神話の崩壊 ~ ヒトの死へ

神の死(ニーチェ)」のあと「人間の死(フーコー)」のフェーズに移行し、その後はどうなっていくのでしょうか?

身体とそのゆらぎは軽々とそれを超える。ゆらぎが生み出す音とリズム、それは常に社会の外に源泉を持ち、自ずと湧出してくる。一部の高学歴人文インテリたちが何を語ろうが、それは生そのものに触れることはない。今世界を生きる実存もそこでは置き去りにされる。

そこには音がない、リズムがない、呼吸がないから。

ではここで、新しい学校のリーダーズ 「最終人類」の紹介です。この人たちの歌と踊りのダイナミズム、身体にうねりのように伝わってきます。「これが若さか!」の歌バージョンですね♪

 

 

ヒトの死

最終人類どこへいく~♪」と歌詞が出てきますが、人類はどこへ行くのでしょうか? まぁ今回は「ヒトの死」なんていうテーマですが、まだエナジーが残っていれば大丈夫でしょう。

 

自然界はニンゲン的な意志は持たないが、自然界からニンゲン社会への作用を意志と比喩するのであれば、「自然界はニンゲン界を終わらせようとしている」といえる流れを感じます。この流れは分析知によって理解されるものではなく身体知によるもの。

しかし身体の知そのものがロゴス的知性の過剰発達で失われ、多くの人々がかつては知っていたこと、身体で知る力そのものを失っていった。言語的な理解及び観念的思考しかできないから、未だに組織宗教と共同体のセットのような賞味期限の切れた持続可能性のないものを復活させようとしたりする。

人類の問題を根源的に解決するには、そしてニンゲンが見失った身体の知を回復するには学者やインテリではなくむしろ原始的(と思われているもの)に学ぶ必要がある。「原始的」と思われているものが生を支えている。

「生きる」ということのシンプルさ、もっとも生き物的な力を取り戻すこと。

シッカリした下部構造があるから上部構造が成立しうる。土台となる下部構造を「原始的」「未開」「野蛮」と馬鹿にして教育・去勢し管理しすぎたツケはあまりにも大きい。下部構造はすでに脆弱化し、もはや上部構造としてのニンゲンの文明を維持できなくなるまでに力を失った。

なのに人々は未だに上部構造ばかりみている。やれ宗教だ、やれ道徳だ、やれ科学だ、やれ人権だ、やれ理性だ、やれ教育だ、やれ経済だ、そんな話ばかりして「地上で生き物が生きる」ということの自然の理を忘れてしまった。

創造の息吹には強力なワイルドなダイナミズムが必要で、土着的で大地により近い場所、泥の中からそれは生まれる。蓮の花のようにそれは濁ったカオスの中から逞しく現れる。アカデミックな場所には何も創造の源泉はない、そこは「創造の結果」の死物を扱う理屈界。

創造の萌芽はまだ形なきままの混沌を生きる地べたから、庶民の中から忽然と生まれる。理屈の前にあるものに触れ続けている者たちの身体がそれをひとつひとつコトバにしていく。

 

「神の死」~「人間の死」で終わるのではなく、もしここで硬直化が進行してしまえば、その後に「ヒトの死」が来る、という流れをみています。「ヒトの死」は過去にも少しだけ書いたことがありますが、

陰陽のバランスがもはや元に戻らないほど偏ってしまった場合の流れで、社会の陰陽のサイクルよりはるかに大きな自然界の陰陽のサイクルによって、陰陽のバランスが著しく偏った社会が破壊されるという流れです。

自然界のサイクルは自然界の有限性の中で循環しています。しかし人間社会は自然界の有限性を身体で感じないで済む高度な文明社会を生み出し、自然界のサイクルを見失い、ヒトと自然界の恒常性のバランスがわからなくなっていく。

高度な文明社会による管理能力の高さによって身体性を失っていくからですが、「身体」という下部構造の根源はそもそも社会に属さないものであり、身体の心(無意識)も社会に属するものではないにも拘らず、すべてを人間と社会の恒常性、そのサイクルを回す方に方向付けて管理していく。

そして自然界と同期していた身体は、その原初のリズムとゆらぎを失い、本来は無意識に出来ていたことができなくなっていく。法や制度や宗教等の上部構造でそれを維持しようとしても、下部構造の無意識が動かない状態では限界がある。

「人間社会の持続可能性」の下部構造にはヒトと自然界の恒常性のバランスが前提としてあるにもかかわらず、大地から離れ過ぎた人間は、上部構造としての人間と社会の恒常性のバランスだけしか感じれななくなった。

人間社会に意識化され過ぎた去勢体はもはやヒトであることの身体性を失っていく。

現代の身体医学の専門家も心の専門家も同様にすべてを社会の文脈や時間・空間・サイクルの中でしかとらえられないように、このをアサイラム化した管理社会の仮想空間の有する権力作用は隅々にまで及び、

そして世界、ヒトは自然界のサイクルに支えられた有限な生き物であることを忘れ、あたかも『「私」は「無限の何か」』だと錯覚させられ続ける。この無限化した自己による自由運動が陰陽のバランスを破壊していく。

他者や社会の前に、「このようになった結果としての私」がまず救われるべきで、そこにある不調和が解決されないまま他者に関われば、時にその不調和ゆえの歪みに他者を巻き込んでしまう。影響力が大きければ大きいほどその負の作用は計り知れない。

『「私」は「無限の何か」』はAIとの相性バッチリ。「私それ自体」はAIに引き継げずそこには宿れないが、「無限の何か」を引き継ぐことは可能だろう。それは「AI」に任せておけばいい。

 

ではラストにもう一発! 新しい学校のリーダーズ「candy」です。

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