今回は先に結論から書きますね。差別・同調圧力の「元」を見つめていくと、それは本質的に精神そのものを根本から変えない限りなくならないものなので、まず人間という生き物の構造上ほぼ無理・不可能と言ってもいいくらいなことなのですが、
その性質を、「もはや本能的なものだ」として逆に認め開き直ったところからスタートするなら、人間がそうある姿の否定的な方向性への強化ではなくて、
「否定的な心の力学を創造的に昇華し、活力が抑圧されずに調和する」ことで、活力が分断・分裂して抑圧的な対立構造にならない形に持っていくことは可能であり、その方がずっと人間の全体性として無理は少ないでしょう。
これは「善」や「偽善」の境目って何?という疑問にしてもそうだし、そして「悪と善」というものを認識・決定する場合にも同じ事が言えます。
平等・公平・公正の違い
まず簡単に「平等」と「公平」と「公正」の違いを整理しますが、その前に、「平等」には複数の概念があります。絶対的平等、相対的平等、形式的平等、実質的平等などです。
本来の平等の意味は絶対的平等、形式的平等なのですが、全てにおいてそれだけだと様々な「差」が考慮されずに不公平になるため、相対的平等、実質的平等の概念が用いられるわけですね。
例えばよく聞く「平等」の概念に「機会平等」と「結果平等」がありますが、「機会平等」はスタートの平等であり競争条件の平等を目指すもの、「結果平等」はゴールの平等、均等な所得の再分配を目指すもの、といえますが、
大雑把にいえば、資本主義は「機会平等」はあるが格差(結果の不平等)があり、共産主義は「結果平等」はあるが、個々の意欲や能力などの差異が反映されないため「公平」でない、わけですね。そしてこの「公平」が「相対的平等」に該当します。
例えば、ある会社で毎日8時間働いて月給が1万円だったら、労働条件として「公正」ではありません。
ですが仮に2人以上の人間がその会社で同じ時間働いて同じノルマをこなし、みなが月給1万円だったら公正ではないですが「平等」です。そして同じ条件でひとりが1万円で一人が10万円だったら「不平等」です。
そしてその会社で2倍の時間働いた人、あるいは2倍のノルマをこなした人が月給2万円の場合、「平等」ではないが「公平」です。これはプラトンの言うところの「比例的平等」であり、相対的平等です。
「平等」はみなが同じで均一な配分であるのに対し、「公平」は個々の差異を考慮した上での比例的分配、アリストテレスに由来する配分的正義ですね。
以下↓の図は、「平等」の問題、そして資本主義の格差の現実を上手く表現した図としてよく知られています。
ただしこの図の「公平」は弱者への配慮としての公平さであって、「実質的平等」であり、能力への対価としての公平さ・比例的平等とは異なり、「近代の分配的正義(ロールズの意味での)」とアリストテレスのそれは全く異なります。
図の左からequality:平等、equity:公平 reality: 現実 iberation: 解放です。
参考PDF ⇒ サミュエル・フライシャッカー(中井大介 訳)『分配的正義の歴史』
追加更新(2019/8)で、もうひとつ関連する記事を紹介です。
【平等は不調和を生む】個人の能力や財力に差がある場合、平等なシステムを導入すると社会の協力性が減じるそうです。しかし、その差に見合わない不均等な報酬制を導入するとさらに事態は悪化するそうです。今月の『ネイチャー』誌より→https://t.co/zOCgiTbvGQ
— 池谷裕二 (@yuji_ikegaya) August 29, 2019
関連記事 ➡ 公平と平等
「悪」とは?
法の下の「平等」、「公正」な裁判などとよくいいますが、正義にも実体的正義、手続き的正義などがあり、それぞれの平等さ、公正さ、公平さがあります。
そしてそももそも「悪」とは何でしょうか?「悪」は人間から生まれる「ある心の働き・言動・行為」を、人間の思考(価値判断)によって定義することで決定されます。
その基準や、決定の際に働く複合的な心理、背景にある構造的な力学が変われば、定義は変化します。つまり絶対的なものではなくて、主観と客観が入り混じった相対的なものです。
「いや、その基準を絶対化すればそれは絶対になるのでは?」という見方も出来ます。まぁそれを制度化したものが「法律」というものなので、確かにそうとも言えますが、
「法律」というものも人間の思考によって認識されることで定義・決定されたものである以上、本質的には「相対的な暫定的取り決め」に過ぎません。
ですが、「法律」にはある種普遍的な自我の欲求・願望などが投影されてもいるので、その意味では絶対に近いものとはいえるでしょう。
ではここで、 まず参考に以下の記事を引用します。
「BLOGOS」 より引用抜粋
「日本型「カースト制」に苦しむ女子大生」
(前略)
こうした日本的「カースト制」の特徴は、肌の色や成績などによって、明確な基準があるわけではなく、よくわからない内に身分制度のようなものが、漠然とした形でしか出現しないことにあると考えます。そして、はっきりした形でなく、こうしたよくわからないもやもやした形でしか出現しないのは、日本独特の同調意識とでもいうべき、変な平等主義が蔓延している結果ではないかとも考えています。
(中略)
日本の場合、皆「同じ日本人」なのだから、他人と同じであるべきという意識が強く働いており、露骨な形ではの差別は行えないのではないでしょうか。かといって「差別」が存在しないのかと言えばそんなことはなく、「同調意識」を重んずべきというものが最初にあるため、山本七平がいうところの「空気」が形成され、それにうまく乗れるものと乗れな
いもので、差が生じることとなります
(中略)
結果、「同調意識」が強すぎるが故に、全くこうした「空気」に同調しようとしないものを排除するという形で「いじめ」が行われる(カーストの最底辺が発生する)のではないかとも考えています
(中略)
皆同じであろうとする以上、わずかな差異で、差別をし、「カースト制」を作りあがていくしかないのが、日本の現状かと思います。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ 日本型「カースト制」に苦しむ女子大生
社会悪をなくせば悪はなくなるか?というと、心理学的には「悪」はなくなりません。何故かと言うと、「悪」を決めるのは人間の価値基準であり、悪は「それ自体で存在する客観的実在」ではないからです。
もし悪が、「それ自体で存在する客観的実在」ならば、物理的になくしてしまうことは可能だったでしょう。
ですが善悪の価値基準が存在し続ける以上、仮に今まで悪と認定されていたものがなくなっても、次は「今までは悪でも何でもなかったもの」が新たに「悪」として価値判断されていくだけです。
これはイジメや暴力性がなくならない理由とも関係しています。
つまり人間は必ず対象を相対化し価値判断し優劣をつけため、対象は良し悪しで区分けされレッテルが張られるのです。
だから現在「悪人」と定義された人々がいなくなったら悪はなくなるのか?というとなくならないのです。今までは悪人ではなかった人が新たに悪人化されていくだけです。
何故、万人平等や公平というものが悪平等・同調圧力に変質していくのか?という問いかけも同様に、そのために宗教や思想を徹底的に淘汰して個を観念的な偏りから切り離しても、今度はより細分化された集団や「個人」のレベルでの分裂に変化するだけです。
万人平等や公平の理想を達成するのは、まず生物学的な個体差・家庭環境・生活環境そして精神構造まで全ての条件を同等にしなければ、必ず相対的な差異の矛盾及びそれに伴う不満が出てきます。
この極自然なことが理解されないまま、無理やり「万人平等の理想」を人間に押し付けた結果、結局それは全体主義へ向かうことでしか集団の分裂をまとめられなくなっていくのです。
生物学的な個体差・家庭環境・生活環境そして精神構造まで全ての条件を同等になんて出来るでしょうか? もちろんこれは不可能なことでしょう。
だから全体主義という極端な社会に今更ならないとしても、悪平等の観念を押し付けられた社会は、「同調圧力」が強化された「息苦しい首の絞め合い型の社会」に変質していくのです。
平等はあり得ないなら「身分・階級制」は?
インドにもパキスタンにもカースト(身分制度)がありました。そして男女の身分や振る舞いなどに大きな社会的・因習的な区分けと制限が存在しています。さらに生まれついての社会的身分にも大きな区分けが存在します。
私はフェミニストではありませんし女性蔑視でもありませんが、「平等はあり得ないなら、身分制度というハッキリした社会的区分けをする方が社会はもっとまとまる」という考え方もどうかな?と疑問に思います。
ここで三つの記事と一つの引用記事を続けて紹介しますが、社会が人間を一方的に貴賎で区分けすることで、ここまでホラー的な残酷行為が多発する異常社会にもなり得るのです。
人間にとっての善悪というものが、いかに絶対的なものではなくて相対的なもので決まっているかわかるでしょう。
被害女性を木につるす インドで残忍レイプ殺人相次ぐ・・・
⇒ http://blog.goo.ne.jp/alcoholismgoo/e/4008a663a8a155d34fae876fb81d7159
インド レイプだけでない!女性の顔に酸をかける事件が多発
⇒ http://blog.goo.ne.jp/alcoholismgoo/e/78779cc0d74cd6695b684b9003033d9d
「思想館」より引用抜粋
「女性差別報道のパラドックス:インドレイプや女性監督などを例に」
まず、最初に、インド女性へのレイプ報道。この件でインドで抗議運動が起こっているが、インドの実態を考えると強烈な欺瞞が隠されている。
まず、インドで抗議が起こったのは、被害者が不可触民(アンタッチャブル、ダリット)ではなかったからだ。不可触民が被害者であれば、警察も全く動かない。
首相が女子学生の遺体を手厚く迎えたり、国民会議派の総裁、州政府の内相などが出迎えたりするところに、不可触民への対応とは正反対の姿勢がうかがえる。
中産階級の女性が自らがレイプされる恐怖に慄いて、「インドの女性への」女性差別をやめろなどと言っている。
インドの女性へのレイプをそんなに問題にするのならば、今まで延々と不可触民の女性が強姦殺人されてきたことを全く無視してきた支配カーストの姿勢は、一体全体、何だというのか。
それを言うと、上位カーストの女性が不可触民に徹底的に醜悪な差別を延々と繰り返してきたことへの痛烈な反省をしないといけないから、隠蔽してきた。
上位カーストの女性が「インドの女性への」差別を考えてきたなど、全くのデタラメだ。 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
心・精神の病と健康は、社会とどう関係があるのか?
結果として、個人より全体を重視しすぎればそれは全体主義の腐敗構造に向かい、個人主義を重視しすぎれば、今度は全体が上手く機能しなくなる、という腐敗構造に向かい、どっちに偏っても上手くいきません。
万人平等に傾きすぎれば、今度は悪平等が過剰な社会的同調圧力を生むことで社会は窒息し、個人主義ばかりに傾けば、今度は格差の拡大と不満・欠乏と空虚さ増大によって、人間はどんどんバラバラになります。
つまりある観念を絶対としてあまりに偏り一体化してしまうと、それは個であれ家族であれ社会であれバランスを欠いたものになり、バランスを失ったことによる負の要素をどんどん蓄積してしまうのです。
心・精神の病と健康というと一見個人的なものに思えますが、それは家族や身近な人や職場そして社会にも投影されることなのですから、
やはり「自己統合」というものをもっと重視した社会になっていくことが大切だと私は思います。ですがこれは、社会・特定の組織・コミュニティーなどに強迫観念的に過剰適応させられた「硬直した自己統合」ではなく、
個人の内的な調和・バランスが保たれた自己統合の状態の意味であり、そうであるなら個人が重視されたとしても個人主義的な弊害は起きません。
何故かと言うと、個人主義的な弊害というのは「不調和の状態のまま、部分が肥大化した個人」の総和が作り出す全体性としての社会の不調和であり、この場合は個の働きが全体を分離・分裂させる性質があるのに対して、
「調和的な自己統合」による個人の総和は、社会全体に調和を投影するため、個人主義的でありつつそれぞれが役割を果たし、そしてその働きは全体に対して調和的に還元されるからです。
社会の発展と個人としての生の充実というミクロとマクロの調和には、「肥大・依存・犠牲」というものをメインに発展してきた不調和の個人主義や社会システムでもなく、
逆にそれを権力で抑え込んだり、イデオロギーの力で力ずくで方向づけて統制する権力主義や全体主義でもなく、個の「内的な調和による自己統合」がもっと重視され、それが社会の構造とシステムに反映されたものになっていくことでしか解決は出来ないものでしょう。
◇ 自己統合に関する更新記事
○ 心の軸がブレやすい人 自己統合と「知・情・意」・科学の役割
ゆとり教育は「個」を重視しましたが、その長所は「強迫観念的で画一化した自己統合は強制しない」、でもその短所は「内的な調和による統合がないまま単に個を肥大させてしまったこと」、
その結果、「社会的な自己」というペルソナを身につけて社会人になる初期の過程にスムーズに移行でき者を量産しました。
「無目的な自己肥大」は、社会という「制限・制約の多い枠組み」に適応する社会化の過程で、違和感と自我の縮小感を味わうため、上手くそれを身につける事が出来ず、
そしてその自我のバランス異常が心身に強く病的に投影されたものが「新型うつ」「適応障害」になる力学のひとつともいえるでしょう。(※ もちろん原因はこれだけではありませんし、この非適応的状態には先天的な障害特性を持つ者等は含みません。)
個の心の問題、そして社会の問題というのは多くの場合、相互にリンクしてることって意外に多いですね。だからやっぱり「価値観」の根本的な転換というのが、人と社会の問題解決にもっと必要になってくると思います。
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