今回は、前回の記事の補足の記事です。
前回の記事 ⇒ 怒りと単純化 集団・運動のカルト化
よく「○○の活動のおかげで今がある」時なことがいわれますが、学生運動がカルト化して失敗したように、政治運動・社会運動・革命運動等は、必ずしも良いものばかりではなく、多くの悲劇を生み出しもしました。
たとえばカルト宗教であれ、その思想がどうであれ、彼等・彼女達も社会の構成員であり、そこから理想的な社会を目指している以上、社会運動の一種であり、社会・常識を変えよう超えようとする活動家の一種でもあるわけですね。
また個人としての「活動家」「政治家」もピンキリで、仮に「活動の理念」は素晴らしくても「個々の人の言動」はそれとは一致しないどころか真逆の時もあります。
よって、活動や運動の趣旨は肯定しても、個々の活動家や運動の在り方・変質や悪化等を批判することは同時に成立します。そして「集団の極端さ・暴走を批判的に観ていく姿勢」は必要です。
以前「疑似相関的論法」と「個人への批判を属性に置き換える論法」についての記事を書きました、以下はそこからの引用・抜粋です。
「いつの時代も正しいことを言った人間は最初は一定層に嫌われるが、後の世では世界に広く認められたのだ」を、「嫌われているのは正しいから」そして「今嫌われていてもいつかはその正しさが認められる」と接続する、という疑似相関的な用い方もよく見かけます。
そうやってたとえば活動家は疑似相関的にキング牧師やガンジーなどと自身の活動を結び付けたがります。
しかし何か大きな物事の達成には、嫌われていた以外の様々な要素が含まれています。キング牧師やガンジーにみられる突出した他の要素は見ず学ばずに歴史的存在と安易に同一視するのは傲慢で失礼なんですね。
⇒ 過去記事「疑似相関的論法 スティグマと思い込み」より
つまり「活動家」という大きなカテゴライズと「個々の活動家それ自体」は異なり、いろいろいるから「個人」を観ているわけですが、
それを「属性」に置き換えて「活動家のおかげで今がある」だから「活動家を批判するな」にもっていく、という疑似相関的論法は、カルトを批判している時にもよく起きることで、特定の組織への批判を「宗教批判をするな」にすり替えるのです。
仮に「素晴らしい活動をする人」でも、間違い・勘違いはある、だからそこを批判されることは当然ある、という時でも、「その人の全否定ではなく部分の批判」なのに、同様の事が生じます。これが、「我々のことは批判するな」という内集団・外集団バイアスによる過剰防衛から生じるものなんですね。
そして過去記事で、「あなたは私が○○だからそうするんでしょ」論法について書きましたが、再度この論法の構造を書いておきますね。 過去記事 ⇒ 属性の多元的複合体としての個人
「あなたは私が○○だからそうするんでしょ」論法
Aさん(男性)がBさん(女性)の「ある言動」を批判した ⇒ Bさんは「Aさんは女性を否定した」と結び付けてAさんを責める、こういうことを専門家ですらやってしまうことがあるのはバイアス・無意識によるものであり、
その背景に、たとえば過去の否定的経験のスキーマがあり、そこから生じる被害感情から「相手の属性」への他罰性が現象・対象に投影され、「事実が物語化される」わけですね。しかしそのような物語化で相手を責めるのは、ある種の藁人形論法なんです。つまり「属性」に基づく疑似相関+藁人形論法なんですね。
Aさんは「個人のある言動」、その部分を批判したのであって、相手の全体ではなく、まして属性は関係ないのです。しかし、専門家でも、過去に色々と嫌な記憶が強くあったり、特定の思想やイデオロギーに同化している場合、事実を客観的に観るよりも、否定感情や「信仰」が勝ってしまうわけです。
そして「私が○○だからあなたはそうするのだ!」と単純化し、昂った感情から、相手を加害者にラベリングし、そうやって否定し裁いてしまうわけです。そういう風に悪者にして断罪することをしなければ、きっと相手はあなたの話がわかる人でもあった場合でも、そういう人々を「分かり合えない人」に変えてしまうんですね。
そして、誰のせいでもなく、相手への攻撃・否定によって構築化された「分かり合えない人」が増え続けることで、さらに内集団、外集団に分断化し、「分かり合えないがより強化された現実」=「分断」となっていくんですね。
過剰な防衛反応から事実を物語化して攻撃する、というのも「無意識」によるものであり、なかなか冷静に観ることは難しいですね。特にSNSでの性別二元論、「被害者/加害者」二元論、右と左のイデオロギーの集団は、「他罰性」に意識が偏り過ぎている傾向が一部にみられます。
〇 SNSでフェミニズムを語る女性たちが、男にも女にも嫌われる決定的理由
話を戻しますが、「活動」「活動家」といってもいろいろで、「活動家」対「別の活動家」という対立関係もあるし、たとえば右と左の活動家のように、どちらもが己が信じる価値基準から「○○のため」に活動しているわけです。
弁証法的に観れば、「○○アンチ」と呼ばれる人たちも、「反」の活動・ムーヴメントなので、それだって「○○のため」の弁証法的運動の一部であり活動です。
つまり「○○アンチ」を含む異なる政治性が同時に在る、という状態が活動、主義・主張の多様性であり、各々の主体性の肯定であり、「弁証法的発展の可能性に開いている状態」なんですね、なので主義・主張の多様性は全然OKなのです。
しかし、「自分の属する側・共感できる側」だけしか肯定せず、その範囲での行動しか運動・活動とは考えない、認めない、というのは、全てを左か右かそれ以外かの、何かに統一する全体主義化でしかなく、
自分たちのテーゼに反対されたからと言ってそれを「反対するな、冷ややかに観るな」とか抑圧しようとするんじゃなくて、「我等の正」に対する「彼等の反」は、反転すれば「彼等の正」に対する「我等の反」でもあり、相対的なものであり、
「反」は「正に欠けている視点を補うものでもある」、という視点に互いが立てば、「正反合」へ向かい、アウフヘーベン(止揚)が生じます、それが全体にとっての本当の「アップデート」なんですね。
しかし弁証法的運動を遮断し、自分たちのテーゼをそのまま受け入れろ、反対者は○○だ!と否定ラベリングし排除していく運動性を「思考のアップデート」などという人たちは、二元論からの「片側の全否定」しか出来ないために、集団をアップデートするどころか全体主義に向かわせていくのです。だからカルト化していくんですね。
弁証法的運動を遮断していないのであればカルト化はしないんです。よって、「○○アンチ」を排除、無視しかしないのであれば、それは弁証法的な発展の拒否であり、「自分たちだけが全肯定され上手くいく社会・集団を作りたい」という自己愛運動なんですね。
「自己言及する人」には揺らぎが生じます、これは「特定の思想なり運動なりで信念をもって行動する人」にとっては気分がよくないものです。しかし「○○だから冷静に考えられる、○○だから冷静に考えられない」ではなく、そこに「属性」は関係ないんですね。
同じ黒人でも、スラムに住む貧しい黒人でも、運動をどう捉えるか?には個人差があります。これは女性も同じです。同じ属性でも、あるいは同じ属性でさらに苦しい立場ある人でも、同じ感情や考え方を持っているわけではなく「冷静でいられない」わけでもなく、
「どのように反応するか・主張するか」「属性由来の様々な人生体験をどう捉えているか」は同属性でも異なります。なので、他者を「属性単位」で考えることは他者を単純化することに繋がります。
「こういう人たちだからこうあるのは当然」とか、「こういう人たちはこういう風に観るのが正しい」という風に決まっているのではなく、「他の優位な属性の人達はこういう風に接するべきだ」と決まっているのでもなく、「個人の生き方、考え方、その主体性の多元性」で変化するものであり、
それが他者を単純化せず、他者の複雑さを複雑なまま捉える、ということです。
しかし「特定の思想、信念で運動する人」にとっては、「属性単位で同じ」でないと矛盾が生じて困るわけです。なので、反対意見をいう同族性の人を「名誉〇〇」とかカテゴライズして、否定的なラベリングで単純化して外集団へと排斥するわけです。
〇 マイナビが違法な差別用語”名誉男性”を肯定する記事を掲載して炎上。
そういう「無自覚さ」に気づくことは、「特定の方向性で運動している人」にとっては容易ではないことだとしても、それが「他者の主体性を蔑ろにする運動、他者を排除する運動にもなっている」ということに気づいた方がいいでしょう。
人は何か批判されたり問題点を指摘されると、それを人格攻撃とか何とかすぐいいますが、特定の人物を批判する際に、たとえば政治家(わかりやすい例:トランプやバイデン)であれ、公人ではない上司とか親とか他の誰であれ、「人間性と全く切り離された批判」のみ、というのはありえないでしょう。
「夫、職場の上司・同僚、近所の誰々、親や家族、親類等」、まぁ日常的に人は他者の人格・人間性を言葉で叩いていますよ(笑)、なので人格攻撃云々をいう人にかぎって、人格・人間性の領域を含んだ批判を沢山しているものなんですね。(これを誰かに要求している人で自身が守れている人をひとりも見たことがない)
相手の言動と人間性が厳密に切り分けられない場合は多々あるので、私は最初から人にそういう無理難題を要求しませんが、かといって過剰な否定合戦は不毛なので、ほどほどに、っていう程度問題です。もちろん法律やルールの範囲を超えるものはNGです。