当ブログは科学と感性で人、心・精神を立体的に見ていくブログです。普段人と話すときに、このブログで書いているような科学的な考察や心理学の話は基本的に一切しません。
私にとっての日常は、感性で肌で感じる全体性としての世界だからです。私は理系の方が良いとか、文系の方が良いとか、左翼がどうとか右翼がどうとか、正直そういう区分けは意味のないこだわりだと思っています。
「科学や理系的な合理性だけを重視する社会」はイビツな世界になります。そして「感性や文系的な主観的なもの」だけを重視してもイビツな世界になります。それはどちらも大切であり、全てはバランスなんですね。
例えば「和食」「日本の芸術・文化」というものは、感性が極めたものですが、感性で極めたからこそ美しく楽しい。そして美しさも楽しさもない世界に住みたいとは思いません。
「日本の芸術・文化」は今世界的に高く評価されています。ですがこれらは科学者が作ったものではありません。にも関わらず日本の芸術・文化には素晴らしいバランスがあり、美しく楽しいのです。
仮に、和食の栄養素だけを科学的に抜き出したものを食卓に並べて、誰がそんなものを毎日食べたいと思うでしょうか?科学者が考えた脳や心によいとかいうつまらないメロディーだけをあなたは毎日聴きたいですか?
仮に科学者だけが集まって理論で考え出す文化があったとしたら、それは非常にアンバランスなものになるでしょう。学者が考えた通りに現象はコントロールなど出来ません。「科学でわからないことはない!」それはとんでもない傲慢さでしょう。
科学は社会問題、家族の問題、恋愛の問題、こういう極身近なシンプルな問題さえ何一つ本質的な解決はできてはいません。
何故ならそこには動的な生き物としての人間の無意識・感性・感情への理解が抜け落ちているからです。人間は科学や合理主義で全て解決できるものではないです。
宗教や文化的な摩擦だけが悲劇を生みだしましたか?近代合理主義や科学が作り出した破壊性や無慈悲さだって同じかそれ以上にあるでしょう。
とはいえ、学者・専門家は現代社会の技術面においては必要な存在であり、その他の様々な方面で役にも立っています。
また、若者は基本的に感性体験が心理的学習に有効に作用し、年長者ほど体験学習よりも理論的分析・学習が有効である、という大まかな差異もありますが、
心・精神の病で苦しむ人の中には理系タイプもいれば文系タイプもいるし、思考や理性が優位、感性や本能が優位の人など様々で、
感性の働きに偏り過ぎて、そこから引き起こされている心身の不調和もあれば、逆に理性があまりに強くて本能を抑え過ぎ、思考に偏り過ぎて引き起こされている、精神の不調和もあり、
そして男性・女性の差異もあれば、年齢や教育レベル、家庭環境の差異、文化の差異などによっても様々に違います。
だからその人のタイプ・状態によって、必要とされる対処が異なるんですね。だからどちらも必要、そして多様なアプローチが必要です。
たとえば私自身の心の回復の過程にしたって、科学者や心理学者や精神科医の専門的な言語よりも、むしろそれ以外の人々との交流や、大自然との感性での触れ合いなくしては全く語れません。
心・精神を科学的に分析しつつも、「非合理的なもの」や「霊的なもの」「抽象的な形而上の概念」などを全否定していない理由は、
ただ単にそれが文化だからとか、歴史的なものだからとかそれだけではなく、自身の実体験による効果を確認してきたからです。
実際、文化に多様性と豊かさの幅が全くなく、徹底した合理性のみの日常ならば、おそらく多くの人々は味気ない日常に完全に窒息してしまうでしょう。もちろん科学には科学の面白さがあり、それもよくわかるんですけどね。
ですが完全なる科学合理主義の世界を理想としているような人は、そんな世界でも窒息しない感性の非常に乏しい特殊なタイプの人なんでしょうが、ある意味それは科学原理主義とも言えるような狂気性に繋がりかねません。
ホーキング博士が「一番の神秘は女性」だと語りましたが、そういう感性的な表現にむしろ彼の物事の捉え方が現れていると感じます。博士は「自身に足りないもの」「わからないもの」を否定せずに逆に肯定している、そこが私は好きなんですね。
「非合理的なもの、抽象的なもの、理性的ではないもの」などをやたら否定する科学者とか専門家も「一部」いますが、どれだけその人が理論上正しくても、そういう姿勢及び言語は心に響かない。
科学も感性的なアプローチもどちらも大事です、そしてその役割や、それが有効に機能する領域が違うだけなんです。だからバランスが大切なんですね。
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