心身の発達過程が健全で、調和した自己意識と認識能力を持っている場合、「自己肥大」は認識の拡大という意味では健康的なものです。
どんな人であれその発達過程や環境によって多少の揺らぎはあっても、過度な分離肥大化を生じさせることはそんなに観察されませんし、独裁的な絶対者のような異常な自己肥大化状態になることは通常はまずありません。
これまで「病的な自我肥大」のメカニズムを主に書いてきたのは、先に明確に「健全な自己拡大」と区分けをしておく必要があったからです。
自我の退行化による原始的防衛機制が発動する時というのは、もっと極端な言動が表出化します。認知のズレを自己認識できず、自身の歪んだ認知を現実に投影して同一化し続け、その状態が慢性化する時、それはさらなる人格悪化へと向かいます。
ですが一部例外はあり、これが「無意識的な治療や学びの過程」で起こることがあります。(芸術家タイプ・行者タイプに多い)そして一時期は周りの人に多少迷惑をかけたり奇妙な言動でびっくりさせたりもしますが、
その過程を経て自然に回復し、そしてさらなる認識の深みに向かうケースもあります。ですがこの自然回復の場合は、周囲に良き理解者やキチンとした保護者、あるいは支える人がいた方が良とういうことです。
精神病より軽い「神経症・パーソナリティ障害」の場合では、それをシンプルに言うと、不安や恐怖からの自我防衛のための回避・逃避が、「顕在意識的な対応として上手く合理化及び処理出来ない時」に、心身(無意識)が自我を防衛するために取る緊急処置的な現象とも言えます。
「そうしないと自我が本当に壊れてしまうと感じてそうする」という風にもいえるのです。「本当はそんな危機や不安や恐怖の現実などない」のに、過去のトラウマや何らかの負の記憶から自動的に不安や恐怖が呼びおこされて現象に投影され「無意識の過剰な防衛反応」が生じるのです。この場合が神経症ですね。
※ 人格障害も広義の神経症に含まれるものです。 ※ 個人的無意識からの過剰な投影ではなくて「自然な防衛反応」の場合は、それはむしろ健全な反応です。
心・精神の病というのは多面的な要素があり、それが心身の不調和を表現しているものだからといって、その表現を無思慮に何でもかんでも一方的に抑えつけると、かえって自我のバランスを本当に失う場合があります。
周りから見れば「何かおかしい、異常な感じ」でも、本人はそれを表現することでギリギリのところで自我のバランスを保っていることがあるのです。
その場合はむしろそのまま表現させつつ、無意識を本人が感性的に本当に明瞭に理解できれば、そこから自力で調和(自然な回復)に向かっていくことは可能なわけです。ただこの場合は時間がかかります。
なのでそれが出来ずに、あるいは自然な回復が待てずに余計に悪化する場合は、薬や治療の助けも現実的に必要になってくる場合もあるでしょう。
能力と可能性を探求
以前、人間の知能・能力の4つの基準という記事を書きましたが、今回はそれとはまた異なる知能の種類をテーマにしています。過去記事は以下リンクより。
多重知能理論(MI)
ハーバード大学教授教育大学院教授(認知・教育学)のハワード・ガードナーは認知心理学と脳科学によって知能と脳の関係を探求し多重知能理論(MI)の提唱者です。
ハワード・ガードナーは、ヒトの知性や能力の優劣というのは先天性の固定的な要素だけで決まっているようなものではなく、本来は誰もが持っている潜在能力や知性を豊かに成長させていくための環境こそが子どもには必要であり、その後天的な環境の中で認知の発達段階を経ながら、子供の知性や能力が発現し成長していくものであると考えています。
この考え方は私もとても共感できるものであり、このブログでも違う角度から同じ意味のことを書いてもいます。多重知能( MI)理論では、「人は皆それぞれ一組の多重知能を持っており、知的活動の特定の分野で、これらの才能を大いに伸ばすことができる」と述べています。
多重知能理論では、知能を以下の10種類に分類しています。
この10種類の知能の説明として、以下のPDFからの引用文を参考に紹介します。
「多重知能理論とは?—Theory of Multiple Intelligence (MI) —2010/07/31 担当:佐藤 朝美 東京大学情報学環 助教」 より引用抜粋
1.言語的知能
話し言葉と書き言葉への感受性、言語を学ぶ能力、およびある目標を成就するために言語を用いる能力。最終状態)弁護士、演説家、作家、詩人
2.論理数学的知能
問題を論理的に分析したり、数学的な捜査を実行したり、問題を科学的に究明する能力。最終状態)数学者、論理学者、科学者
3.音楽的知能
音楽パターンの演奏や作曲、鑑賞のスキルを伴う。(ガードナーは、音楽的知能は、構造的には言語的知能とほとんど対応しているので、一方(ふつう言語的)を「知能」と呼んで、他方(ふつう音楽的)を「才能」と呼ぶことは、科学的にも論理的にも意味がない、と考えている。)
4.身体運動的知能
問題を解決したり、何かを作り出すために、からだ全体や身体部位(手や口など)を使う能力を伴う。最終状態)ダンサー、俳優、スポーツ選手 この種の知能は、工芸家や外科医、機材を伴う、科学者、機械工、およびそのほか多くの技術力方面の専門職にも重要。
5.空間的知能
広い空間のパターンを認識して操作する能力(例えば、航海士やパイロットが用いる能力)や、また、もっと限定された範囲のパターンについての能力(彫刻家や外科医、チェス・プレーヤー、グラフィック・アーティスト、建築などに重要な能力)。文化が異なれば空間的知能の使われ方も多岐にわたる。
6.対人的知能
他人のいとや動機付け、欲求を理解して、その結果、他人とうまくやっていく能力。最終状態)外交販売員、教師、臨床医、宗教的指導者、政治的指導者、俳優
7.内省的知能
自分自身を理解する能力。自分自身の欲望や恐怖、能力も含めて、自己の効果的な作業モデルをもち、そのような情報を自分の生活を統制するために効果的に用いる能力。
(中略)8.博物的知能
事例をある集団(より正しくは種)のメンバーだと認識し、ある種のメンバー間を区別し、他の近接の種の存在を認識し、そして、正式、非正式に、いくつかの種間の関係を図示するという能力 最終状態)博物学者
9.霊的知能
宇宙の問題について考えることにたずさわる能力 最終状態)偉大な宗教指導者
10.実存的知能
宇宙の深奥―無限大と無限小―に自らを位置付ける能力であり、それに関連して、人生の意義、死の意味、物理的・心理的な世界の究極の運命、人を愛したり芸術作品に没頭するなどの深遠な経験といった、人間的な条件の実存的特徴との関係に自らを位置付ける能力。
「MI:個性を生かす多重知能の理論」(2001)より
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ 多重知能理論とは?
①言語的知能 ②理論数学的知能 ⑤空間的知能 ⑥博物的知能 などに関してはこれが知能であることは誰でも意味はよくわかると思います。
③音楽的知能 ④身体運動的知能 に関してはこれは知能?感性や感覚的なものではないのか?と感じるかもしれませんが、ハワード・ガードナーは感性や感覚的能力を、知能のひとつの表れとしているんですね。
当ブログでの心理学的アプローチで、科学的分析のアプローチと感性的なアプローチを分けていますが、わたしはどちらも欠かせないものとして考えています。
そして感性でしか捉えられない領域があるとも書いていますが、ガードナーが音楽的・身体運動的な感性・感覚を言語的知能や理論数学的知能に全く劣らない知能的認識の別形態として考え、感性や感覚能力も独自の方法で対象をちゃんと捉えている、という認識はとてもよく理解できます。
また、 ⑦対人的知能 ⑧内省的知能に関しても、これを知能の別形態として考えている点が幅広いですね。実際、IQがいくら高くても、この対人的知能や内省的知能に欠けた人間は上手くいかないことが多いわけです。こういう多角的な能力を知能の別形態として見ていくことは必要でしょう。
そして ⑨霊的知能 ⑩実存的知能に関してはこのブログでのひとつのテーマでもあって、いかに歪みなくこの能力を一つの能力として他の機能と共に統合するか? ということを探求しています。
「完全なる唯物論者」というのは、「知能の全体性」から見れば「否定・拒絶している心」の一形態に過ぎません。それは病的なオカルト信仰心理の対極的な反動的姿勢に過ぎないからです。
霊的知能や実存的知能というものが存在することも感性的によくわかります。なので本来誰にでも備わっているこの能力が阻害されることなくある程度自然に開花しているならば、ヒトは「完全なる唯物論者」にはなりません。
それもまた「偏った状態」なわけですね。ですが霊的知能や実存的知能というものは、先にも書いたように自我肥大などの「病的」なものに歪んでしまうことがあるので、それに過剰に囚われて頭がおかしくなっているよりは、「完全なる唯物論者」の方がずっと安全でマシでしょう。
霊感商法のような詐欺とかカルト系の新興宗教とか「神とか仏とかいいながらやってることは最低」な偽善者とか人格に問題がある人よりも、普通に生きている「完全なる唯物論者・完全なる無神論者」の方がずっと精神的には健全でしょう。
「神や仏を信じていないからダメ、無神論だからダメ」というような短絡的で無思慮な決めつけをするのは、まぁカルト系の教祖とか盲信者くらいしかしないでしょう。
そういう「信念・観念」の種類や属性よりも「実際に何をしているか」、「どのような活動をしているか」、具体的な事実と行動から見えてくるもので個々の人間を判断することの方が大事です。
⇒ 「偽善的信者より無神論者の方がまし」、ローマ法王がミサで言及
ですが自我の病理を超えてそれぞれの存在が豊かな可能性へと向かうには、「様々な形態を持つ知能」の可能性が否定されずアンバランスに偏らず、「全体性として調和した形」で開花することが大切なんですね。
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