世界の見つめ方part1です。今日はこのブログの「社会問題」に関する「事象」の見つめ方、そして各記事がどのような背景で書かれているのか?を整理します。
複雑な話なので、まとめづらかったですが、出来るだけ要点をまとめました。
社会問題」はそれ自体で存在するか?
社会問題を提起する記事を書くと、たまにこういう反応をする人がいますね、『 社会なんて変わらない。いかなる問題提起もアクションも無意味。むしろ問題を提起することそれ自体が問題を作っている! 』 『 ただそのままを受け入れればいい、それで何が悪い!』という人。
まぁこのスタンスはよくあるもので、「ある意味」では私は肯定しますが、また違う意味では否定しています。
私は完全なる本質主義でも完全なる構築主義でもありません。 これもまたどちらも必要なアプローチで、ケースバイケースであり、ようはバランスなんだと思いますね。
では様々な社会問題というものを提起するさいに、どのようなアプローチがあるのでしょうか? それは以下の4つのアプローチがあります。
①規範主義アプローチ ②機能主義アプローチ ③構築主義アプローチ ④リスク社会論アプローチ
今日はこれらを順に説明していきますが、4つのアプローチの前に、これをもっと大きく分けるなら、本質主義と構築主義という二つに分類出来るでしょう。これは今まで数多く議論され対立してきた二大概念です。
※本質主義:物事に容易には変化しがたい普遍的な本質が備わっているとする立場。
例えば「性差」の問題を見た場合、本質主義からの角度ではどのような解釈になるかといえば、男、女という性差を遺伝子・本能・ホルモンといった生物学的決定論として説明しようとするわけです。
これに対して社会構築主義では、「性差」というものを親族・家族システム・ 経済的社会的編成・社会的規制・政治的介入・抵抗文化といった 社会的要因によって形成されたものとして説明しようとします。
本質主義に対してより新しい概念である構築主義というものは確かに一理はあるのですが、また同時に矛盾があるのです。それでは以下の記事を参考に紹介しますね。
「リスタート」 より引用抜粋
「ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論』を読んで」
本質主義を否定した時、より「正しい」ものがなんであるかという基準を示すことがいかに困難な事であるのかを構築主義は自ら示している。
一方で、ベックが指摘しているのは、むしろ構築主義者がある事象の構築性を主張し、その主張の正当性が確立すればするほど、構築されたとされる「事象」が、そうであるものとして固定化されてしまう危険性である。
「社会問題Aは構築されたもの」という主張は、「社会問題Aは社会問題とされている」という事実を固定化する危険を持っており、またそれを問題と思っていない人々を排除しているという問題を抱えている。
構築主義者の主張の正当性が認められればられるほど、このジレンマは深くなる。構築主義者にとっても望ましくない結果といえるだろう。
この問題に対して私は答えをもっているわけではない。道徳的に、「自らの言説も考察に加えなければならない」と言われるが、実際にどのように組み込まれているのかあまり知らない。
一つのやり方としては、構築主義的に事象を捉え返す見方自体の考察というのがあり得るかもしれない。あるいは、なぜ「事象」が「常識」あるいは固定化されたと研究者が判断したのかということへの考察もありえる。
いずれにしても、再構築に開かれたものにするための工夫は責務だろう。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
何が社会問題とされてきたのか
・社会問題とは、社会的な対応が必要とされている事柄。
・問題の捉え方は時代とともに変化している(自殺と離婚の例)。
①規範主義アプローチ
規範主義とは?
社会秩序を保っているのは、究極的には、人々が共有している共通の価値規範であるという理論です。
● 疑問 と矛盾
ある事象は、多くの人(マジョリティ)が望ましくないと思えば社会問題となるだけなのか?
● このブログの記事の場合
過度の「均一化」「皆が同じでなければならない」という同調圧力や、人とは違う考え方や個性をやみくもに潰す「出る杭叩き」「失言揚げ足取り」「言葉狩り」「過剰クレーム」などをテーマに問題提起し書いています。
これは過度な規範主義、群衆秩序への批判ですね。
規範主義に関しては私はかなり否定的ですが規範主義、群衆秩序を全否定しているのではなく、規範主義、群衆秩序が過剰になり過ぎて生まれている不調和や抑圧の否定的側面への指摘です。特に日本社会ははこれが強すぎるんですね。
もっとも私がコレに近いなぁと思うのが以下の記事なので参考にして下さい。
機能主義とは?
機能主義から見た「社会問題」というのは、社会システムの目標達成にとってマイナスに働く事象のことである。
● 疑問 と矛盾
システムの境界設定によって、ある事象はプラスにもマイナスにも評価できてしまう。
● このブログの記事の場合
私はこれに関しては、否定的なところと肯定的なところがありますが、このブログでの「過剰な機能主義」への批判は主に企業や社会システムの上部構造が生み出している不調和や抑圧の原理をテーマにして問題提起しています。
機能主義といっても複数の概念体系があるので、それを詳細に書くと非常に長く哲学的なものになりますね。これに関しては以下の外部サイト・PDFを参考にどうぞ。
構築主義とは?
社会問題とは、人々が社会問題だと主張する問題のことである。
● 疑問 と矛盾
事象そのものに関する研究を深めなければ対策を立案できない。
● このブログの記事の場合
これに関しては否定的な部分と肯定的な部分があります。例えば、ある事象の事実の立体性を考慮せず一面のみを否定的・悪意的にラベリング、レッテル化して一方的に世論誘導された場合、
それが過度なクレーム意識や排他的な意識を高め、集団ヒステリーとしてエスカレートし、やがてそれが社会問題として構築化される、というようなケースがありますが、このようなものに関しては「規律主義」同様に私は否定・批判しています。
ですが、「事実と多角的な検証を元に提起された結果の社会問題」であるにも関わらず、これを「構築主義的なものと同一視させ無効化する」というやり方も否定しています。
社会構築主義VS本質主義の章で実例を含めて書いているので、そちらも参考にして下さい。
リスク社会論とは?
社会問題とは、専門家が社会問題だと定義する問題のことである。
● 疑問 と矛盾
実験手続は客観的であっても、認識の出発点には主観的な前提がある。
● このブログの記事の場合
私はこれも否定的なところと肯定的なところがあります。専門家や有識者などの見解が全てにおいて正しいでしょうか? 確かに餅は餅屋であり、専門家でないとわからないことは多々あります。それは否定していません。
ですが権力・権威・既得権益というものは、専門家や有識者を盾に使うことが多々あり、自身の立場や利益を守り維持するために偏った主張や判断をしていることもあります。
そして専門家は特定の分野に関してはスペシャルでも、他の分野には疎いこともあり、様々な要素を同時に含んでいる問題を考察する際に、逆に立体的な視野を狭めてしまうことはよくあります。
ですので、そのようなものを全面的に「真実」とすることは危険です。主にそういう部分を否定し問題提起しているんですね。
リスク社会論 は、「リスク(危険)社会」の著者であるドイツの社会学者ウルリヒ・ベックによる社会学理論である。これに関しては以下のサイト・PDFを参考にどうぞ
◇ 科学的合理性と社会的合理性
「合理的な意思決定」というのはよく聞く言葉ですが、この「合理的」というものはひとつではありません。合理性には科学的合理性と社会的合理性のように質の異なる合理性があります。
専門的な事実判断では「○○が正しい」からといって、単純にそれだけで意思決定は出来ないことは社会において多々あります。社会的合理性による価値判断とのバランスで決まるわけですね。
また、私は民族性や遺伝、文化や伝統宗教、自然環境などの要因をある程度は本質主義的なものの見方として肯定はしていますが、非常に多面的な構造である世界の見つめ方として、「国際社会学」のような相対主義的なものの見方も肯定しています。 これもまたバランスだと思いますね。
以下のPDFの内容は、共感できる部分が多いので紹介します。参考にどうぞ。
社会構築主義VS本質主義
例えば北朝鮮や、韓国の一部の過激な人がやってるように、事実のリアルな検証を元にせずに問題化することで過剰に大きな問題にすることがあります。これは「嘘も100回言えば真実になる」という理論と同じ性質のものであり、
国家政策として子供の頃からそれをやられれば、それは既成事実のようになるでしょう。そして「実際の内容とはかけ離れたもの」が「事実のようなもの」となり、大騒ぎするというわけですね。
これは構築主義+量質転化の悪用の例ですね。(まぁこういうのは北朝鮮や韓国の一部の過激な人だけに限らずどの国の人であれ多かれ少なかれあることですが)
構築主義+量質転化=「社会問題」という公式と正反対なのが、例えばカルト・犯罪・自殺・うつ・虐待・精神的な暴力・イジメ・格差・貧困・公害などを社会問題だと主張することです。
北朝鮮や、韓国の一部の過激な人がやっているように構築主義+量質転化を悪用しているだけならば、これも全部「作られたもの」という理屈になりますが、
これらはまず全て「量」のある事象が実在しています。そして事象として存在する背景には、様々な因果関係があり個人のみに完結できないそれ以外の力学 =「質」としての現実も存在していています。
そしてそこに明らかに社会・大小のコミュニティー・他者が絡んでいるのであれば、それは個人以上のものとして問題が提起されるわけです。
構築主義の理屈で例えるならば社会の問題がどういう風に解釈されるかを「構築主義の悪用」例に、その構造を書いてしてみましょう。
① 「あること」を社会問題だと何回も何回も主張する(量を構築)
② 「あること」が強く深く記憶化・印象化される(質を構築する過程)
③ 事実でなかったものがやがて公的事実に(社会問題を構築する過程)
④ 世界に主張し「歴史的な既成事実」の正式認定を求める
ですが↑のような構築主義的な主張のように「実体の何もないところから」それが社会的なものとして構築化されたのではなく、現実の社会問題の場合は↓の構図のなります。(例:自殺問題の場合)
① 年間3万人以上の自殺が実際に起きている事実(リアルな量)⇒ ② その背景を調査する(リアルな質の検証)⇒ ③ 社会との因果関係が明らかに認められる(リアルな質の実証)⇒ ④「社会問題だと主張する」
という順番ですね。
まずこれはリアルを起点にしたものなんですね。「そう意識して表現するからそれが事実化される」のではなくて、それは「今起きていること」「観察された事実」をより明確化して表現しているだけなんですね。
それにどのようなレッテル(ラベリング)をつけようが、それは事象を記号化することでしか説明できないことであるのだから、必然的な過程であり、またどのようなラベリングにするか?という相対性それ自体には大した違いはありません。
ラベリングそれ自体が重要なのではなく、「今起きていること」「観察された事実」それ自体が重要なんですね。
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