カールロジャースという有名な臨床心理学者が過去に存在しました。彼は現在ではカウンセラーのひとつのベースにもなっている精神療法の創設者です。カールロジャースの大まかな概要 ⇒ カールロジャース
現在の日本的カウンセラーは、カールロジャースの「患者と共にある」という基本のスタンスが中心になっていますが、
彼が重要と考えた「変性意識の力」というもう一つの特質が完全に抜け落ちています。そして「変性意識の力」を抜きにした「癒し」は本当のパワーを持ちません。
カールロジャースの精神療法の重要な要素が編集された日本式カウンセラーによって、彼の精神療法の効果や限界を問うことはできないんですね。
もちろん日本式カウンセラーが意味がないとか、そういう極論をいうつもりは一切ありません。あくまでも「変性意識と癒し」の関係で見た場合の「作用の違い」の話です、
合理的で科学的な対処も必要なことで、様々なケースに適切に対応できるプロとしての知識や技術も当然必要な要素でしょう。ですがそれだけが認められるものとか、それだけが常に正しく全ての人にも最も適切に効果的に作用するというわけではない、ということです。
変性意識がそこにあるかないかでは、「癒し」は全く質が異なるものになることを、彼自身が体感し語っていることなんですね。これは私自身も体験的にそうだと感じてきたことです。
変性意識の力が「癒し」となるか「病い」となるかの境界
では前置きはこのくらいにして、今回は「変性意識の力が癒しや救いとなるか病いとなるか」、その危険性と有用性を分けるものは何か?をテーマに書いてみました。
変性意識は トランス状態とも呼ばれますが、シャーマンの憑依現象などもその一種です。そして宗教開祖や修行者と呼ばれる者達の中には強力な変性意識・トランス状態を経験する者がいて、その状態における宗教的儀礼などは集団に深い癒しをもたらすのです。
これは強力な癒し効果があり、そしてトランス状態は宗教だけではありません。日本文化の「祭り」などもある種の軽い変性意識・ トランス状態を引き起こすものであり、柳田民俗学で言うところのハレ(非日常)とケ(日常)の概念もこれに当てはまります。
「古来からある儀式や伝統」は一見すると不可解で非合理的に見えて、実は深い智慧がある場合があるんですね。この辺りが科学ではわからない感性の部分なんですね。
関連外部サイト記事の紹介(2016/11 追加更新)
ハレ(非日常)とケ(日常)を行き来することによって、人は精神のバランスを保っている場合が多々あり、理屈に合わない事や非科学的なこと、無秩序やカオスに思える「不可解さ」の中にも深い意味やパワーがある場合がよくあるのです。
インディアンや世界の土着の祭りにも必ずこのハレ(非日常)とケ(日常)を行き来する不可解で意味不明な踊りや祭りが存在しますが、
現代社会で例えればリオのカーニバルやワールドカップでの変性意識・トランス状態では、普通の人でもかなりの変性意識を経験する事があります。死者やケガ人も出ますね。 ですがあの狂気性が人間の生命の原動力の一つでもあるのです。
だから非科学的・非理性的・非論理的な言動という理由だけで、ガリレオ湯川教授の科学的スタンスのように、やみくもに否定することは出来ず、ましてジンマシンが出るほど嫌悪するようなものではないです。
「ワールドカップには魔物が住む」と言われますが、その魔物の正体は、変性意識なんですね。人を熱狂させ虜にし、理屈では割り切れない現象を引き起こすわけです。
カールロジャースは著作の中でこう述べています、
「私は関係の中で奇妙かつ衝動的に仕方で振舞ってよいのです。それは、合理的に正当化することのできない仕方、私の思考過程とは何の関係もない仕方で。
しかしこの奇妙な振る舞いは、後になって正しいということが不可思議な風に判明します。それらの瞬間には、私の内なる魂(inner sprit)が手を伸ばして他者の内なる魂に触れたように思われるのです。
私達の関係はそれ自体を超えて、何かより大きなものの一部になります。深い成長と癒しとエネルギーとがそこにあるのです」
まさにカールロジャースはシャーマン式の精神治療を行っていたのであり、それは祭りの非合理性でありハレの状態なんです。
変性意識が病いや「危険なもの」となる時というのは、「ハレ(非日常)とケ(日常)を行き来する」のではなく定常的にハレ(非日常)状態のままにあろうとしたり、 変性意識を特別視して過剰にそれにハマる時に生じるのです。
ハレ(非日常)とケ(日常)は夜と昼、あるいは陰と陽のように、それぞれが対をなす相互依存的なものとして存在し、「循環するもの」であり、そうすることで全体バランスが保たれるものなんですね。
また神秘主義系のカルト的思考のように、変性意識で起きてくるものに特別な意味付けと過剰な価値を与え、通常の現実意識の人を「意識レベルの低い者達」とか「獣・闇・悪魔」などと侮蔑的に差別化することで、変性意識状態を慢性化させ、
そしてその状態で「妄想的世界観」などを植え付けていくとどうなるかというと、これは通常の現実の意識状態での観念の植え付けよりも遥かに強力な共鳴作用を引き起こし、「妄想的世界観」が変性意識内部で強力に仮想現実化されるのです。
だから危険なマインドコントロールの道具にもなってしまうわけですね。ですが変性意識状態そのものは悪いものではなく、ようはその使い方なのです。
では、「ハレ(非日常)とケ(日常)を行き来する」のではなく、定常的にケ(日常)だけになっている人はどうなるのでしょうか?つまり変性意識に全く入らずに冷めきっている状態です。
実はこの状態にも問題があるのです。まず心身が閉塞感にとらわれてきて、意識が硬直化してきますね。 そして心の病は心身の硬直化や閉塞感とも密接に関わっている場合が多いですから、ハレ(非日常)が少な過ぎるガチガチの日常ばかりでも、また別のバランス異常がおきてくるわけです。
カウンセラーもピンキリ
カウンセラーもピンキリです。誰でも短期間で取得できるような「民間のカウンセラー資格」で営業している人たちもいますし、大学で臨床心理士の資格を取得する方もいますし、資格など取らずに営業する方もいます。
ですが「大学で心理学を学んだ人」だから良いとは限りません、「こんな人に金払ってまで色々話したくないなぁ」と感じるような嫌な感じの人、全く合わない、違和感を感じる人っていうのはネットでもリアルでも存在しますし、技術や能力にしてもピンキリなんですね。
ただ、仕事能力・技術力と人柄は必ずしも一致しないし、「嫌な人でも仕事は出来る」、「人柄は良いけど仕事は出来ない」、「嫌な人で仕事も出来ない」、「人柄も良く仕事も出来る」、などいろいろパターンがありますが、
「嫌な人・やや非常識=悪人」とは限りません。感じが悪く、やや非常識で人柄は決して良いとはいえない感じでも、「悪人」ではない、という人はよくいます。
また私のようなタイプは「周囲から嫌な人・やや非常識と思われている人」の中に「意外にいい人だな」と感じたりすることが結構あります。
逆に「あの人は人柄がよい」とか「私はまともで普通な人間」と自分でそう思っている人が本当にそうか?というと「私はそう感じない」場合もよくあります。
私の感性ではそういう人の方が「生真面目だけど無自覚な嫌な部分もよく見えてタチが悪い」と感じることがあります。
とはいえ、「無資格の自称カウンセラー」の中には詐欺師と変わらない高額な金銭を要求する悪質な人達も一部存在しますし、医師や他の専門家との連携もありません。
そういう意味では臨床心理士や公認心理師のような試験と教育期間を経て取得する公的な資格は、プロとしての現実面での信頼度は相対的には高いとはいえるわけですが、有資格者=良し というほど単純なものではありません。
そして、短期間で取得できる民間のカウンセラー=ダメ、ということでもありませんが、シッカリしたシステムもないままいろんな人が混じっている状況ではピンキリ度はより高くなるのは当然でしょう。
カウンセラーに行けば適切に対応されるとは限りません、むしろ「相手次第では悪化することもある」ということは知っておいた方がいいでしょう。
そして人間誰しも「相性」があります。決して人間的に悪い専門家でなくても技術・経験はあっても「合わない」ことはありえます。
なので最初から盲信せずに、自分に「合う人」でかつ「良い専門家」を見つけることが出来ればそれがいいですね。
関連外部サイト記事、本の紹介
今回のテーマに関連するおすすめ本として、臨床心理学者の小沢 牧子さんの著書「心の専門家」はいらないを紹介しておきますね。
2018/4 追加更新 ー 以下、外部サイト記事の紹介
モンスター心理カウンセラー事例集、心の問題がむしろ悪化!?
医療機関などでカウンセリングを受ける人も多い昨今。心理カウンセラーは私たちにとって身近な存在になりつつある。しかし中には残念なカウンセラーがいるのも事実。20~40代男女が、「ひどい」「傷ついた」「二度と行きたくない」と感じた、モンスター心理カウンセラーの事例を集めた。(取材・文/フリー編集者・ライター 池田園子)
「大学で心理学を学んだ人」でも学問以前に人間が全くできていないような傲慢な輩も一部見受けられます。
また人間性は悪くなくても、個々の人間の心・精神の状態というものは多様で、複合的な力学の中で形成されているので、クライアントの様々なケースに対しての判断力・理解力や対応力に個人差が出るのは当然です。
後、ルックスを売りにしているタイプも最悪ですね、自身の顔写真をデカデカと載せて「僕を見て!私を見て!」みたいな自己顕示欲の塊で、自分を優位に置きたい、目立ちたい、「自分が一番の人」とかですね。
そういうのは心の病をもった孤独な異性の一部を「性的」に引き寄せて「その人たちの間だけ」では人気を獲得するんでしょうが、そんなものファンから金とってるカリスマ気取りの自己満足営業でしかないでしょう。
「カウンセラーなんて誰だって出来るものじゃないか?」とか、「高額なお金取ってやってることはそれだけか?」という不信感に繋がっている理由も、この辺りにも原因があるように感じますね。
地味でもちょっと変で癖があっても全然かまわないんです。ルックスとか高学歴とかそういうことじゃなく、シッカリした知識と理解力と経験値を持ち、人に対する誠実さや学ぶことへの謙虚さを持っている人であればちゃんと伝わっていきます。
私はこのブログでいろいろなタイプの方々を「参考として」「考察の角度として」幅広く紹介していますが、私が「分野は違っても尊敬しているタイプ」というのは「真摯で誠実・謙虚に学び続けるプロの人」です。
権威があるとか高学歴とか肩書が凄いとかそういうのはあってもなくてもどっちでもよく、ルックスも良くて悪くてもどっちでもよく、名が売れてなくても社会的評価が特別に優位でなくてもあってもどっちでもいいんですね。
ただどっちにせよ、「目立つことに力を入れ、本人の優越感や闘争心や自己満足のために多方面で活躍したがり、そんな余計なことに手を出し過ぎている学者・専門家」よりも、
「自己主張が満載の押しつけがましい本」ばっかり書いてるような学者・専門家」よりも、
「黙々と現場の問題や課題に集中しジックリと腰を据えてひとつのことを深めて頑張っているあまり表に出てこないような学者・専門家」こそ私たちにとって本当に支えとなる現場のプロの方々なんだと感じますね。
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