型・形にとらわれることで見失うもの   発達障害のピアニスト・画家  

 

台風が接近していますね、四国・関西は雨・風が大変なことになりそうな感じです。特に最近は世界各地で「水の災害」が増えているので、十分な注意が必要ですね。

 

前回予定していたテーマの記事は仕上げるのにまとまった時間がかかるので週末に変更し、今日は中継ぎで、固い記事はちょっと一休みし、

「歌・旋律の癒し」「癒しの休憩タイム」のカテゴリー記事の更新です。後「管理人から読者様へ」の記事も追加しています。

 

ではまず発達障害のピアニストの紹介で、「野田あすか」さんの動画を以下に二つ続けて紹介します。

 

 

 

「野田あすか」さんの歌・ピアノはとても柔らかい音、優しい旋律の流れ、そして身体の深いところにスーッと入ってくる澄んだ美しさを感じます。

どういう「形」をしているかではなく、ただ心に伝わってくる「意味そのもの」の本質が、彼女の表現する音と声の中に生きて躍動しているんですね。

 

こんなにも情動とその昇華された感情が、彼女の身体の中で躍動しているんです。

 

ですが、「スピード」と「均一化した適正」が要求される多様性の少ない社会の中で、「ありのままであること」が過度に否定される存在達が一定数います。

 

そして「上手く表現できなかっただけ」で、その「形」だけで全てを判断されてしまう状況に苦しむわけですが、伝えること、感じることの本質的な力は「形」にあるのではなく、「無意識を振動させること」なんですね。

 

それを上手く表現出来ず、創造昇華が出来ない時、それは痛みとなり、やがて傷となり、負の表現へと変質していくでしょう。

 

子供の頃はまだほんのちょっとの出発点の差だったり、兆しだったりするものが理解されずに見過ごされた時、その「ちょっとしたもの」が、やがて「誰にも理解できない何か」「負の発達」へと向かうことが起きたりするわけです。

 

逆にその「ちょっとしたもの」が理解され、創造的に昇華されていくのであれば、素晴らしい可能性にさえもなります。

 

それが良いものであれ悪いものであれ、殆ど場合、始まりは「ちょっとしたもの」なんですね。

 

「手紙〜小さいころの私へ〜」より引用抜粋

広汎性発達障害、解離性障害が原因で、いじめ、転校、退学、そして自傷、パニック、右下肢不自由、左耳感音難聴などで入退院を繰り返してきたピアニスト。

4歳の頃より音楽教室に通い始め、ピアニストの道を志すようになるが、子どもの頃より人とのコミュニケーションがうまくとれず、それがストレスとなり、たびたび特異な行動をとる。

そんなときも、大好きなピアノがあすかの心の支えになる。22歳になるまで「発達障害」とわからなかったため、家族や周囲の人は困り、悩まされたが、あすか本人も「どうして、まわ
りの人とうまくいかないの?」と悩みつづけてきた。

恩師となる田中幸子先生と出会い、自分の心をピアノで表現することができるようになる。2015年5月、両親とともにその頃の気持ちをつづった初の著書を上梓。

同時に発達障害の人の気持ちを歌った自作曲「手紙〜小さいころの私へ〜」「生きるためのメロディ」を発表し、付属CDに収録した。たくさんの試練をのりこえてきたことで、あすかの奏でる「やさしいピアノ」は多くの人の感動をよんでいる。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「手紙〜小さいころの私へ〜」

 

 

 

よく突出した才能をもつごく一部の障害者をメディアなどで紹介すると、99パーセント以上はそんな人いないし、そんなふうにはなれない、無理な夢に過ぎない、的なリアクションが起きます。

 

ですが、私は、そもそも音楽や絵を描くことに楽しさや癒しを感じられるのであれば、社会的な成功とかそういう大げさなことじゃなくて趣味のままでもいいんじゃないか?と思いますね。

 

天才でなければ意味・価値がないのか?プロになれなければ絵や音楽をする意味、資格がないのか?と不思議に思うわけです。

 

大きな結果が出ない、リターンがないならやっても意味ないではなくて、好きだから描く、歌う、演奏する、作曲する、それ自体に既に意味・価値がある、と私は思います。

 

障害のない一般の方だって、99,9パーセントはトップアスリートにも大スターにもなれません。東大に入るよりも遥かに狭き門です。

 

子供の頃は何か大きな夢を目指している人も、結局その多くは会社員になるわけです。ただ理想と現実は大きく乖離していても、極一部の人の突出したパフォーマンスに感動しながら一生の趣味として楽しんだり、

違う形ではあっても夢だった仕事に関係する仕事に就いたり、ちょっとした挑戦をしたりして、それがそれなりに生きがいにもなったりするでしょう。

 

そして天才・非凡じゃなくても「特性を生かす」ということは条件次第でそれなりに可能です。またそうやって楽しみながら活動範囲を広げていると、ひょんなことから成功やチャンスに繋がっていくこともたまにあったりするわけですね。

 

やる前から「才能ないからしない、やっても役に立たない」で判断するのではなく、「好きかどうか?」で楽に考えたらいいと思います。

 

発達障害は「個性」なのか?に対する、僕なりの答え。凸凹でも生きていくために必要なこと

〇 「障害は個性なのか?」その議論にはなんの意味がある?

 

発達障害の天才少年である濱口瑛士 さん、彼もまた小学校でいじめに合い不登校になったそうです。(現時点でまだ中学生。)そんな彼を救ったものは「絵」でした。

言語IQが133あり天才的な絵の才能を持つ彼は、東京大学異才発掘プロジェクトROCKET の第1期生です。

 

彼のように児童期に「発達障害」だと診断されているにも関わらず、「人と同じことが出来ない」ことを責められるのです。

 

野田あすかさんの場合は「原因がわからない」ことが自身と周囲の混乱や苦悩を高めました。ですが、濱口瑛士 さんのように「原因がわかっていても周囲の理解が追い付いていない」という場合も、スティグマによる次障害を引き起こすことがあるわけですね。

 

 

 

 

私自身は日常において行動主義心理学的・行動分析学的・認知科学的にあまりヒトの言葉や動作を見ないんですね。私は人間性心理学のアプローチに近いタイプなので。

 

何故かというと、細かく見ようとしなくても、勝手にいろんなものが見えてくる(感じとる)タイプなので、分析は殆どいらないわけですね。

なので私自身の日常での場合、「分析」は、何かそうする意味があってさらにシッカリと見ようとする場合の補足的なものに過ぎません。

私は人を、人間というものを理解したいとは思いますが、人から深く理解されたいとは今は殆ど思わないんです。私は私自身を理解出来て心身が調和しているならば本来それでよく、

人と共に生きることにおいて「過剰な思考分析」は私にとってむしろ邪魔くさいだけです。

 

他の人間関係も同じで、どれだけ人それぞれ「個性・特性・状態」に違いがあってもそれで全体がそれなりに調和して上手くいってるのであればそれでいいんですね。

 

むしろ多様性ある「個性・特性・状態」を社会の要請で「均一の規格・定義」に無理に合わせようとすることで強引に「調和・秩序化」させようとするから、逆に色々なヒズミが生まれ、

その結果「本来は本質的に問題なかった心」あるいは「同じ基準での適応は無理である状態」が、負の作用でより問題が深刻化していく、という弊害の方が大きいと感じますね。

 

なので私が扱うテーマは、何かの「後天的な」外側から加えられる負の作用によるバランス異常、機能不全、歪みの分析・検証が中心・基軸となるものであり、「後天的な作用」が生じさせている「生きづらさ」にスポットを当てているわけですね。

 

 

型・形にとらわれることで見失うもの

 

型や外見・態度・姿勢から見える心・精神の状態、というものも確かにありますが、それにとらわれることで見失うものも同時にあるわけです。

 

無学の人々の中にも素晴らしい人が沢山存在し、博識の人々の中にも何も本質は理解していない人も沢山いるんですね。

一見感情的で理性的でない人の中にも、理性的で落ち着いた人よりも遥かに心が豊かで能力が高い人が沢山います。

一見非論理的で素朴で無邪気な人の中にも、論理的で洗練された人よりも高い創造性や理解力を宿していることがあります。

 

そして「大人」という均一化した態度の世間的な枠組・基準での印象で選別されることで見失われることも多いですね。

 

型が洗練されていることと、心が洗練されていることも必ずしも同じではないですが、型が与える印象は非常に強く、特に日本は型が大事にされる「守」の文化です。

型が普通と異なるだけで、心も普通ではない、劣っている、というような単純評価をつけやすいですね。

 

ではラストに、青葉市子さんの「ひかりのふるさと」と紹介し記事の終わりとします。

 

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