を伴います。

● 基準の不明確さ:何が「悪」とされるのかの判断基準が曖昧なまま運用される。

● 判定者・共感者の感情依存性:判定する人やそれに共感する人々の価値基準や感情の度合いによって判断が左右される。

● 制裁の一方通行性:一度「悪」と認定されると、訂正や再評価の機会がほとんどなく、社会的制裁が一方向に進む。

 

こうした不明瞭で感情的なプロセスのもとで極めて断罪的な制裁が一貫して行われると、公共空間での自由な議論や相互理解は困難になります。

こうして、もともとは特定の不正や差別を是正するための言説が、やがて「悪」のインフレーションを引き起こし、社会的信頼や制度的中立性を損なう方向に働く危険性があるのです。

 

4. ラベルと「正しさ」の武器化

ラベルは、その場で相手を不利にする強力な武器として機能します。ラベルが付与されると、受け手は相手の発言や行動を深く検討する前に「これは間違っている」と判断しやすくなります。

こうした作用は、ミシェル・フーコーが論じた「言説が権力として作用する」構造の一例であり、発言が単なる意見ではなく権力行使として解釈され、その解釈がさらに発言の不当性を強化します。

 

しかし、たとえば「差別主義者」というラベリングは、それ自体が強い負の作用を持ちますが、相手を悪と認定して叩くために見境なく使えば、本来の意味が薄れ、必要な場面で機能しなくなります。

ミソジニー」なども同様で、「個人への批判を属性全体への攻撃にすり替える」ことを繰り返せば、初期には効果があっても次第に信頼を失い、相手にされなくなります。

 

5. 板挟みとあきらめ

反差別やフェミニズム運動の場で、「立場を表明すれば加害者認定され、表明しなければ支持しないと見なされる」という状況は、まさにダブルバインドが社会的レベルで作用していることを示しています。

こうした構造は、発言の意図や文脈が十分に検討される前に評価が下されるため、当事者がどちらの行動を選んでも否定的な結果を招きやすく、長期的に固定化されやすい特徴があります。

 

このダブルバインドは、個人の心理的ストレスだけでなく、社会的関係の断絶や公共の議論の停滞を引き起こし、やがて心理学でいう学習性無力感を蔓延させます。

その結果、「どうせ何をしても無駄だ」という感覚が広がり、発言や関与を避ける行動パターンが社会全体に定着していきます。

 

この流れは、次のような自己強化サイクルになります。

  1. 感情(不快・嫌悪・警戒)
  2. 道徳化(個人的な価値判断を社会的な正しさに変える)
  3. ラベル化(特定の言葉で相手を分類し、正当化する)
  4. 権力関係の固定(相手を黙らせる)
  5. 心理的影響(無力感・孤立・長期的な疲弊)
  6. 感情の再生産(嫌悪や恐怖が残り続ける)

つまり、「感情 → 道徳 → ラベル → 沈黙 → 感情…」というループが回り続けるのです。

 

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