本心とは?  「得」と「正しさ」は別物か?

 

お前のほんとうの腹底から出たものでなければ、人を心から動かすことは断じてできない – ゲーテ

まぁこのゲーテの名言は感性的に言いたいことはわかりますが、しかし、今回はそれは置いといて、「ほんとうの腹底」というものは一体何のか?というようなことを掘り下げています。

 

よく「本心で語れ!」とか、「ほんとうのわたし」、みたいな、そういった言葉を聞きます。そういった言葉もその文脈において言いたいことはわかりますが、

心理学の文脈で「本心」という語は厳密な専門用語ではありませんが、ここでは便宜的に「自己の内的状態の総体」として扱います。

それは単なる一時的な気まぐれや衝動と同義ではなく、情動・感情・動機(欲動や欲求)・価値観などの心理的要素を含みます。

 

祈りと本心の関係

祈りのなかに現れる「本心」は、たとえ社会的な影響を受けていても、自己にとっての真実性を帯び得る。つまり、祈りは自己の条件性を自覚した上で行われる自己表現であり、そこに主体的な自己の誠実さが宿るということ。

キルケゴールに代表される実存主義的・宗教哲学的文脈では、信仰や祈りは「条件付けられた不完全な自己」が「絶対者(神)」に向けて投げかける、実存的な営みとして理解されます。

祈りは単なる願望や感情の発露ではなく、自己の有限性を踏まえた主体的な関与であり、自己の「真実」への志向が含まれます。

 

ここで「伊勢神宮」の動画の紹介ですが、鶴田真由さんの声がいいですね♪

 

「純粋本心」はあるか?

本心は必ずしも「社会的影響を受けていない純粋な声」ではありません。人は発達の過程で、他者の期待や文化的規範を内在化します。そのため、本心には生理的・自然的な衝動だけでなく、社会的に形成された価値や規範も含まれます。

もし「純粋本心」という造語を「社会的影響を一切受けていない本心」と定義するなら、発達心理学・社会心理学の立場からは、それは現実には存在しない。

一方、精神分析的立場(例:ユングの「自己」概念)では、個人の深層に社会的条件を超えた統合的中心が潜在する可能性も論じられます。

 

人は生まれた瞬間から、養育者や文化的環境との相互作用を通じて言語・価値観・行動規範を学びます。これらは内在化され、本人にとっては外部から来たものだと意識されず、あたかも自分の内から自然に湧いた感情や信念のように感じられます。

言語や価値判断を伴う自己意識的な思考や感情は、すでに文化的枠組みの中で形成されています。完全に社会的影響を排した内的状態は、生理的反応や原始的情動に限られます。

 

哲学や文学では、「純粋本心」を自己欺瞞や外的圧力から解放された、できる限りの自己の真意という比喩的意味で用いることは可能です。

この場合も、それは「完全に社会的影響を排した状態」ではなく、「影響を受けていることを自覚したうえで、自分が納得して選び取った内的立場」に近いものです。

 

心理学では、内面の働きをいくつかの層や水準に分けて説明します。

情動(emotion):外部または内部刺激に対する、自律神経系の変化や表情・姿勢などの身体的反応を伴う比較的短期的で強度の高い心理状態(例:驚いて心拍が上がる、顔がこわばる)。

感情(feeling):情動を主観的に体験したもの。情動の意識的側面(例:「嬉しい」「悲しい」と感じる)。

欲動(drive):生理的欠乏や恒常性の乱れに基づく、行動を方向づけるエネルギー源(例:空腹によって食物探索行動が促される)。

欲求(need):欲動やその他の動機を意識化し、具体的な目標として表現したもの。生理的欲求だけでなく、承認欲求や所属欲求など社会的・心理的欲求も含む(例:「温かいものを食べたい」「認められたい」)。

 

実存的な補足

実存哲学の視点から見ると、「純粋本心」という理想は、完全に社会から切り離された意識ではなく、
社会的影響を受けていることを自覚したうえで、自分が納得して選び取った内的立場に近いものです。

キルケゴールが言う「単独者」は、社会の中にいながらも同調圧力や役割期待から距離を取り、自分の存在の根拠を外部ではなく内面に求めます。

この意味での「純粋本心」は、歴史的な「制度以前の状態」ではなく、意識の構造的な自由を指す比喩といえます。

 

「社会契約以前の実存」との比較

政治哲学でいう「社会契約以前」は、ホッブズやルソーが描いた制度や法が成立する前の仮説的な自然状態です。

これは外的条件のモデルであり、内面の在り方は副次的です。一方、実存的な「制度以前」は、社会の中にあっても内面が制度や規範に依存しない状態を意味します。

この二つは直接同じではありませんが、比喩的に重ねることは可能。

例えば、アマゾンのピダハン族は、国家制度や市場経済からほぼ隔絶され、現在志向で暮らしています。ただし、彼らにも小規模社会特有の即時的な規範は存在するため、「完全な自然状態」や「純粋本心」とは異なります。

 

「本心に従う」とは

本心に従う」とは、浮かんだ感情を即座に行動に移すことではありません。重要なのは次のプロセスです。

自己の感情や欲求を認識する(例:怒りや悲しみを無視しない)。その背景や原因を理解する(例:なぜ怒っているのかを分析する)。状況や価値観に照らして行動を選択する(例:怒鳴るのではなく、冷静に意見を述べる)。

強い怒りを覚えたときに即座に攻撃的行動を取ることは「本心に従う」ことではなく、むしろ「自分は怒っている」と認識し、その意味や背景を吟味することが、本心への誠実さです。

 

正直さとは

「正直さ」とは、他者に対して事実や自分の考えを歪めずに伝えようとする態度。「思ったことを即時に口にする」ことが正直さではなく、社会的関係や状況を考慮しつつも、虚偽や意図的な隠蔽を避ける姿勢を指す。

 

本心への誠実さと正直さの関係

本心への誠実さ:自己に向けた真実性(authenticity) 他者への正直さ:対人関係における真実性(honesty)  両者は異なる概念ですが相互に関連します。

本心を見失えば誠実さを欠き、常に偽れば正直さを失います。両立させることで、自己理解と対人関係のバランスが保たれます。(これは静的ではなく、変容し続ける動的なバランスです。)

 

「得」と「正しさ」は別物か?

多くの人はこう考えます。

「やったほうが自分の得になる」=損得勘定  「正しいことをする」=道徳

そして、「この二つはしばしば衝突する」、と。

 

しかし、この対立は、ある重要な前提を見落としているために生じています。その前提とは「私たちは常に、他者に観察され、その行動傾向が記憶されている」という事実です。

「観察されている」とは、四六時中監視されることではありません。日常の行動や言葉の選び方が、周囲の人に部分的に予測され、記憶され、それに応じて人や制度の対応が変わっていく、ということです。

 

進化心理学では、「人間は他者の行動履歴や評判を記憶し、将来の協力や取引の判断に利用する能力」を持つとされます。

これは間接互恵性の基盤であり、霊長類の社会進化の中で発達した適応的な認知機能です。脳科学でも、他者の信頼性や評判を評価する際には、前頭前野や側頭頭頂接合部、扁桃体などが関与することが知られています。

 

評判が見える環境での最適行動

こうした環境では、「損得勘定で最善を選ぶ」といっても、その最善は自分の行動パターンが他者に知られた上でも成り立つ選択でなければなりません。ゲーム理論では、こうした条件を満たす戦略は安定均衡と呼ばれます。

つまり、相手が自分の戦略を知っても崩れない行動です。

評判が共有される:行動は単発ではなく「その人の特徴」として周囲に伝わる。

安定均衡:評判が広まった後の世界でも、依然として最適であり続ける行動。

 

ズルはなぜ長期的に損か

進化心理学の視点では、短期的な裏切りは一時的な利益をもたらすことがあります。しかし、評判が共有される集団では、その情報が将来の協力機会を減らします。

これは裏切りのコストが時間差で発生することを意味します。脳科学でも、信頼や協力が成立したときには報酬系が活性化し、快感や満足感を伴うことがわかっています。

つまり、「道徳的行動は脳の報酬回路にも組み込まれている」のです。

 

本来の賢慮は、安定した制度や信頼の土台があってこそ最大化できます。一時的なズルは、その土台を自ら崩すため、長期的には自己破壊的です。

評判が共有される現実世界では、道徳は損ではなく、損得勘定の計算が導く唯一の安定点になります。
「自分だけはOK」というルール破りは広がり、環境を悪化させます。逆に、普遍化に耐える行為は信頼や制度を強化し、将来の利益を底上げします。

 

信用通貨のたとえでいえば、行動を正当化する理由は、みんなが使う信用のお金のようなもの。「今回は特別」というズルは、理由の通貨を乱発している状態。信用が下がり、契約や助け合いの条件が悪化する。

今は得でも、後で高い代償を払うことになる。道徳は、この信用通貨の価値を守る発行ルールのようなものです。「その理由、みんなが使っても崩れないか?」という基準を守れば、信頼は減らず、長期的に得をし続けられます。

ズル=信用通貨の乱発 → インフレ → 将来損
道徳=信用通貨の価値を守る規律 → 長期的最大の得
本当の賢さ=信用という資産を守ることまで計算に入れること

 

進化心理学は、道徳が集団内での長期的協力を維持するための進化的適応であることを示、脳科学は、道徳的行動が報酬系と結びつき、快感や満足感を伴うことを示し、哲学は、これを理性による普遍化可能性の原理として定式化します。

こうして見ると、「正しいことをする」と「自分にとって賢い選択」は、評判が共有される現実世界では重なります。道徳は損得勘定の外部制約ではなく、損得勘定そのものが辿り着く到達点なのです。

 

カントの道徳との比較

カントの道徳論では、道徳的行為とは「理性によって自らに与える普遍的な法則に従うこと」であり、その根拠は結果や感情ではなく、義務そのものにあります。この立場では、正しさは損得計算の結果ではなく、理性の自律によって必然的に選ばれるべきものです。

一方、進化心理学・脳科学的説明は、道徳的行動を「評判や信頼を通じて長期的利益を最大化する戦略」として位置づけます。これは功利主義的な説明に近く、経験的・機能的な基盤から導かれます。

両者は出発点が異なりますが、「普遍化に耐える行為が、結果的に社会的安定や長期的利益をもたらす」という点で接点を持ち得ることが重要です。

つまり、カント倫理の「普遍化可能性」という規範的原理が、現実の社会進化や協力戦略の中で安定戦略として現れる場合がある、という関係です。

この視点を加えることで、規範倫理と経験科学の橋渡しが可能になります。

 

私たちは、理性によって「こうあるべき」と考える自分と、利害を計算する現実的な自分を同時に抱えています。道徳は、この二つが交わる場所に生まれます。

理念は、行動の方向を示すコンパス、現実の条件は、そのコンパスが実際に役立つための地図、この二つが揃ったとき、「正しさ」は単なる理想ではなく、長期的に自分を守る最も賢い戦略になります。

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