2016/9/9 の時点で、 柔道(視覚障害)男子60キロ級の広瀬誠さんが銀メダルを獲得し、 柔道(視覚障害)男子66kg級の藤本 聡さんが銅メダル、そして競泳 男子100m背泳ぎ(知的障害)の津川 拓也さんが銅メダルを獲得しています。
次に紹介の動画は、2010年、2014年のアジアパラ競技大会で銀メダルを獲得し、リオ2016パラリンピックでも活躍が期待される競泳の一ノ瀬メイ選手です。
惜しくもリオには行けなかった陸上の村上清加選手の動画も紹介しておきますね。
感動ポルノ
「「感動ポルノ」を超越したパラリンピックの感動」より引用抜粋
8月に障がい者の姿を過度に感動的に取り上げるメディアの手法についての論争が話題になった。
障がい者が出演するNHKのバラエティー番組「バリバラ」で、メディアが障がい者を感動をかき立てる手段として描くことを「感動ポルノ」という言葉で批判。
視聴者から「共感する」などの大きな反響があった。パラリンピアンたちを見ていると、「感動ポルノ」がいかに陳腐であるかが分かる。
演出のないアスリートたちの戦う姿は、視覚障害も下半身まひも忘れさせる圧倒的な力がある。
「かわいそう」や「頑張って」の同情が入り込む余地がない。パラリンピックは「感動ポルノ」を超越した、障がい者の真の姿に感動できる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
◇ 関連外部サイト記事の紹介
○ パラリンピックの「パラ」の意味 障害者の苦難と希望の歴史がそこにある
障害者だろうが健常者だろうが良いものは良いし悪いものは悪い、かっっこいいものはかっこいいし、綺麗なものは綺麗。
能力主義的な社会への過剰適応とか、根性論で嫌々頑張るとか、そういう風に無理して強迫観念的に外発的に行うのではなくて、
「ただそれが好きだから挑戦する」という内発的なモチベーションや創造性がある時、そこで頑張る姿には健常者とか障碍者とか関係ないでしょう。
健常者だろうが障碍者だろうが、本人に夢や挑戦したいことがあるのであれば、
その想いをどういう風に現実化するかはその人が決めることで、その人の人生なんだから勝手にやればいいし、それを周囲がとやかくいうことじゃないと思います。
そうでないなら無理にやることもないしやらせる必要なんて全くないわけです。
私個人としては難病の方や障害者と接する時に、否定も肯定も含めて極端な感覚はなく複雑にアレコレ考えることは少ないですね。
ですが24時間テレビには全く興味がなく、ちゃんと見たことは一度もありません。「バリバラ」も同様で、あまり見る気はしません。
別に感動とか笑いとかに特化させず、無理やり強引にもっていかずにもっと普通で自然体でいいんじゃないかなぁ、と個人的に思います、そのままの人として、という意味で。
それがまず先に受け入れられている社会であれば、感動とか笑いとかももっと自然な感じになると思います。
見える障害・見えない障害
以下に、外部サイト「LITALICO(りたりこ)発達ナビ」のイシゲスズコさんの記事を紹介していますが、「見えない障害」は感動の対象になることすら難しい、ということを問いかけたこの記事には自然に共感出来ます。
「「障害者の感動ポルノ」を巡る議論で、私たちが見落としていること」 より引用抜粋
発達障害のある次男が今度どんな困難に出会い、悩むのかは私には想像もつきません。ほかの3人の子供たちもそれぞれが色々な障壁に出会うでしょう。
そんな時に、「障害者だから」「健常者だから」という、それぞれの枠に縛られることなく、
自分たちの困難を主張したり、助けを求めることが出来るように育ってくれればと思います。
同時に、周囲の方が持つかもしれない困難に思いを馳せ、相手を尊重しながらサポートのできる人になってくれたらとも願っています。
そしてそれが、わざわざ「感動の物語」として特集されなくとも、社会の当たり前の営みとして浸透していってくれたなら…
そんな未来が来たら、私の子どもたちも、テレビに出ていたあの人たちも、それぞれに1人の「個」として普通の暮らしを送っていけるようになるでしょう。
ヤング氏が「新しい先生が車椅子でやってきても誰も驚かない社会」と表したような、
どんな人も1人の人間として周囲に受け入れられる、そんな未来を子どもたちに残していくこと、それが私の願いです。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
私の知人及び周囲にはパーキンソンや国指定難病の方がいて、そして心・精神のバランス異常の方などとも身近に接してきました。
現在も日常の中で身近に接している人も複数いますが、障害者といったって人それぞれ様々なタイプの人がいて、肯定も否定もひとくくりには出来ないんですね。
「障害者だから全部駄目・嫌い」が極端すぎる決めつけであるように、「障害者だから全部素晴らしい・美しい」、それも極端すぎる決めつけです。
個人的には健常者に対するものと殆ど変わらないといっても、一般人には当たり前に出来ることの幾つかが物理的に不可能なこともありますので、そのあたりの配慮は必要でしょう。
私自身も昔は「見えない障害」に翻弄され非常に不安定だったので、一般的な目で見た場合、普通といえるような人間ではなかったでしょう。
まぁそれでもあまりにも人格が異常とかであればもちろん対応は異なりますし、
「配慮と支えが無ければ生命の維持すら困難な重度の方」などの場合は、そのまま、というわけにはいかないのは言うまでもありません。
話は変りますが、よく「親側の人たち」が、「一番子供の気持ち・心を知っているのは親」みたいに言うことがありますが、それは子共の一面であって全体ではないんですね。
まともな親であれば、子供の気持ちや変化を察することは出来るでしょうし、「何とかしてあげたい」という思いも他人よりもすっと強く深いものでしょう。
ですが親の全てが「健全な親」あるいは「まともな状態の親」とは限りませんし、そうであっても子の全体性を捉えられているかどうかはわかりません。
そして根は決して悪い親ではなくても、理解力が極端に低いとか、ストレスに耐えられない脆弱な心身の状態、など様々です。
それは親も親である前に「一人の人間・生き物」であるため、人として生き物としてその状態には個人差や変化の波があるからです。
例えばもし、それを話すことで親がパニックを起こし精神不安的になるとわかっているのなら、あるいは「理解力も共感力もない親」の場合、話すこと自体がかえって状況を酷く悪化させる場合もあります。
また、話す内容の種類にもよりますね。ある程度誰もが想像力をもって理解しやすい現実的な問題などであれば、「ちゃんと生きてきた親」の応答というはかなり的を射ています。
ところが、人にはそういう共感や理解がしづらい、想像力が働かない特殊な問題、というものがあります。
そのような言語化しずらい、あるいは出来たとしても相手には想像すら出来ないような内容である場合、優しい人ほど親や友人に心配や負担をかけたくないと思うから、やはり「ヘビーなホンネ」は殆ど言わないものなんです。
すべてがまともな親あるいはまともな状態と思い込んでいる人は、「親はみなこういうもの」という神話に憑りつかれています。
もちろん「本来そうであるのがあるべき姿、あるいは自然」であっても、世の中はそんな風に画一的な平面的なものではない、それが現実の立体性なんですね。
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