ユヴァル・ノア・ハラリは人類がホモ・デウスへとアップグレードする未来を描いていますが、残念ながら現時点では一部の者がホモ・インビクタスへと向かい、一部がホモ・セルウスへと向かいつつあります。
しかしハラリはさらにもっと大事なものを見落としていました、「世界は女が制する」ということを。既に自然界では男女交代しているのです!⇒ 高崎山に“女性の時代” 雌ザル「ヤケイ」力で圧倒、初の序列1位に
岡八郎さんの『べっぴんさん、べっぴんさん、1人飛ばして、べっぴんさん』という言い方はルッキズムでNG、しかも一人飛ばしているところがイケない!ハイ再教育!
アップデートした世界は「女、女、女、女」と言わなければいけない。仮に見た目がそれぞれ異なり「女(美人)、女(デブ)、女(お婆さん)、女(ブス)」で並んでいても、「女、女、女、女」と言わなければいけない。
「女、女、女、女」、そう「どぶろっく」こそアップデート完了者。
くだらない冗談はさておき、「進撃の巨人」のキャラクターをAIで実写化してみた動画を紹介です♪ うむ、やっぱりアニ・レオンハートやな(笑)
才能と創造性
「複雑なことを単純化できるのが知性じゃないか?」というのはよく聞きます。それも知性だと思います。「知識や技術を深く身につけた人にはそれが自然にできる」はずですが、まぁ長嶋茂雄さんのような感性タイプにはそれができないので、本人は物凄い実力があっても、「説明には向いていない人」というのも一定数いるでしょう。
天然なところが面白い長嶋さんですが、彼の名言「来た球を打て!」は思わず笑ったし、長嶋さんは好きなんですが、やっぱり説明を聴くならダルビッシュのような頭脳の方が非常に的確・明確・緻密で役に立つと思いますね。
「説明に向いていない人」は職人さんやスペシャリストにも多いです。腕の良い仕事も出来る人だけど、話すと「ちょっと何を言ってるかわからない」って感じの(実際は本人は正確に言語化してるんですが)。
解像度が高いまま(複雑なまま)で語っている話は、ある程度その道の基本を学んでから聴くと理解できるのですが、長嶋茂雄さんタイプのように非言語的タイプではなく、言語化能力は高い場合でも、「他者視点」というものがあまりにない場合、表現が人に優しくないわけですね。
だから「入口」にすら入れずに消化・吸収できないまま放置される。昔は、哲学だけでなく他の分野でもそんな感じで、最初の段階で「とっつきにくさ」を感じても「めげずに食いついてくる人」を自動的に選別していた部分もあったのでしょう。
「才能とは何かと問われれば、「続けることだ」と私は答えます。続けることなど誰にでもできると思うでしょうが、実はこれが最も難しいのです」「何かに挑戦したら 確実に報われるのであれば、 誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」 羽生善治
よく、「あなたは努力してないから成功しない」、「あなたはやることをやっていないから結果が出ない」とか、まぁそういう実践量の不足、試行錯誤の不足など、手足を動かし行動することの足りなさや基礎的な知識を学ぶ勉強の足りなさ等が、「結果を出した人々」から語られます。
これは事実そのとおりの正論なんですが、そしてそういう人ほど「私は才能が人よりあったわけじゃない」的なことを語ることもありますが、
極たまに存在するズバ抜けた人を除けば、「大概の才能といわれるもの」は「努力し続けることが既に才能」であり「継続できることが才能」なのです。「実践と試行錯誤の継続と勉強の継続が出来ている時点でそれはもうかなりの才能」ということです。
昔、所ジョージさんが「苦労とか努力っていう人はたぶん才能ないんだと思う」と語っていたけれど、どの分野にも努力云々それ以前のズバ抜けた人というのはいます。しかし、殆どの人はズバ抜けてなんていないわけで、だから努力するわけでしょう。
嫌いなことをやれといわれてやれる能力は、後で必ず生きてきます イチロー
イチローの語るこれも「才能」の一種なんですね。地道な努力が出来ることが「才能」であり、「才能の成長~開花」への第一歩なんです。
後、長期戦で考えるなら「健康」も大事ですね。
高校生くらいの子が「絵は才能!天才には追い付けない」という価値観を持つのは分かる。人生を十数年しか走っていない状態では初速が全てと思うのも無理はない。しかし三十路も過ぎてくると無理して心身を病んだり死ぬ天才もポコポコ出てくるので「才能の前にまず健康!」みたいな価値観になってくる
— Batta@『狐のお嫁ちゃんと息子ちゃん』電子1巻配信開始 (@Poisoner_Batta) October 15, 2021
ところで少し話は変わりますが、私が生きていられるのは「死ななかった」からです(笑)、これにつきます。人にもよりますが、30代くらいまではまだ無理がきくんですね、無茶しても何とかギリ持ちこたえられたりしますが、40代も半ばを過ぎたあたりから「身体」が明らかに変化してきます。
人生は無限に続くものではなく、人は有限性を生きている。そして「健康」だけでなく「丈夫さ」は多元的です。私は元々運動が好きで武道もやってきましたが、「武の身体」を中心に意識してトレーニングしたのは三十代半ばまでで、
それ以後は「壊れにくい丈夫な身体」を中心に意識して創ってきたおかげで、今でも平均よりもかなり身体が丈夫です。「故障しにくい身体」の有難みは40代からさらに身に沁みてきます。
東洋的なメソッドは西洋的なメソッドのような即効性やパワーに欠ける面はありますが、長期的に観れば、全体性としての身体のバランス、流れの良さを生み出します。両方を組み合わせることで相互補完的な力になります。
貝原益軒の『養生訓』も東洋的なメソッドですが、現在でも有用な知恵ですね。⇒ 今こそ注目したい! 養生訓「心と体の指南書」
まぁ『養生訓』は健康には有用ですが、生き方としてちょっと生真面目な感じは否めません。しかし「身体」に通じている知恵のひとつであることには変わりません。
「医食同源」は「薬」に比べれば短期的な即効性に欠ける面はありますが、長期的に観れば、全体性としてのバランスの良さを生み出していきます。
こういうのも、東洋的なものと西洋的なものを併用することで相互補完的な力になっていきます。
「役に立たないもの」が「生」を支えている
社会的な生き物である人間にとって、社会の文脈においては10代と20代の課題が異なるように、30代と40代、そしてその先においても異なってきます。心理学でも発達段階での課題の差異が考察されてはいますが、これは非常におおまかな分類分けです。
40代頃から、「他者」を含めた生の「無常性」「有限性」がどんどん強まっていく流れはありますが、個々に観ていけば能力・健康状態、環境や様々なリソースなどに結構な差があるので、「自分の課題」と「他者の課題」は分離して考えることが大事でしょう。
また「どんな仕事をしているか」の業種、分野、役職によってもそれぞれに課題は異なるわけで、年齢とか世代とかの大まかな区分だけで「何がその人の課題なのか」は一律には語れないものです。
そして「仕事とか生活の課題」、社会の文脈で「役に立つもの」という価値の文脈だけでなく、「生」にはそれを超えたものが存在します。
『役に立つものが「生活」を支えている』のは誰にでも明確な事実なのでわかりやすいことですが、『「役に立たないもの」が「生」を支えている』ことは、時に見過ごされる。
「娯楽」とかそういうものならまだわかりやすいんですが、「実存的な問い」というのは若い頃よりも中年以後によりリアリティが深化していきます(人にもよりますが)。
「哲学や芸術それ自体が何の意味が在るか?何の役に立つか?」という素朴な思いが、人生の半ばを過ぎたあたりから逆転することが起きたりします。
「根底の部分で人を支えている力学」というものは、社会的価値とは別の仕方で存在を支えている。一見何の役に立たないようなものが何故ずっと昔から存在し続けているのか?そこには社会の文脈だけでは見えないリアリティが在るからです。
人の生は社会に収まりきらないものです。その収まりきらない領域から「実存的な問い」は生じ、そして社会は元々実存への応答として存在するものではないゆえに、常に存在は自らで見出していく以外にない実存的孤独の中を生きてもいるのです。
ところで、「何かを達成できなかった人、継続できなかった人、挫折した人、ガッツの足りない人」が、「それに向いていなかった」「才能がなかった」「努力が出来ない」「やっても無断」とは限らないのです。
「機会自体がなかった」「他の理由で断念せざるを得なかった」「その時はその面白さや価値に気づかなかった」という偶然・運などのタイミングやキッカケ、動機の差異であることも多い。
「特殊化された高度な文脈」をいきなり解像することは出来ない。しかし「ちょっと何を言ってるかわからない」という異物感も、わかるようになるとちゃんと消化できるものなんです。
消化できれば面白くなる、面白くなれば気力も湧いてくる、気力が湧けば継続していける 継続していけば才能になり、実を結ぶ可能性を高める、ということですね。
ドゥルーズ+ガタリは、家族の謎を追求するのではなく、絵を描くのでも社会活動でも何でも、具体的にアクションしてみなさいと励ます思想だと説明しましたが、そこで重要なのは、それが無限のXに向かっていく、常に欲求不満な活動として行われるのではなく、様々な活動がそれぞれに有限に、それなりの満足を与えてくれる、それなりに完結するものだということです。
(中略)
ひとつの「X」をめぐる人生というのは、いわば単数的な悲劇ですが、そうではなく、人生の在り方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認めようということです。『現代思想入門 p.173』
アメリカの心理学者スタンバーグ(Sternberg)の知能概念のうち実践的知能、創造的知能はIQとは異なる知性です。Sternbergは、知能を分析的知能・実践的知能・創造的知能の三つに分類しました。
この知能概念は心理学的に新しい知見ではありませんが、IQ的なものへのアンチテーゼとして今もなお有効な見方のひとつだとは思います。とてもわかりやすい例で説明している外部サイト記事があったので紹介しておきますね。
【3つの知能】分析的・実践的・創造的知能とは?【スタンバーグの三頭理論】 より引用抜粋
学業優秀な少年Sと薬草採取を手伝う少年T
それぞれの知能を説明するため具体例を出していきますね。学校に通っている少年Sと、田舎であまり学校には行かず家業の薬草採取を手伝っている少年Tがいたとします。
彼らをいわゆるIQテストで測定するとどうなるでしょうか?まあ、学校に通っている少年Sの方が知能が高いとされますよね。しかし本当にそう言えるのでしょうか。
少年Tは薬草に関する知識、観察してそれらを見分ける力、加工する力、そういったものを持っています。これらを有機的に活用していたとして、少年Tは本当に知能が相対的に低いと言えるのか。
結局、一律的なIQという概念ではこのような環境の違いによる知能の方向性の差を吸収できないんですね。そこでSternbergは新しい知能を設定しました。
少年Sのように、主に学業の上に構築される、テストのような問題を解決する能力を「分析的知能」、少年Tのような生活の中で形成される、ある環境下で求められる理解や実践の能力を「実践的知能」とします。
分析的知能:テストなどの典型的な問題を解決する能力
実践的知能:その環境に必要な理解を得て、実践に移す能力
創造的知能:??????????他の例も出してみましょう。貧民街の出身で、すこしアンダーグラウンドなビジネスで生計を立てている少年U。彼はビジネスに関する計算や戦略構築ができます。
しかし彼を学校に連れてきて数学のテストを受けさせても点数は取れません。少年Uの実践的知能は優秀である一方、分析的知能に関しては習熟が進んでいないのです。
この二つの知能の尺度の違いを無視して、分析的知能のみ評価していてはモッタイナイ状況に陥ることは容易に予想がつきます。その意味で、Sternbergの三頭理論は有用です。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「アカデミックインテリジェンス」は分析的知能がメインで、そしてそれを仕事にして成り立っている人は、学問と収入が結びついている、そういうポジションを得ているわけですが、必ずしも実践的知能・創造的知能が高いわけではないんですね。
そして「ある学問を学ぶことと仕事、収入が無関係な人」もいるわけです。その場合、学問を深めることが生活の直接の支えにはならならず、実益に繋がらず、自分の仕事や生活の課題の解決には繋がらないでしょう。
知識だけ増えて理屈ばっかり立派になって「自身の身近な課題」におろそかになる人は、「自分の生活や生業における課題」と「学問それ自体が仕事になっている他者の課題」を分離して考えることが大事になります。
また仕事に関係のある勉強であっても、実践知は本屋では買えないんですね。技術・技能は実践で体得していくもので、本を読んだだけで自然に出来るようにはならないのと同様に。概念だけ学んでわかった気になるのは、かえって有害な場合もあるのです。
すべてを教える先生は良い先生ではない。(西洋の格言)
「創造性それ自体」は生まれの豊かさ、貧しさには関係しません。創造性は「拡散的思考」と関連していますが、アイディアの具体化(価値化)は「収束的思考」の方に関連しているので、創造性は高いが具体化(価値化)する能力が低い人はいます。
そして双方が高い場合でも、「平均よりも高い何かの成功なり目標の達成」には「動機」が必要です。「負の環境」や「ネガティブな感情」が「強い動機」になり、それがガッツ、ハングリーさとなって目標に突き進む動力になることがある、ということです。
「ネガティブなもの」、ある種の「影」「闇」が光の強さを支えている構造性に関しては過去にも別のテーマで書きましたが、そういう構造ではない成功、達成のケースもあります。
そして成功しているから達成しているから「より創造性が高い」というわけではないんですね。
「創造性は非常に高い人」でも「動機」が無い場合、成功や目標達成には向かわないということは多々あります。「創造性が高い人」が「強い動機」を持って実践・行動し続けた場合、成功や達成する可能性は高いです。
その結果だけを観て「○○な人は創造性が高い」と帰納法的に結論するとき、そういう複合的な因子を見落としてしまいます。
「強い動機を持つ人」は逆境でも何とか乗り越えて継続していこうとする、つまり「継続こそが才能」の型になっているから、才能が開花(具現化)するのです。
「逆境に置かれている人だから創造性が高い」とは限らず、「生まれ育ち」に関係なく「好奇心の強さ」と「認知的脱抑制」によって子供たちが天才的な創造性を発揮することは珍しくありません。
問題はそれが具体的にどう結びつき、どのように動機づけられるか、で「目に見える形」での現象化が変化するだけで、子供はみな創造的存在なんですね。
大人になっても潜在的な要素は消えてはいないのですが、「それを発現させ現実の中で育て高めていく実践的な機会や動機を持たなかった」、というだけの人も多いのです。
そして創造性が高いから「上」の存在とか、創造性が低いから「下」の存在ということはありません。創造性はその源泉は元々「原始的なもの」であり、それ自体は「非社会的なもの」であるため、それを社会の優劣の価値で上下を比較すること自体が根本からズレているのです。
比較できるのは社会の中で価値化された「結果」としての優劣だけで、創造性そのものではないのです。
ただ、何かのトップクラスにならなければ意味・価値がないわけではない。経験が別の何かに繋がっていく、誰かと比べて圧倒的に優位になどなれなくても、自分の人生を生きる上で生かしていけばそれでいいでしょう。
その時既に自己実現出来ているし、その働きは社会の文脈においては何かの役にも立っています。競争においてはどれだけ努力しようが必然的に結果の優劣、上下の差異が生じます。
「大きな結果を出した人しか価値がない」、「凄い奴と比べて下だからダメ」なのではなく、比較の世界ではどうしようとも必ず上下が出来てしまうし、トップクラスは相対的に常に少数なのだから、上下の比較に囚われず「自分の課題」に地道に取り組んでいく、それでいいんですね。
同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見することだと思うのです。『現代思想入門 p.140』