今回は「能力主義の内面化」の後半で、「ハードとソフトのバランス」です。
ではまず一曲♪ 紺野ぶるまのラップ対決です。今回は杉本青空と対決!まぁこれは彼の勝ちですね、上手いです。
紺野ぶるまの下ネタラップに、杉本青空の反射神経、かつ下品な言葉を使わずに下ネタで返す言語化能力、もう座布団三枚、いえ五枚ですね♪ まぁ紺野ぶるまを応援してるんですけどね、私は(笑)
> 物事を決める公的な場には、一方の性が40%を下回ってはいけないhttps://t.co/zMxyauUP9x
これ、何故性別なのだろう?
「公的な場で、非大卒が40% を下回ってはいけない」もやるべきではなかろうか?
サンデルを出すまでもなく、メリトクラシーにより非大卒の政治参加は難しくなっている。— データをいろいろ見てみる (@shioshio38) September 30, 2021
日本の4年生大学の進学率は約50%です、つまり半数はそれ以外(短大、専門学校を含む)なのです。よって↑上のような指摘こそ、能力主義の構造面に具体的にマクロなレベルで政治的アプローチする上で当然出てくるものであるはずなのですが、
「能力主義を内面化」とか、そういうことを語る専門家とかたまにいても、結局「高学歴主体の構造」を維持したまま、「特定の属性」のみを同じ数にする、ということを優先するのです。「その優先順位の在り方」に既に「能力主義が深く内面化されている」のです。
〇 トマ・ピケティ「欧米の左派政党は庶民ではなく、もはや高学歴者のための政党となった」
サンデルの権威パワーによって、最近は「能力主義」「競争社会」のマイナス面がよく議論されるようになりましたが、そもそもサンデルの言ってるようなことはずっと前から言われていたことで、新しくはないんですが、権威が言うと人はやっと話を聴く、世の中そういうものです。
「権威論証」は帰納的推論のひとつで、こういうものは「トップ・ジャーナル」や「統計」とかもそうなんですが、「裏付け」のために多かれ少なかれ人は「権威的なもの」を帰納的推論で使っているわけです。(それ自体は別にいいのですが)
ところで、霊長類研究所が「解体」とのことですが、某教授の「ケータイを持ったサル」のような科学者の肩書を持つ者による「○○論」なんて沢山あり、そういうのはひとつの仮説に過ぎないものでしょう。理系の専門家が人文知と結びつくことの弊害も多々ありますが、
しかしそれよりも、「科学的」を盾に「たいしたエビデンスもないもの」を政治的正しさの補強として使っているケースはあり、それが「ただの個人的見解・仮説としての考察」とかで止まらずに、「専門家」がそれによって他者に教育したり、内心へ干渉し行動変容を求める、というような場合、もっと大きな問題でしょう。
IAT(潜在的連合テスト)とかもそうですが、こういうもので「無意識」がわかるかとえば「わからない」のですが、実際に使っちゃうわけですね。こういった「科学の名の元」で「専門家」がそれを行う、というのは、一般の人が意見を言ったり、考察するのとは次元が異なる行為なのです。
「信憑性が低い」ことも一般の人にはわからないのです。「エビデンス、エビデンス」と言っている割には、「灯台下暗し」になっている専門家もいますが、そういう人ほど自分に甘く人に厳しい、そして社会運動している場合は「内集団に甘く外集団に厳しい」ので、「都合の悪いエビデンスは隠す」なんていうことになるのです。
IAT(潜在的連合テスト)って、最近の論文を見ると、信頼性低い、行動を予測しない、潜在スコアを変えるトレーニングしても行動は変わらない、とされていますが、日本語で検索すると、批判的な論文や記事がほとんど見当たらないのはなんででしょうhttps://t.co/aiG5AGfbsP
— Yuki Kamitani (@ykamit) March 7, 2020
「能力」ってなんでしょうか?「能力」というのも実に多元的で、学力とか運動能力とか何らかの秀でた才能のように、それ自体が直接成功や実力・結果と結びつくようなスキル、ケイパビリティなどはわかりやすですが、キャパシティのような能力や多元的なアビリティがあります。
例えばコミュニケーション能力のような、それ自体が競争されたり数値化はされないけれど、エンプロイアビリティの高さと関連する人間関係構築力は、その人の「市場価値」に結びつくものとして、
しかも現在の経済の中心となっている第三次産業においては、それが仕事及び人間関係においてかなり大きな差異に繋がる要因のひとつでもあるわけです。
「○○主義の内面化」等はよく語られますが、それは多元的なものであり、「能力主義の内面化」にも多元性があるのですが、大抵は「強者の特権性」にばかり目が行くんですね。
しかし「深く能力主義を内面化している人」というのは、たとえば「弱者男性問題」にはあまり目を向けないのです。「向けたくない」と言った方が良いでしょう。しかしこの問題はコインの裏表です。
「弱者男性問題」というのは、まさに「能力主義」によって生じている非常に根深い問題、ともいえます。たとえば「非モテ」は、外見や収入だけではなく、言語コミュニケーション、非言語的コミュニケーションが絡んでいたり、気質(先天性)を含んだ、複合的で相対的な能力基準での結果でもあります。
しかし「非モテ」の定義が人によってかなり異なるだけでなく、時代の変化による恋愛・結婚の捉え方自体の変化も関係していたりするので、「非モテ」に関しては一概にはいえませんが。
格差が大きくなり、ルサンチマンと「マルクス的な階級闘争の思考の型」がミックスすると、まるで「小さなレーニン」のような「暴力革命」の方向性へと短絡的に向かう人々が観察されますが、
「私はマルキシズムではない」、という人でも、実際は様々な知識人の言説を通じて「マルクス的な思考の型」が自然に無意識に内面化されている、というのはよくあり、「資本主義の内面化」といいつつ、それは「無自覚なマルクス的な思考の内面化」の裏表だったりします。
「その思考の型を前提にするからそう見える」、そして「その前提それ自体」に「見落とされた質がある」ということは、右であれ左であれどちらにもあるわけです。
以下に引用・紹介の「社会主義・共産主義的世界観」への論文で批判的に指摘されている、「マルクス的な思考の型」が「見落としている質」は、そのひとつでしょう。
「 社会主義・共産主義的世界観の特質と問題点」 より引用抜粋
唯物史観においては、物質的生産諸力とか物質的生活という、心的・精神的要素をあらかじめ捨象した概念を提示した上で、その物質である土台が、捨象したはずの心理や精神といった上部構造を規定していると主張するのである。
ところが日本においては、マルクス主義者による日本資本主義分析が本格化した大正中期(1920年代)以降、すでにこうした心理的精神的要素を組み込んだ工芸品の評価を行っていた人物がいる。柳宗悦である。
柳は、民衆が造る工芸品のなかに、使う者への配慮と巧みな工人の手業から生み出された、丈夫で使いやすく飽きない模様と形状・質感を備え、素朴で味わい深い健康な「用の美」を見出し、全国各地の民衆的工芸品を発掘し評価し、その存続と発展に尽力した。
柳は、そうした民衆的工芸品の美しさを捉える際に、唯物的でも唯心的でもなく「物心一如」の眼で見るべきことを説いているが、その含意を次のように説明している。
「今まで物を讃えると、唯物主義と謗られたり、物を仰ぐと偶像だと貶せられたりしたが、しかしそれは唯心主義の行き過ぎで、「心」と「物」とをそんなに裂いて考えるのはおかしい。
心は物の裏付けがあってますます確かな心となり、物も心の裏付けがあって、いよいよ物たるのであって、これを厳しく二つに分けて考えるのは自然だとはいえぬ。物のなかにも心を見ぬのは、物を見る眼の衰えを語るに過ぎない。唯物主義に陥ると、とかくそうなる。同じように心のみ認めて、物をさげすむのは心の見方への病に由ろう。」
こうした観点からの民芸の美や品質の特質などは、当時日本資本主義論争に明け暮れていたマルクス主義者には無縁で、全国各地に残る手仕事の民芸品などは、前近代的な生産様式の遅れた分野としてほとんど注目さえされなかったといってよい。
さらに近年のいわゆる消費経済学を参照するまでもなく、すでに明治大正期の近代化過程における庶民の消費構造や流行の変化を心的・文化的要素に着目して観察していた者がいる。民俗学者の柳田國男である。
(中略)
しかし、マルクスのいう「抽象的人間労働」概念からはまったくこうした労働文化の質的中身は見えてこない。「労働者の解放」を掲げながら、実は労働そのものに対して実に無味乾燥な物質的側面しか見ておらず、人間存在の複雑で豊かな実相を見ていないのである。
(中略)
そして最も上部構造の政治体制や政策が直接的に実体経済に著しい影響を及ぼすものこそ、ほかならぬ社会主義体制下での計画経済であるというパラドクスをマルクス主義者はどれほど自覚しているのだろうか。
(中略)
こうして下部構造の上部構造への規定性を強調する者が、労働者独裁権力という最強の上部構造を用いて下部構造に決定的影響を与え、史上空前の規模で民衆に惨禍を与え続けていくという悲劇が生み出されたのである。
(中略)
レーニンは、『国家と革命』のなかで「被抑圧階級を搾取する道具としての国家」として階級抑圧機関論を展開し、これがマルクス・レーニン主義の国家論として強い影響力を有してきた。さらにレーニンは、エンゲルスの説いた「国家の死滅」論に関しても、それが資本主義国家の死滅ではなく、あくまで階級対立が消滅したあとの社会主義国家についての指摘であることに注意を促すとともに、資本主義国家を倒す社会主義革命における「プロレタリアートの独裁」による「暴力革命」の意義を繰り返し強調している。
レーニンは、1870年代のドイツ社会民主主義者がその綱領的要求として掲げ、エンゲルスも一時是認した「自由な人民国家」というスローガンも、「ブルジョア民主主義の粉飾を表現していただけでなく、一般にあらゆる国家にたいする社会主義的批判の無理解をも表現していた」とし、
続けて「われわれは、資本主義のもとでのプロレタリアートにとっての最良の国家形態として、民主共和制に賛成であるが、しかし、もっとも民主的なブルジョア共和制においても、賃金奴隷制が人民の運命であることを忘れる権利はわれわれにはない。
さらに、あらゆる国家は被抑圧階級を「抑圧するための特殊権力」である。だからあらゆる国家は非自由で非人民的な国家である。」として、レーニン国家論の核心を述べている。
こうしたブルジョア国家の本質を確認した上で「ブルジョア国家がプロレタリア国家(プロレタリアートの独裁)と死滅の道を通じて交替することは不可能であり、それは、通常、暴力革命によってのみ可能である。」と強調している。
(中略)
たしかに経済的、政治的に優勢な階級は、自己の権力を維持するために国家の様々な機関を活用することが常道かもしれない。しかし、彼等は組織や社会の指導層として、同時に、様々な階層や地域の諸利害を調整し、さらにはインフラや社会資本の整備・国土(領土)防衛のための組織維持、教育・衛生なども含んだ公的事業のための資金徴収(徴税)と支出管理のための行財政運営を行って、社会全般の公的利益を促進してきたのである。
これらの運行のための、諸階級の利害調整機関として近代市民社会では、議会と官僚機構がその役割を飛躍的に増大させていく。そこで様々な階級の利害が反映され、彼等との妥協と協力体制が整えられていったのである。
すなわち社会はマルクス・エンゲルスのいうような支配階級が被支配階級の剰余価値を一方的に搾取する階級社会にのみ還元できるものではなく、いわゆる支配層も剰余価値創出に指導的役割を果たし、また直接的経済支配に与しない小生産者や商人、雑業層など多様な階層が各々の社会的役割を担って存在している。
したがって、国家はそうした諸階層の利害を調整し、共通利害である公共の事業を遂行することを任務とする。その中には、そうした事業を通して経済的・政治的に優勢な階級が自己の利益を追求する場合もあるだろう。しかし、それがすべてではない。
(中略)
近代以降資本主義国家では社会の公共的領域は古代とは比べものにならないくらい拡大して複雑になり、マックスウェーバーが強調したように工場、大学・研究所、軍隊、国家機構において専門分化と官僚制が進展し、それらを司る専門職員と官僚機構が肥大化していく。したがって、社会主義革命において階級搾取が廃止されたとしても、膨大な公共機能は現存するし、社会主義経済体制の建設のためにもそれらを専門に担う国家の官僚機構は残存、拡大していくであろう。したがって国家はエンゲルスのいうように階級支配が消滅したとしてもけっして死滅しないのである。
(中略)
こうしてマルクス主義は、人間が歴史とともに様々な経験と思索と創造によって積み上げてきた思想や文化や精神さえも、「階級支配」という自らが勝手に規定した、一面的で社会に分裂と敵対を醸成する乱暴極まりない規定によって抹殺していったのである。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ 「 社会主義・共産主義的世界観の特質と問題点」
マルクス的な思考の型を過度に内面化した人は、「抑圧者」と「被抑圧者」という二元論や、「搾取」という概念を多用し、社会及び人間存在を「加害者」「被害者」という二元論で分離的に思考しますが、
現実の人間・社会というのは、綺麗に明確に分離できないんですね。
そして「権威」とか「伝統」というものには負の要素しかないか?私はそうは考えません。物事には必ず両義性がある、それが人間であり、人間が生み出す世界、社会なのです。⇒ 「保守主義者であることが不可能な国」の人間として、保守主義者でいること
インテリ・高学歴者、才能豊かな成功者が、「能力主義」の格差に対するルサンチマンが自身に向かないように、「道徳的な能力」の低さによってポジションを格下げされないように、「道徳的優位性」と「政治的正しさ」をアピールすることで自身を守る、
そうすることで、能力的な優位性と道徳的優位性の両方を得てポジションを強化する、同時に、中間層(マジョリティ)の「能力主義」と「無知」を批判し、「無自覚な特権者」として去勢を強化しつつ、
下(弱者)の味方をする振る舞いによって、「特権の正しい使い方(自覚的な特権者)」という「道徳的優位性」を再アピールしながら、自身のポジションを最上位に置いたまま権力性・権威性を守り続ける。
これは、「中間層の労働者」に「下支え」をさせ続けることを合理化するための知的な方便であり、能力の格差としてより複雑なものでもあるんですね。「能力主義を内面化している人」ほど、そういう問題を「自己責任」として扱い、「特定の属性の問題」に帰結して矮小化するのです。
そしてそれ以外の「自己責任」は過度に否定し、「構造の問題」だとして中間層(マジョリティ)に責任転嫁するわけですね。
「ある場」に「ある能力の特性を持つ属性」が集中するのは、「その属性にだけ元々特権がある」とか「エスカレーター」とか、そういう単純なものではなく、「構造的差別」とか「下駄」等の言葉で単純には語れない、「差」が生まれる多元的な力学があるのです。
世界は単純に、「ある属性に優位な思想・考え方が先にあって、その支配的な観念に合わせてシステムが作られた」、という権力的なマクロな力学のみで構成されているのではなく、トップダウンでの「強制的な適応の要請」だけではなく、
社会を維持する上で必要な「労働」の分担において「その役割を果たすのに適した能力の基準」で振り分けられて「自ずとそうなっている」、中動態的な力学(不可抗力)が働いているのです。「現実のリソース及び自然界の限界性・有限性でそうせざるを得ないもの」、不可抗力としての適応ゆえにそうなっている構造。
「ミクロとマクロの間」では、人類が生活インフラの土台部を作っていく上で、「その役割を果たすのに適した能力を持った属性」が、それを作る役割を「率先して引き受けるしかない現実」「率先して負うしかない現実」が在り、
その現実の課題と責任を負う(負わされる)ことによって、後に続く土台・支え役としての「犠牲」の役割も果たしてもいる。その重さゆえの「権威性」の発生と強化であり、
プラス(優位性)の背後にはマイナス(負担)を背負っている、時間的・過程的、そして全体性で観れば、「機会には開かれていても、その先は、競争の容赦のなさと責任の中で生きる犠牲を強いられている」ともいえるのです。
「マジョリティ特権」のような文脈では、「マイノリティとの比較での優位な要素」のみが語られますが、その優位性というのは、各社会・共同体を維持し支える上で「誰がその責任・仕事を負うのか」に「応える力」があることで生じ、「求められる役割への適応力の差異」で非対称性が生じるのです。
「切腹」は昔のことで、現代社会では肉体の次元でそれを課せられることはないですが、「社会的な切腹」は今もあります。「誰が責任を負うのか」というのはそういうことです。「切腹を命じられる属性」の責任の重さゆえに、権威性がセットになっているコインの裏表。
「血のコスト」を筆頭に、「社会インフラを支えるための様々な危険・重責を負うコスト」もそうですが、「優位性」と「責任・負担・犠牲」はコインの裏表で、「マジョリティ」は裏表セットで社会を回す分業複合体です。
そして前者の「優位性」のみが語られる時、ルサンチマンを刺激し、「搾取」や「特権」という概念だけが過剰に語られるようになるのですが、
「求められる仕事に能力が適応している人たち」が中心になって役割が機能する環境設定でなければ、社会・共同体を維持することは出来ない、だからまずはシステムがそう作られた(ある属性に最適化された)、と同時に責任も負わされる、
その土台の元で初めて「別のシステム」が作れるようになってきた、という時間的・段階的な発展の過程を無視して、非対称性の否定的な側面のみを強調するのです。
まずは「汎用性の高いハードの部分」がシッカリ構築出来て機能していることが大事で、そこに初めて様々な細かく多様な機能としてのソフトが入る余地が生まれる。
ソフトはハードの働きに依存している、そしてハードは有限性を持つ。そのことを忘れ、ソフトだけが際限なく増えてハードの有限性をオーバーすれば機能不全となり、
またハードを疲労させすぎて壊してしまえば、ソフトも機能出来なくなる。そしてハードを労働で支えている「柱」がマジョリティ(中間共同体)だったのです。しかしそれはグローバル化によって解体されていった。
「保守的なもの」、というのは「キャパシティ」の能力、実直なハード面(有限性)の部分を支えるもの、ともいえます。それは共同体の維持に必要なもので、「開放系」「閉鎖系」でいえば「閉鎖系」です。
そしてリベラル的なものというのは、ソフト面に該当するアビリティ、個の自由・可能性の拡大を支えるもの、無限性に向かう力学であり、「開放系」です。
質はそれぞれ異なるわけですが、ハードの有限性を無視すればその共同体は存続できなくなり崩壊します。経済・エネルギー・国防、そして少子化等の問題は重要です。とはいえソフトの入っていないハードというのもあまりに不自由です。
相互補完的なもので豊かに機能するはずのものが、どちらか一方だけとか、分離するだけの構造になってしまうと双方が持続可能性を失うのです。「無限」は「有限」に支えられている、と同時に「有限」もまた「無限」に支えられているのです。
どちらもが必要だが、バランスは必要で、それは価値を支え規定する人文系と、可能性を支え技術を発達させる理系と同様の力学バランスなのですね。創造性と合理性、法の有限性と個の無限性、それはどちらかだけが在ればいいのではなく、相互補完的なものです。