知識人のような愚か者はいない…ある種の賢い愚鈍は、経験に関係せず、頭の中で一連の論理から育った – ドリス・レッシング
世間を騒がせている「参政党」も、大きな流れの中のひとつの現象に過ぎません。木を見て森を見ずではないですが、全体主義化したクリーン社会において公共圏は均質化・硬直化し、特定の異質な声が徹底的に排除され抑圧されています。
人の全体性を奪いながら多様性や自由を語る矛盾のように、個々人の複合的アイデンティティ(年齢・職業・地域・学歴など)の条件による大きな差異は無視して、特定の「属性ラベル」だけが過度に強調されてきたのと同様に、
ある特定の支配的な価値基準に基づいて「正しく言語化された意見」や、「特定の属性」以外を黙殺してきた結果、言論が均質化し、公共圏の機能が阻害されてきました。
公共圏とは、ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスが提唱した概念で、
「市民社会を支える制度的な基盤、すなわち市民が自発的に形成する独自の社会領域を指し、経済や国家の仕組みから独立しており、市民が自由な意思に基づいて共同で意思決定を行い、連帯的な結合を形成・維持する場」とされています。
しかし、ナンシー・フレイザーなどの批判的社会理論家は、ハーバーマスの公共圏概念が「誰にでも開かれた討議の場」とされながら、実際には社会的・文化的な不平等や権力の非対称性を十分に考慮せず、一元的で均質な空間として描かれがちであると指摘しています。
また日本の場合、ハーバーマスが提唱する公共圏の三原則 「平等性」「公開性」「自律性」において、そのいずれも条件を満たしていません。
本来、社会的地位や属性に関係なく誰もが発言しうる空間が理想ですが、「平等性」でいえば、たとえばテレビ討論にしても、依然として専門家や有名人、既存の権威が主導しやすい傾向が強いです。
「公開性」においても、日本では議論のアジェンダがメディアや一部のオピニオンリーダーにより設定されやすく、「アリーナとギャラリー(舞台と観客)」の分化が進んでいます。
「自律性」においては、日本では「公」は国家・行政が担い、「私」は家庭や企業に委ねる分業意識が伝統的に根強いです。しかし実際には行政や企業が「公共的課題」までも引き受け、個人が参画する余地を狭めてきました。
□ 図の引用元 ➡ 公共圏概念の導入による社会科の改善
とはいえ、欧米の公共圏も今や様々な「機能不全」に直面しています。
ハーバーマスの理想型――「誰もが自由・平等に参加できる合理的な討議の場」――は、現実にはグローバルに揺らいでおり、日本だけでなく世界中で「公共圏の再設計」が問われている状況です。
右も左も「ああ良い人だけの国作りてえなあ」と言ってる時代なんですね。「良い人」のイメージはもちろん左右でずいぶん違うわけですが。
— 河野有理 (@konoy541) July 9, 2025
公共圏が「一元的かつ調和的な社会的空間」とみなされると、内輪の価値観や秩序の維持・再生産が優先され、「ヘゲモニーをめぐる闘争」や多様な実践・視点が排除されやすくなることも指摘されています。
実際、現代の公共圏論では「複数的公共圏」や「対抗的公共圏」の必要性が強調されており、多元的・競合的なコミュニケーション空間として公共圏を再考する動きが主流です。
「支配的な公共圏から排除・抑圧されてきたまま放置されているもの」、それはむしろポリコレにせよ左右のインテリにせよ、専門家にせよ、ほとんどスポットを当てていない属性や領域にあります。彼等・彼女たちが「斬り捨てたもの」です。
そういった「公式には認められない声」というのは、「斬り捨てられた人間の全体性」であり、それらが対抗的公共圏を生むときに、社会現象になるわけですが、「現れた結果、内容」という表層しかみない人が多い。
コロナ禍においても「対抗的公共圏」が生じましたが、しかし、こうした「対抗的公共圏」は、既存の公共圏が抱える「排除」の構造を可視化し、公共性の再定義を迫る役割を果たしているともいえ、
それにしっかり耳を澄まして考察するなら、負のエネルギーは増大せず、むしろ公共圏を成熟させることに繋がります。
しかしそこにスポットを当てて丁寧に見ていこうとする人は少ない。だから公共圏は成熟せず、バラバラに閉じているまま放置され続け、そうやって見放された何かは、徐々に負の塊となって噴出してくる。
討論や論破は一時的な盛り上がりや消費を生むものの、「身体的な共感」や「深い変容」をもたらすことはほぼない。“公共性”や“社会的議論”と称しつつ、実態は視聴率やSNSの拡散力と同質で、消費されるコンテンツの一部に過ぎない。
リチャード・セネットは『公共性の喪失』で、現代社会の公共圏が「演技的」「消費的」になり、内実のある対話や共感が失われていると論じています。
ハンナ・アーレント風にいえば、公的領域は「政策の妥当性」や「公共的議論」を担保する空間、私的領域は家事・感情・個人生活が営まれる場。
そしてセネットは近代以降、メディアやマーケティング、自己演出文化が加速し、この二分が曖昧化して「社会領域」に収斂したと指摘する。
アーレントは抑圧的私生活から解放された「公的空間」の重層化を重視し、セネットはその公私分離が崩れた先に、政治的公共性の「痩せ細り」を見る。
ハーバーマスの理想的討論共同体(討議的公共圏)は、ルールに則った理性的対話を重視しますが、
セネットは『経験知や身体性、そして「沈黙や曖昧さ」といった非言語的・非形式的な要素が切り捨てられ、形式的な言説だけが「公共的」とみなされる現状』を批判します。
「沈黙や曖昧さ」については過去に別のテーマで少し書いていますが、「明確なYes/Noを意思表示せず沈黙している人」を許さない風潮は、活動家とかリベラルとか学者にもよく見られるものです。
即時反応、 結論重視というロジック、そして党派性に強く染まっているからそういう短絡的な思考になるわけですね。
話を戻しますが、セネットが説く公私融合の痛みは、「民主主義の機能不全」を露わにします。しかし同時に、私たちの身体や経験を再び「公共」に引き戻すチャンスでもあるということ。
公共圏は公共性を具体化する「実践の場」であり、公共性は公共圏の質を測る「評価軸」です。公共圏が開かれるほど公共性は高まり、公共性が保証されるほど公共圏も成熟する。
異なる意見や価値観が対等に共存し、互いに補完・批判されることが大事で、発言の機会や情報アクセスが均等に保障され、力関係の歪みが最小化されることが求められますが、
現在の公共圏では、知的権威性を帯びた人文系インテリや専門家等の言説が「正統性」や「公共性」を振りかざしつつ、「これは公共性がある/ない」と高圧的にジャッジし、特定の価値観だけを排他的に強化し、異質な声を閉め出す傾向が強まっています。
「誰が発言すべきか」「何を議論すべきか」をコントロールし、一部の価値観だけを公共の中心に据える点で共通しており、メディアによるアジェンダ設定と構造的に重なる部分があります。
暗黙の前提や用語の共通理解を共有しない者は論外扱いされやすい。このような場では、インテリの「お説教」的な語りが自己満足やクラスター化(エコーチェンバー)を生み、内輪の価値観が強化されやすく、
批判的思考や多様な実践への開かれた態度が失われ、公共圏が「正統」な言説で占有されることで、本来の多様な公共性や現場の知恵が排除されてしまうという逆説が生じます。
賢い愚鈍
文学に表象される社会問題や格差は批判しつつも、現実世界の目の前の問題からは目を背けがちな文学研究というアカデミアの一分野をわたしは自分の居場所だとは思えなかったし、聖書の丸太とおがくずの話のようにhypocrite だと思ってる。
— ダフネ(Daphne) (@Daphne_oranges) April 27, 2025
全てではないにせよ、社会学にせよ他の人文系インテリにしても、対抗的公共圏が現れたとき、特定の価値基準や視点、イデオロギーに基づいて単純化したり、ただ馬鹿にして否定して叩きまくる、そんな素人や大衆と同次元の反応、考察しかできない人がメディアで目立つ。
ゆえに「人文系なんていらない」という風潮に世の中がなっているわけですね。アカデミアが嫌われるのも大概は「賢い愚鈍」、「鈍麻した身体性」ゆえにそうなっている。
仮に、知的権威性を有するジャッジによって、対抗的公共圏の否定と抑圧に成功したとしても、何度でも形を変えて現れてくるでしょう。
それどころか、ますますそれは強化され巨大化していきます。
人文系インテリの「説法」のような理論的言説が「公共性」を名乗るとき、実際には特定の集団内での自己正当化や閉鎖性が強まるリスクがあり、
しかもそれを自覚しないまま自らを絶対善であるかのように押し通してきたことで、「斬り捨てられた人間の全体性」からの反動が生じてくるんですね。
延々と理屈を語るだけの学者の言葉は他者の無意識を動かさないどころか、ますます離れていく。
そこに集うのは「我らは知っている/彼らは知らない」という「言語的理解」だけの「知的権威の下僕」。知的権威の下僕集団は、内集団・外集団バイアスによる見下しの感情を強めるだけなので、その言説空間には無意識に作用するほどの熱力もマナもない。
言論人は「今までこれだけ語ってきたのに社会は何も変わらなかった」みたいなことを言うが、そもそも人文インテリの理屈による「言語操作力」の「意識」への作用なんて最初からそんな程度のものだということ。
しかし、こういう人ほどメディアに出たがり、討論を好み、論破を好み、ひたすら「お説教モード」で上から目線で一方的に語り、他者を“啓蒙”しようとする態度が目立ちますが、
言説の権力に基づいた知的マウント意識が駄々洩れで見苦しいだけなので、信者以外の身体や心にはほとんど響かず、せいぜいが同調圧力による「外発的な動機付け」にはなったとしても表層的な「知識」のやりとりに終始しがち。
インテリの「一刀両断」スタイルは、むしろ反体制勢力の結束とリソースを増幅させ、抑圧や排除は反発のエネルギーを生み、「もっと自分たちの声を」という動機を強化するだけで、一度権威的言説で封じても、複数の価値観が交錯する場では必ず別の声が噴出する。
「自分は常に正しい側」と思い込んでいる「賢い愚鈍」は、こういったことをいつまでも繰り返すだけなので、反動はもっと巨大で過酷な形に変質していくでしょう。
「賢い愚鈍」は常に灯台下暗し。だから己自身の姿も、そして外部の現象にしても、「何がそれを育てているのか」を見ることもない。
本人は「深い意味で言っている」つもりの「侮蔑やコケ下ろし」も、人文教祖たちがマスメディアやSNSで振る舞う「お説教モード」も、なんだかんだ理屈付けしたり言い訳したところで、結局ただの自己愛。
だから様々なメディアに登場する人文インテリが、どれだけ弁が立とうが、そんなものは対話ではなく、ただ「知識」だけ増えて「解釈能力(解像度)」が上がる程度で、
それによってくだらない優劣に囚われ「奴らはクズ、劣化した○○」と他者を単純化して優越感に浸るだけの「賢い愚鈍」を量産し、
その結果、「知識」や「解釈能力」を競い合うかのごとく、「教養がある我々/無教養な彼ら」の二項対立に明け暮れ、人々を特定の価値基準で序列化することに熱心なマウント意識の強い「知的キョロ充」たちのクラスターが形成される。
現代メディアはこの手の一握りの自我肥大したインテリ知識人、知的キョロ充たちのボス的存在であるインフルエンサーによる「お説教構文」が公共圏(言説空間)を独占してしまう傾向があり、
そして信者、取り巻きを増やしながら、「劣化した人々(と彼らがレッテル張りした対象)」に同調圧力をかけ、改宗を迫る。まさに歴史的にキリスト教会が異端や異教徒に対して行ってきた排除や改宗の圧力と相似形をなしていますね。