今回の記事は前回のテーマも含んだ後編です。
まず先に、「成人後に事故で肩から下の身体機能が麻痺し、その後、口に筆をくわえて絵を描く画家・詩人となった星野富弘さんの詩」を二つ紹介します。 ⇒ 富弘美術館 HP
この道は茨(いばら)の道 しかし茨にも ほのかにかおる花が咲く あの花が好きだから この道をゆこう
よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近いような気がする 強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする しあわせが集まったより ふしあわせが集まった方が 愛に近いような気がする
そして「ロックな名言」をひとつ紹介。
雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる。(ボブ・マーリー)
フジテレビ『2016FNS歌謡祭 第1夜』で「乾杯」を歌った長渕剛さんの話題になったあの「メッセージ」の中から、「ウ・タ・ヨ・ノ・コ・レ」「日本から歌が消えていく」「日本から言葉が消えていく」という三つの言葉を今回ピックアップし記事の参考にして書いてます。
ではまず、長渕剛さんの曲の中で好きな曲「素顔」のcoverを紹介です。この一対一の張りつめた感じ、緊張感、空気感、動画のcoverの女の子もよく表現が出来ています。
長渕剛さんの曲で好きな曲は多いですが、巡恋歌とか順子とか夏祭りの頃からずっと聴いていた日本の昭和のシンガーソングライターのひとりですね。「ろくなもんじゃねぇ」の歌詞も私が青年だった頃とても好きでした。
長渕剛さんが筋トレ・空手をやりだしてゴリゴリになってきてからは、なんかちょっと違うなぁ~、っていうか、曲・旋律はパワーあってダイナミックで凄いなぁとは思うんですが、
個人的には70年代~80年代中頃くらいまでが、どこかしみじみしてて、歌詞も旋律もジーンときて好きでしたね。あのどこかカッコ悪い剥き出しの感じに生身の人間のリアルな詩情を感じたんです。
人間なんてみんな結局どっかカッコ悪い生き物、そんなもんだと思うから、そこをカッコ悪いからって打ち消しちゃう人は、それで何か表面的な結果や反応を得る代わりに何か本質的なものを失う、そう感じますね。
例えば「タフで強い男のヒーロー型」「イケメン・ビジュアル系のヒーロー型」みたいな型にハマってしまうと、大衆ウケは良くはなっても、
ささやかな陰影の中に存在する詩の空間性がなくなっていくんですね。弱くはかない生き物、不完全で不安定な生、でもだからこそ一瞬一瞬の時の中で命が輝くことも出来る、
ロックやブルースが生まれた原動力って「強者による強者のためのもの」じゃなくて、また「ロックとはセックスだ」みたいな「快楽」だけでもなくて、
「弱者による弱者のためのもの」、陰影に満ちた感性が感じたものをありのままに表現する、そういうものだと思っています。
そこに息づく詩的表現が、同じ現実を生きる弱者の心と共振してカタルシスが生じるから、音とコトバの力が心に強く作用する、という感じですね。
私が音楽を聞き出した思春期の頃って、CDもなくて、ラジカセでTDKとかMaxellのテープに録音して聴いていましたね。(特に好きな曲は「メタルテープ」という結構高いやつに録音しました。)
ギターを弾いて録音したカセットを流しながら、もう一つのカセットではキーボードを弾きながら録音し、「2トラック曲完成!」という素朴なこともしました。
カセットにはA面とB面があり、ラジカセはカセットのどちらか片面の録音が終了すると「キュルキュル・ガチャ」と激しい音がして止まるやつ(笑)を最初は使っていましたが、
その後、「自動的にもう一つの片面に移行する」とうだけのオートリバース機能の登場に結構感動した、そんな素朴な時代でした。
あの頃の機器はやたら大きく、後、故障や調子が悪い時に「叩くと直る」っていうのは半分くらい本当で、結構な確率で直っていました(笑)、
それだけ構造が単純で頑丈だったんですね、今の機器は精密で強度は低いため叩けば壊れますが。これは人間も同じかもしれません、まぁ叩けば埃しか出ない悪人は除いて、あの頃はとりあえず若者(男子)は叩いて鍛える、っていう感じでしたね、
それでも叩く側がシッカリした愛情を持っている人で、叩かれる側が「シンプルで素直な人で定型発達」の場合の組み合わせでは、意外に若者はそれでシャンとしたりしたもんですが、
不良少年は自衛隊に入れればビシッとする、みたいな荒っぽい論法もまぁ半分くらい本当で、「その当時の教育の次元」で見ればそれなりの効果もあったともいえました。
それは昔の不良は基本的にパワー・根性があり、根っこは単純で素直な子も多かったし、負けん気が凄く強くてタフなんで、逆にバネにして伸びていくことが出来た、という場合ですね。
でも今は、教える側が「前時代的な観念」で強くきつく指導すると、潰れる・捻じれる確率が高い時代です。
これはオリンピックのような究極の体育会系でもそうですね、その子に合わせて言い方を変えたりフォローをしてあげないと精神的にもたない、それだけ今は多様化した優しい時代になっているわけです。
私はこの新旧の両方のアプローチを実体験として経験している年代である上に、様々な体罰・精神的暴力・パワハラなど日常茶飯事に経験してきたので、両者の質を主観的にも客観的にも比較検討できるのですが、
古い時代の人は未だにそのやりかたに固執していたり、逆に古い時代を知らない人が、知らないまま過剰に悪く言う傾向もみられます。
特定の社会的慣習と傾向性だけをずっと生きてきた人にとっては、それしか実体験としてはリアルに知り得ないわけだから、「主観的にどのように感じるか」を明確に捉えることが不十分にしか出来ないことは、ある意味仕方ない一面もあるわけです。
そして知らないこと・未体験のことでも、関心を持って取り組めば、知識で補足し想像力を働かせて徐々に理解を深めることは出来ます。
あの当時、彼女への電話、伝言は公衆電話かポケベルでした。硬貨が切れた時のためにテレホンカードを持っていても、
わざわざ外に出て公衆電話で話しているし、お互いに色々話したいことがあったりすると結局カードも使ってそれも足りず切れちゃうんですが、そういう不自由さ・制限が多かったと感じますね。
「伝えたい」という気持ちが空間性や時間性に遮られることなく、どこでもいつでも簡単に伝えられるツールに満ちた現在の状況は、逆に詩が育たなくなっていく、ともいえる環境でしょうね。
発達障害、精神障害の人々だけでなく、社会の影で生きてきた様々な人たちを見て私がよく思うのは、「いろんなものに遮られてきた人たち」ほど、心の中に生きた詩を宿していることがある、ということです。
彼等・彼女たちの言葉に、驚くほど豊かなオリジナルな創造性や生きたコトバの力を感じることがあるのは、世界に遮られている中で生じた強烈な想い・印象を持っているから、ともいえます。
そういうものがある人はそれを自他を生かす方向性で使えば、使えるように昇華していけばいいんじゃないかな、と私は思います。
下で「辻井伸之」さんに関する外部サイトの記事を紹介していますが、盲目のピアニスト「辻井伸之」さんのピアノには「詩」そして「色」があります。テクニックどうこう以前にそれは私の、そして多くの人々の心に自然に響きます。
彼は物理的な光を感じれない、視覚という世界が閉じているわけです。ですが彼の母は、我が子を均一化した「適応」へ向かわせるのではなく、彼の心の中で息づいている「何か」を見つけ、
そして一見「短所」のように見えるものを短所と決めつけずに、それを枯らさないように大事に育てたんですね。
もしこのような母でなく、世間基準に合わすことばかりで頭がいっぱいで、盲目の息子の内的な詩の世界に気づくことが出来なかったのなら、その内側の生命力を枯らしてしまったことでしょう。
〇 ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18 辻井伸行 /Nobuyuki Tsujii BBC Proms full Blind Pianist
そして追加更新(2017/10)でもうひとり紹介しますが、膠原病で耳が聞こえない「マンディ・ハーベイ」という女性の方がいます。
この女性の歌と歌詞、その詩の生命力もまた聴覚という世界が閉じている中で育まれたものですね。以下のリンク先にてマンディ・ハーベイさんの歌の動画を貼っていますのでどうぞ♪ ⇒ アナグマと歌に癒されて 透き通る歌声とコトバの力
日本から言葉が消えていく!?
ポケベルは文字制限があって、「イマスグアイタイ ハナシタイ」みたいな味気ないデジタル文字以外にも、数字の暗号がありましたね、 例: 今どこ = 10105 どこにいるの? = 1052167
これはもう時代の先を行っています。今思えば、ポケベル会話は時代を超越していたんです。KYなんていう短縮後よりも近未来的ですね。言語すら超越して数字で話す、
いやこれこそ「日本から言葉が消えていく」と危惧すべき状態だったでしょう(笑)、でも実はこれでちゃんと通じていたんですけどね。
「0840 = おはよう」「724106 = なにしてる?」「0833 = おやすみ」 「09106 = 起きてる」「500731 = ごめんなさい」「114106 = あいしてる」「5110 = ファイト」「0106 = 待ってる」
う~ん、まるでアンドロイド、人工知能の会話のようです。そして人間ていつの時代もどんなことでも競争したがる生き物で、ポケベルでも「高速打ちスゲェ~」みたいなのがありましたね。(笑)
「ポケベルで競い合う人間たち」、まぁ振り返ればなんか可愛いですが、今でいう「ブラインドタッチ」みたいなもんでしょうか?
とはいえそれも百年後には、昔の人は「パソコン」とかいう機械で手打ちしていたんだよ~、みたいな昔話になっていて、「パソコンって何?」「昔の人ってそんなめんどくさいことしていたの?」みたいに言われるんでしょうね。
「ウ・タ・ヨ・ノ・コ・レ」と長渕剛さんは歌いましたが、DAIGO式略語だとUN、ポケベルでの文字入力だと「13.41.85.55.25.94」になります(笑)、ギャー日本から言葉が消えてく~~。
長渕剛さんがテレビでの乾杯で言ってたことは「ん?」って思いましたけど(笑)、それはともかく長渕剛さんってロックでブルースな歌手だよなぁ、
生であれだけ歌えるなんてやっぱりめちゃめちゃ上手いなぁ、と感じましたし、あと反骨エネルギーも未だに相当強いですね。そこは今のロックにやや不足している要素だとは思います。
まぁ日本の音楽業界の問題とか伸び悩みとかは結構以下に紹介のリンク先の動画・記事で大部分は説明できるとは思いますね。
〇 日本のメジャー音楽シーンは2010年に破綻している
〇 JPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた 前編
〇 JPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた 後編
〇 JPOPの曲似ているのは理由がある 「コード依存」がひどいから?
〇 作曲における、創作と盗作の線引きはどこ??
〇 宮台真司+小林武史が語る、2010年代の「音楽」と「社会」の行方
〇 J-POPの現在と未来〜邦楽育ちのアーティストの行方
〇 古い慣習にしばられた「音楽業界」が変わるために必要なもの
日本から歌が消えてく!?
ですが本当に「日本から歌が消えてく、日本から言葉が消えてく」そういう流れなのでしょうか?いいえそんなことはありません。
昭和のヒット曲だって明治の人から見れば「う~ん、合わない」だったでしょうし、ロックとかポップスだって「外国人かぶれしやがって」って感じでしょう。例えば明治にヒットした曲の歌詞を見てみましょう。
〇 1868年(慶応4年/明治元年)「宮さん宮さん」
宮さん宮さん お馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレトンヤレナ
一天万乗の帝王に 手向かいする奴を
トコトンヤレトンヤレナ
ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土
トコトンヤレトンヤレナ
う~ん、特に言葉に深みも全くない単純な表現の歌詞ですね、しかもこの歌詞のつづきでは結構凄いこと言ってますよ。
– つづき –
国を追うのも 人を殺すも
誰も本意じゃないけれど
トコトンヤレトンヤレナ
薩長士の先手に 手向いする故に
トコトンヤレトンヤレナ
明治のヒット曲ですが「本意じゃないけどトコトン殺せ」みたいなモチベーションを高める軍歌だったわけですね。とはいえ、明治もまぁ大した日本語は使っていませんし、残るとか残らないとか言う前にこれでは今の時代に合いません。
ですがこういう時代に生きた人から見れば、西洋のフォークソングやらロックに影響を受けた昭和の曲なんて「日本から歌が消えてく、日本から言葉や大和魂が消えてく」って感じだったでしょう。
結局「前の世代」の人が「次の世代」の文化、ミーム的変化・進化に大して違和感を感じてこのように言っているだけなんですね。平たく言えば「最近の若者は~」の心理に繋がっているんです、コレも。
では「戦前のヒット曲」の歌詞から、平成の今とどのように言葉や表現が違っているのか見てみましょう。(きっと昔はもっと深く高尚だったんだろうな~。)
戦前のヒット曲
〇 ああそれなのに 美ち奴(昭和12年)
空にゃ今日も アドバルーン
さぞかし会社で 今頃は
おいそがしいと 思うたに
ああ それなのに それなのに
ねえ おこるのは おこるのは
あったりまえでしょう
なにこの「普通の女の感想・日記」みたいな歌詞..戦前でコレですか、今と何も変わらないですね。
〇 侍ニッポン (昭和 6年)
人を切るのが 侍ならば
恋の未練が なぜ切れぬ
伸びた月代 寂しく撫でて
新納鶴千代 苦笑い
う~ん、「未練タラタラの普通の男」の歌、昭和初期でコレですか、今と何も変わらないですね。(苦笑)
〇 上海の花売り娘(昭和14年)
紅いランタン 仄かに揺れる
宵の上海 花売り娘
誰のかたみか 可愛い指輪
じっと見つめて 優しい瞳
ああ上海の 花売り娘
..「ひとめぼれで娘をガン見している普通の男」の歌か..今と何も変わらないですね。
〇 忘れちゃいやよ(昭和11年)
月が鏡であったなら
恋しあなたの面影を
夜毎うつしてみようもの
こんな気持ちでいるわたし
ねえ 忘れちゃいやよ
忘れないでね
演歌の定番みたいな歌詞「普通の女のロマンス」です。変わらんな~
〇 籠の鳥(大正14年)
逢いたさ見たさに 怖さを忘れ
暗い夜道を ただ一人
逢いに来たのに なぜ出て逢わぬ
僕の呼ぶ声 忘れたか
あらら大正でも既に「ストーカーみたいな男」の歌詞、結局何も変わらないですね。
まぁこのように人間の心、男女の想い、庶民の普通の生活、こういうものはある程度普遍的で、歌もコトバも大して変わらないんですね、単に意味は同じでも表現が時代によって置き換えられていくだけです。
ではそもそも「日本の歌と心のルーツ」ってなんでしょうか?その原点は「童謡」にあり、と以下に紹介の記事で説明していますが、
それならもうみんな「原点」から離れまくっているじゃん、ってなります(笑)、 まぁ他を否定しまくって俺様の歌だけが本物だ~、みたいに豪語すると結局ブーメランなりますね。
日本の歌と心のルーツ
「近代日本の音楽の原点は童謡にあり」 より引用抜粋
歌謡曲の分野で戦後初の大ヒット曲は「岡晴夫」の「東京の花売り娘」 昭和21年 作詞 佐々詩生 作曲 上原げんと 「蹄くな小鳩よ」 昭和23年 作詞 高橋掬太郎 作曲 飯田三郎
これらの曲をじっくりと聴いて見みると、皆立派な軍歌リズムそのものです。
即ち、この時代の全ての日本人には「音楽イコール ⇒ 軍歌」と言う長き年月(としつき)に渡る徹底した刷込教育がしっかりと、痛い程身体に染み作いていたのが実に良くお解り頂けると思います。
2ビート⇒軍歌リズムで洗脳されてしまった哀れな日本人の心に「童謡」の世界でこの常識を打ち破ったのが昭和21年9月《大戦終戦が20年8月》の『みかんの花咲く丘』だったのですが、
それでは戦後の日本の「流行歌⇒歌謡曲⇒演歌」の分野で今までの常識を打ち破った最初の曲は何だったか皆さんご存知でしょうか?
戦後間も無く今迄に無い所謂いわゆる”ジャズっぽい”感覚の例えば、美空ひばりの『東京キッド』や東京シューシャインボーイ ⇒ 靴磨き』或いは、淡谷のり子が歌った『○○ブルース』等が数多く登場し巷の話題を呼びますが、しかしこれ等は間違い無く日本人の心の歌⇒「演歌」です。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 近代日本の音楽の原点は童謡にあり
◇ 関連外部サイトの紹介
私は最近の歌手の歌とかも良く聞くし、J POPにはJ POPの、洋楽には洋楽の良さがあると思うし、そもそも「どう楽しむか」「どこに感動しているか」とか、「どの部分にウエイトがあるか」は人それぞれなので、
ある特定の切り口だけで全否定するのはどうかなぁ、と思いますね。好きとか嫌いとか合うとか合わないは人それぞれなんで、どれもあってよくて、全否定までするような根本からの否定は無意味だと思いますね。
私は「長渕剛」を聴いた直後に例えば「きゃりーぱみゅぱみゅ」も平気で楽しんで聴いてしまうタイプなので、やっぱり音楽は「音を楽しむ」、シンプルにそれだと思います。その「楽しみ方」は人それぞれです。
変わったのは「歌や音楽の本質」なのではなく、そして「言葉がなくなっていく」のでもなく、「日本から歌が消えていく」のでもなく、
変わったのは「歌や音楽に感応する感性の深さや鋭敏さ」、そして「詩の空間性の喪失」、そこに本質がある、と私は感じます。
そして「送信側」の問題は音楽ビジネスの在り方の問題と深く絡んでおり、「受信側」の問題は現代の生活形態・変化による身体性の喪失、詩的空間性の喪失との関連が深い、といえるでしょう。
〇 Mr.Children「進化論」
この世界に生まれ持って携えた使命が
もしあるとしたら それはどんなものだろう?
大それたものでは きっとないな
だからと言って どうでもいいことじゃ寂しい気もする大小の様々な歯車が複雑に絡み合い
今日も廻ってる あぁ この世界 愛しき世界
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