坂本龍一と「桜の散るとき」

ここ数年で、私が子供の頃からよく知っている著名人が次々と亡くなり、時の流れと時代が変わっていく姿を感じます。

ただ不思議なことに、よく見聞きした著名人でもその死を身近に感じる人は意外に少ない。驚いたのは坂本龍一さんの死だった。何が驚いたのかといえば、予期していなかった身体に起きた反応。

坂本龍一さんは私よりもかなり上の世代の人だし、もちろん会ったことも話したこともない。「神宮外苑の再開発、見直すべき」には私も賛同だったが、それ以外の政治的発言や社会運動には「ん?」と思うこともよくあった。(芸術家の人に多い傾向だが)

しかし彼の身体から生まれる音楽は好きだった。つい最近も坂本龍一さんのピアノを久しぶりに聴いたばかりだったが、やはりとても味わいのある音だった。

坂本龍一さんの死は、身体に明確な反応を生じさせた。ここ最近の著名人の死はもっと身体から遠く感じたが、彼の死に何か全く異なるものが生じた。

それは私が彼の死の直前に彼の音に触れていたからだろう。ただそれだけではなく、彼の音が私の深い部分にゆらぎを引き起こしていたからだろう。その詩の生命力が私の身体に予期せぬ何かを生じさせた。

音の一粒一粒が生命力を持ち、粒子のように揺らいでいる。一切の言葉のない詩がそこにあった。桜が散るこの季節に、その音は私の身体にゆらぎを残し、そして彼の存在は散っていった。まるで音だけの遺言のように 身体の別れを感じた。

もうこの世にいない人なのに、そして会ったことも話したこともないのに、坂本龍一さんが目の前に現れた。しかしまるでずっと前から知っている人のように現れた。

さようならをした直後に一番近くに生きているように感じる。過去の偉大な作曲家たちは私が生まれる前にみな死んでいるけれど、その旋律に触れていると今も生きているように感じるように、かれもまた詩そのもののような人なのだろう。

 

 

ico05-005 桜の散るとき

時代が明るい方向に向かっているようには感じないこの頃 また桜が散る季節が訪れた

花のように咲くヒトも 桜が散るように死んでいくヒトも ますます少なくなくなった  それでも自然界は 社会など無関係に何食わぬ姿で生と死が循環していく

古きものは枯れて 新しいものが芽吹いていく まるで抵抗なく生と死が常に重なり合う陰陽の世界 

人間には耐えられない自然界のダイナミズムの中で 当然のようにそれを生きる存在たち それが生じていることのあまりの深淵さに立ち尽くす

人間は生からはじかれた存在のようだ  全ては無常 いっときの夢 そんなことを思うこと自体が 夢からも無常さからもはじかれているように

「私」も「他者」もはかない存在 にも拘わらず なぜこれほどにまで強く揺らぐのだろう? 何も知らないままそれ自体を生きる存在たちのいとしさ その詩に触れているからなのだろう

桜が散っていくなかで パッヘルベルのカノンの旋律に触れる その束の間 再び生に引き戻される  そして ただ生き ただ散っていくことの深遠さに立ち尽くす

 

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