ウェーバーは「支配」を正当化された権力の行使と定義しました。
「権威」は「支配」の正当性の根拠であり、「支配」が成立するためには、被支配者がその命令に「正当性がある」と認めている必要があります。
「正当性」によって「権威」が成立することが理想ですが、現実の「支配」には物理的強制力(警察・軍隊など)、制度的強制力(法律・規則・資格制度など)による間接的な圧力による強制力も組み合わさって存在します。
つまり、支配=権威(正当性)+必要に応じて強制力 という構造を持つと言えます。
「権威」は「AがBに対して影響力を及ぼす関係」の中で生だけで自動的に一方的に成立するものではなく、自己主張だけではなく、他者との相互作用や評価が権威を生成するが、しかしそれは相対的なものであるため、常に絶対にそう在るものではありません。
たとえ自らを「権威」と宣言しても、他者の合意がなければその立場は成り立ちません。 「自己ブランディング」によってファンや支持者が増えても、それは「人気」であって「権威」ではありません。
「人気」は「量」だけでも測れますが、
「権威性」とは、たとえば特定の分野で知識・技術・実績が社会的に認められ、信頼や影響力を持つことです。「人気」とは異なる尺度とはいえ、「正統」な手続きを経て外部からの認定・承認されること無しに単独で権威にはなれません。
言い換えれば、「社会から承認を受けた」状態であり、そこで初めて「権威」とされます。個人が自己完結的に権威性を持つことはできないんですね。権威は社会的なものであり、その内部でのみ作用する力です。
まぁ「社会からの承認」なんて最小限でよい人にはそもそも権威なんて不要でしょう。
「実存」は本来的に社会的なコンテクストや集団的承認とは無関係な、個人の主体的な存在のありようそのもの。だから「社会の外」にウエイトがある者たちはみな非権威的なんですね。少し文脈は異なりますが、私もウエイトは「社会の外」にあります。
ではまず一曲紹介。イギリス出身のクリスチャン・ワーシップソング・ライターのマット・レッドマン(Matt Redman)の歌う「10,000 Reasons」です。現代讃美歌が今でも大ヒットする、それがイギリスでありアメリカなんですね♪
主をたたえよ たましいよ
聖なる名を
心全て 捧げ 賛美します
弱って立てなくなり
終わりが迫る頃
まだ私は歌うだろう
永遠に止まぬ賛美を
「地下室の手記の主人公」 vs ニーチェ Twitter編
権威が他者の承認に依存するならば、承認されない者はどうなるか? 彼らは「なぜ自分は認められないのか」という怨恨を抱く。
そして、既存の権威を「偽り」「欺瞞」として批判することで、自らの価値を再構築しようとする。
つまり、権威の成立条件がルサンチマンの温床にもなる。承認される者とされない者の間に、権威と怨恨のダイナミクスが生まれる。
ではここから、「地下室の手記の主人公」 vs ニーチェ Twitter編 です。
『地下室の手記』は10代の頃に読みましたが(ニーチェもその頃)、この主人公はまさにルサンチマンの体現者です。
この主人公は、近代社会における権威的価値に対する反抗者であり、同時にそれらに囚われた者でもあり、「あれこれ否定ばかりしながらもそこから全く逃れられず、現実的な変革や行動にも至れない」という袋小路(ループ)に陥った「不毛なメタ過剰人間」です。
自己正当化と自己批判、他者否定と承認欲求の間で不毛に堂々巡りを続ける姿は滑稽でありつつ、どこか憎めないユーモアさえ感じます。
しかも彼のルサンチマンは、単なる個人的な脳内現象を描いたというよりも、「近代的主体の矛盾」を主人公を通して暴露しているともいえますし、
このような「不毛なメタ過剰人間」も「理性偏重」の近代のひとつの結果であり、現代でいえば「真面目系クズ」によく似ている主体ですね。
でもその頃の私が直感したのは、『地下室の手記』の主人公とニーチェにはどこか似たところがあるなぁということです。
受動的 vs. 能動的というようなコインの裏表の感じで、今回はその頃の感覚で、『地下室の手記』の主人公とニーチェがもしツィッターでバトルしたら?というふざけた設定でテキトーに書いたお笑いフィクションですので悪しからず。
※ アカウント名 〇 地下室の手記@underman 〇 ニーチェ@Nietzsche_1844

地下室の手記@underman
フリードリヒ、お前の思想は理想論
俺は40年間、地下室で現実を論じてきた
お前の「神は死んだ」?知ってたよ、そんなの常識論
俺は最初から「2×2=4は憎らしい」と言ってきた
お前の永劫回帰?俺の毎日がまさにそれだ
同じ屈辱、同じ復讐心、同じ自己嫌悪のリピート
お前は哲学で飯を食ってるが、俺は現実に生きてる
「教養のある人間になりたい」—これが俺の本音だ
「力への意志」?俺の方がよっぽど意志を分析してる
「俺は病気だ…肝臓が悪い、胸も悪い」—これが俺の現実だ
お前の健康志向なんて、結局は病気で崩れ去った
俺は病気を快楽として受け入れてる、これが違いだ

ニーチェ@Nietzsche_1844
哀れな地下室の鼠よ、お前の苦悩は小さい
俺は全ヨーロッパの価値観を一人で転倒させた
お前の自意識は弱者のルサンチマンで狡い
俺は「善悪の彼岸」を超えて、新しい価値を創造した
お前の「現実」?それは奴隷の現実だ
俺の理想は「超人」—人間を超えた存在への道だ
お前は既存の道徳に縛られて苦しんでいる
俺はその道徳を「人間的、あまりにも人間的」と打ち砕いた
「俺は孤独だ」?それは畜群の論理だ
俺の孤独は「星のような黄金の孤独」—創造者の孤独だ
お前は社会に恨みを持ち続けている
俺は社会を軽蔑し、それを超越する道を見つけた

地下室の手記@underman
超越だって?お前も結局は俺と同じ人間だ
女にも相手にされず、友人にも見放された
お前の「超人」思想は、モテない男の妄想だろ
俺は最初から諦めてる、お前は諦めきれずに発狂した
お前の貴族主義?「俺は善良で美しい人間だ」という自己欺瞞
俺は最初から「俺は悪い人間だ」と認めている
お前は主人のフリをして、最後は精神病院行きだ
どっちが正直で、どっちが偽善者か明らかだろ
お前の「運命愛」?俺の方がよっぽど運命を愛してる
この惨めな人生を、嫌味たっぷりに愛してるんだ
「苦痛は快楽だ」—俺はこれを実際に生きてる
お前は理論で語り、俺は実践で示している

ニーチェ@Nietzsche_1844
実践だって?お前はただ腐っているだけだ
俺の狂気は「星座を創造する混沌」だ
お前の絶望は湿った地下室のカビのようだ
俺は「燃え尽きる」炎、お前は最初から燃えていない
お前の「正直さ」は弱者の言い訳に過ぎない
俺の「偽善」は強者の戦略だ
お前は真理を語っているつもりだが
お前の真理は「小さな、あまりにも小さな」真理だ
俺は少なくとも戦った、創造しようとした
お前は最初から戦いを放棄している
俺の失敗は壮大な失敗だ
お前の成功は惨めな成功だ—地下室の王としての

地下室の手記@underman
戦い?創造?全部エゴの産物じゃないか
俺は最初から自分のエゴを見抜いている
お前は最後まで自分を欺いていた
どっちが真の哲学者か、明らかだろ
お前が書いた本、俺は読んだよ
俺の生活そのものが、お前の哲学の実践だ
お前は理論家、俺は実践家
地下室こそが、真の哲学の実験室なんだよ
最後に言っておくが、俺たちは兄弟だ
お前も俺も、結局は時代の落伍者
違いは、俺は最初から知っていて、お前は最後に気づいた
それだけの話さ、フリードリヒ・ニーチェ

ニーチェ@Nietzsche_1844
兄弟だって?冗談ではない
俺は「深淵を覗き、深淵が俺を覗き返した」
お前は最初から深淵の底に住んでいる
俺は飛翔しようとして墜落した、お前は最初から這っている
お前の「実践」は消極的ニヒリズムだ
俺の「理論」は積極的ニヒリズムだ
お前は虚無に飲み込まれた
俺は虚無を飲み込もうとした
最後に、地下室の住人よ
お前の存在が俺の哲学を証明している
お前のような人間がいるからこそ
俺の「超人」思想が必要なのだ
「事実などない、解釈があるのみ」
俺は新しい解釈を創造した
お前は古い解釈に縛られている
これが俺たちの決定的な違いだ
地下室の手記の主人公はニーチェにブロックされたが、その後もツィートを続けた。

地下室の手記@underman
ニーチェとかいう思考力だけマッチョなチー牛は、
ガラスの地下室の中で天上まで行った人ではある。
彼は45歳までガラスの地下室を思考で疾走したが、
ガラスの地下室の天上に突き当たり発狂した。
自意識を極限まで高めて超人に至ろうと夢想したが、
ガラスの地下室すら突破できなかったという意味では、
やはりチー牛界の英雄に過ぎず、
ガラスの地下室内のスターに過ぎない男だ。

通りすがり@suzuki
とはいえあなたは、
ニーチェのように狂うとこまで突き詰めることもできず、
キリスト教のようにルサンチマンを昇華することもできず、
仏の教えを実践して悟ることもない。
まさにそれ自体が中途半端な自意識の永劫回帰ではないですか?

ブロック!

シンママ@kanae
あの~
「ガラスの地下室」の「上」ってどんな世界なのですか?

地下室の手記@underman
それはあなたのような人間、
つまり「恩知らずの二本脚」たちの世界だ。
これが世俗の8割。
その上には支配者たちの世界があり、これが2割。
ニーチェはチー牛の癖にその2割の上に行こうとした。
しかし、実際には地下室で思考が永劫回帰して
オーバーヒートしただけだった。
人々がニーチェに励まされるのは、
多くの人々が地下室の住人であり、
昇華も自己実現も悟りもなく圧倒的な権威もない、
中途半端な自意識を生きているからだ。
かれはある意味では(地下室における)イエスのような存在。
全ての地下室の住人の業を背負って発狂したが、
発狂するまで純度100%でやり遂げた稀有な魂。
日本であれば、
ニーチェは「地下室の神」として神社に祭られただろう。
そして毎年多くの庶民が参拝し末永く愛されたはずだ。
超人はおろか地下室すら抜け出せなかった悲劇の英雄、
その原動力たる猛烈なルサンチマンに人々は共振するのだ。

ブロック!

恩知らずの二本脚めが!