野生の好奇心

 

「人間の全盛期(ピーク)」とはいつなのか──この問いは古くから議論されてきました。これまで「心身ともに最も充実し、最大のパフォーマンスを発揮できる年齢」は漠然と20代にある、と見なされることが一般的でした。

しかし、知能、性格、感情的知性(EQ)、意思決定力をはじめとした複数の能力を総合的・科学的に評価する研究で、「能力は複数あり、ピーク年齢はそれぞれ異なる」「むしろ55~60歳ごろの中高年期こそ、人生の総合力としてのピークである」とする見解が報告されています。

➡ https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0160289625000649

なので、中高年を侮るなということです(笑)

 

数学は、もともとコミュニケーションのある社会がなければ生まれません。人間は数百人規模の集団を作り、密度の高い社会を築いてきました。だからこそ、誰かが発明するとすぐに他の人が真似できる。もし人が遠く離れて暮らしていたら、発明は伝わらずに消えてしまったでしょう。

人間は「真似する能力」に非常に優れています。チンパンジーや他の猿は意外と真似ができない。子どもが親の真似をすることはあっても、大人同士が真似をすることはほとんどない。天才的な猿が何かを発明しても、隣の猿がすぐに真似することはないんです。でも人間はやってしまう。  津田一郎(札幌市立大学AITセンター 特任教授 ) https://youtu.be/V1jBG7iCi1Y?si=qfX4fMzzXwk6eCUT

 

しかし、AIが進化していく先に、人類は今までの流れに逆行して「ホヤ化」していく流れも一部あるのかもしれません。

 

幼生のホヤはオタマジャクシのように泳ぎ回るが、岩に付着して固着生活に入ると、もはや脳が不要になる。そのため自分の脳を分解して栄養にしてしまう。進化的に「脳を捨てる」生物ですが、

いままで人間担当していた領域をAIが担当することで、その部分は「ホヤ化」していく可能性があるということですね。

【QuizKnock × 落合陽一プロデューサー】AIが進歩した未来で人類はどうするべき?万博パビリオンに込められたメッセージを深掘り!【null²】

 

誰もが見ていながら、誰も気づかなかったことに気づく。研究とはそういうものだ    コンラート・ローレンツ(動物行動学者)

 

多くの動物は左右に耳を持つが、カマキリは胸の中央に単一の耳を持つ。しかも超音波専用で、コウモリの捕食を察知するために特化している。

オジギソウは触れると葉を閉じるが、繰り返し刺激を与えると「害がない」と学習し、葉を閉じなくなる。この「記憶」は数週間持続することが実験で確認されている。

 

地下で大集団生活をするハダカデバネズミは、感染症を防ぐために「巣の掃除係」や「病気の個体を隔離する行動」が観察されている。哺乳類で“社会的免疫”が確認されているのは極めて珍しい。

イルカの仲間カワゴンドウは、笛のような音で「固有の呼び声」を持ち、仲間同士で名前のように呼び合う。人間以外で「名前を持つ」ことが確認されている数少ない動物。

アリは仲間が死ぬと、死体から発せられる脂肪酸(オレイン酸)を感知して運び出す。実験で生きたアリにオレイン酸を塗ると、仲間に「死体」と誤認されて巣の外に捨てられてしまう。

 

このような事実もそうですが、

五感による自然観察や経験則だけでは科学的事実を十分に把握できない。視覚は可視光の範囲(約400–700nm)しか見えないし、聴覚は20Hz〜20kHz程度しか聞こえない。感覚は主観的で、錯覚やバイアスに左右されやすい。

だから通常は「○○なもの」として五感で感じられ、ラベリングされ、「知られたもの(とされているもの)」に対して「観察」が起き「探究」へ向かうとき、見落とされているものを発見することにも繋がる。

 

哲学は「観察可能かどうか」に縛られず、語りの条件そのものを問う。科学が「語りうるものを深める」のに対し、哲学は「そもそも語りうるとは何か」「語りえぬものはどう位置づけられるか」を問う。

つまりこの文脈において、科学は「語りの中での深化」、哲学は「語りの境界の批判と拡張」ともいえる。

 

 

彼のいう「衝動」、これは「情動」と関連しているともいえます。情動は「感じる根」、衝動は「動く根」。両者は同じ根から分岐した二つの枝のような関係にあります。

観察行為にはその動力となるものが働いている。好奇心もそのひとつ。そういう動力があまり強く働いていないただの観察は、その対象のわからなさをわかろうとする深度が浅いまま結論に至ることがある。

意味・理屈・価値といった枠組みを突き抜けるものは、身体性のように構造化されたものではなく、もっと前段階にある“衝動”。創造性もそこから湧き上がってくる。

 

幼い子どもは、そこに「意味」や「価値」があるかどうかなど考えないように、身体性とかそれ以前に、ただ知りたいから触れる。

そうした衝動は「食欲」や「生存本能」といった生理的欲求よりも、むしろ生そのものを突き動かす力に近いものです。

 

ところが、この「野生の好奇心」が学校教育、あるいは制度化された探究の枠組みに取り込まれると、次第に「評価」や「目的意識」に媒介された活動へと変質していきます。

 

人間の技能は、「無意識的に身体化された知」と「意識的に構造化された知識枠組み」の相互作用として形成されます。これが「社会化された身体性」であり、非言語的な型(手続き記憶)と知的体系が結びついたものです。そしてそれは「評価」の枠組みの中で現れます。

「本物/偽物」という区別も、単なる物理的な真偽ではなく、学芸員や宗教機関、学術コミュニティといった承認された権威によって支えられています。つまり「価値の外」は、そもそも承認された言語では捉えられないのです。

アインシュタインが「私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である」と語ったのは有名ですが、これは彼だけの特殊な感覚ではなく、すべての子どもが本来的に持つ衝動の普遍的な性質とも言えるでしょう。

 

義務教育であれ大学であれ、制度の内側で扱われるのは「好奇心そのもの」ではなく、それを評価可能な形に変換した「知的活動」です。つまり教育制度は、程度の差はあれ、権威システムを介して身体性を方向づける営みにほかなりません。

 

伝統芸能や工芸の世界――歌舞伎、能、文楽、邦楽、陶芸、染織、漆芸など――では、大学教育よりも「師匠について修行する」ことが基本です。そこでは「学歴」などは問われず、ただ「技を体現できるかどうか」だけが判断基準となります。

しかしどちらも価値と意味の網の目の中で身体を方向づける営みである点で共通しています。教育制度も徒弟制度も、それぞれ「評価」の枠組みを不可避的に伴うのです。

 

「ラベル」と「価値」の不可避性もそうです。たとえば「発達障害」という言葉も、純粋に生物学的な事実、あるいは「それ自体」を指すのではありません。それは社会がある基準を設け、その基準からの差異を「意味づけ」したものです。診断名であると同時に、社会的・文化的な価値判断でもある。

 

制作者と観客の可逆性

メルロ=ポンティ風にいえば、世界を「見る」身体は同時に「見られる」身体でもあり、この可逆性のなかで身体は世界と絡み合いながら「意味」を生成します。

ここでいう「意味」とは、論理的・言語的な記号的意味(signification)ではなく、身体と世界の交錯のなかで立ち上がる感覚的で根源的な秩序のこと。芸術や舞踏が触れようとするのは、まさにこの「まだ言葉にならないが、すでに意味を持っている層」です。

 

創造の最中、舞踏家や芸術家は「自分が表現している」という意識を超えて、世界に動かされる身体として無心や没我の状態にあるとき、それは「自分が意味をつける」のではなく、身体が世界との絡み合いの中で意味を開示してしまう瞬間です。

制作者は「意味を生み出す主体」というより、意味が立ち上がる場に身を差し出す存在となります。観客もまた、作品を「見る」身体であると同時に「見られる」身体であり、舞台や作品に触れることで言葉以前の感覚的秩序に巻き込まれます。

両者の違いは「能動/受動」ではなく、どの位置から可逆性に巻き込まれるかの差にすぎません。

 

野生の好奇心の力

子どもの「知りたい」という衝動は、誰かに教えられて芽生えるものではありません。

制度的な教育や社会的な訓練は、こうした衝動を一定の方向へ導き、社会で生きるための支えとなります。しかし同時に、そこには深いバイアスを生み出す両義性があります。

技能が身体に刻み込まれると、それは「揺るぎないもの」として本人に確信を与えます。けれども、その強さゆえに無自覚さを深めてしまう。なぜなら「直感」は言語以前の身体性に支えられているからです。

「直感」と「直観」を分けるとき、前者を「感覚的・即時的な判断」、後者を「存在や本質を直接に観る洞察」と説明するのが一般的ですが、両者を完全に切り離すのは難しい。

言語以前の構造化された身体知が強固になりすぎると、そこから生じる直感、直観が他の可能性を閉ざしてしまうことがあるのです。

 

「価値や意味の外」はあるのか

教育制度も、徒弟修行における芸術も、宗教的実践も、すべては「価値と意味の網の目」の中で身体を方向づけています。したがって「価値や意味の外」に出ることはできませんが、

しかしそれでもなお、幼子のようにただ「知りたい」という野生の好奇心に突き動かされる瞬間、それは制度や権威を超える力であり、「価値や意味の外」において世界と直接に触れ合うともいえます。

誰にでもあった、そして今なお無意識にはある「もっとも始原的なもの」が、「すでにそれを超えている」のですが、

「なにかどこかで学ばないと得られないと思い込んでいる」というこのバイアスは、「知」が分業化され高度に教育システム化された現代社会ではかなり根強いものなのでしょう。

 

能力のピークと知の変容

心理学や認知科学の研究によれば、人間の能力には年齢ごとに異なるピークがあります。

  • 身体能力(筋力・瞬発力・持久力):20代前半〜30歳前後がピーク。
  • 流動性知能(新しい情報処理・記憶・スピード):10代後半〜20代前半にピークを迎え、その後は低下。
  • 結晶性知能(語彙・知識・経験に基づく判断):40代以降も上昇し、60代でも高水準を維持。
  • 感情的知性(EQ)や共感力:中年期から高齢期にかけて向上し、50〜60代で最も高い。
  • 性格の安定性:神経症傾向は加齢で低下し、協調性や外向性は中年以降に安定。

 

つまり、人間の知性は単一の曲線ではなく、複数の能力が異なるリズムで成熟し、衰退していくのです。

 

観察と理論の相互作用

「観察」は単なる経験則の集積やパターン認識に還元できない、もっと多層的で生成的な営みです。

しかし、数値の羅列が「惑星の軌道」として意味を持つのは、ニュートン力学や量子力学といった理論があるからです。観察は理論なしでは裸のデータにすぎず、理論は観察なしには空疎な仮説にすぎません。

そして、多角的な観察が深度を持つとき、既存のフレームに収まらない現象に出会います。その瞬間、観察はフレームを補強するのではなく、フレームを揺さぶり、更新や破綻を促す契機となる。

 

「有限性を引き受けて語る」は言語の限界を踏まえつつ語る姿勢ですが、「語り得るもの」は常に発見され創造されていくため、その厚みはとてつもなく膨大で、

身体性の深みとは別の意味で「語り得るものを語る」というのは容易な領域もあれば、とてつもなく難しい領域まである。

その領域においては、「語りえないことの限界」を「言葉」で伝えようとするほうがむしろ容易で、それゆえに「言語の領域」はある面で非言語的な領域よりも「おろそかにされている」ところがある、ともいえるんですね。

「語り得るものをとことんまで探究し精緻に語れる人」というのは極めて少ない。

 

知の硬直化と流動性

長年ひとつの分野に携わった人ほど、経験を通じて得た知識や技能が「結晶化」し、強固な枠組みを形成します。これは熟達の証であると同時に、思考の硬直化を招くことがあります。特に50代以降は流動性知能が低下しやすく、結晶性知能が優位になるため、この傾向は強まります。

しかし、知の柔軟さは「玄人か素人か」ではなく、好奇心の強さや新奇性への開放性によって支えられます。アインシュタインが「私に特別な才能などありません。ただ、ものすごく好奇心が強いだけです」と語ったのは、その象徴的な言葉でしょう。

 

他者と知性の多層性

他者の知性は単層ではなく、同一人物においても多層的で複雑な知性が混在していることがあります。瞬間的な反応や言語表現だけで「○○な人」「△△な人」と区分するのは表層的な他者理解にすぎません。

むしろ、複数の知性や感受性が混交している人でも、あるレイヤーだけが現れていることが結構あったり、現れが(習慣化されたものを含む)無意識的な場合と意識的な場合があり、また存在論的な層を含んでいたり、多様に変化することがあります。

発話行為の「動機」も単層ではなく多層的で複雑な場合があり、ひとつの動機に絞ると見落とすことがあります。

 

身体性や経験則の集積によって結晶性知能が高められることで、ある面の洞察力や直感力は深く鋭くなるともいえるが、逆に「こうだ!」と決めつけやすくなるということ。

「観察の質に多元性はないが、しかし特定分野の身体性や経験則はとても豊か」という人は世の中に結構いて、性格にもよりますが、そういう人の中に「自分の経験則に合わない=相手がおかしい」と短絡することがあるのは、単層的な違和感や直感から「これが本質だ」と捉えてしまうからなんですね。

 

科学と芸術の補完性

科学は「環世界を拡張」し、外部を見ているかのような知識を生み出します。芸術は「環世界を変容」させ、内部を揺さぶり、別様の経験を生み出します。

科学は「外部化するレンズ」、芸術は「内部を震わせるリズム」。両者は対立するものではなく、むしろ同一人物の中で混交し、相互補完的に働く知性の多層性にすぎません。

しかし現代の分業化された社会では、専門教育が知性の多層性を分断し、身体性も特化しています。その結果、他の知性の在り方に違和感を覚えるたびに「○○な人は~/△△な人は~」と区分けしたがる傾向が強まるのです。

 

だからこそ大切なのは、己の身体性や経験則を絶対化せず、他者や未知に開かれ続けること。そのとき、科学と芸術、経験と観察、流動性と結晶性といった多様な知性が補い合い、硬直化を超えて「まだ生まれていないもの」と出会うことができるのです。

 

野生の好奇心は、制度や権威を超えて私たちを世界に開く力です。「なぜ空は青いのか」「なぜ石は落ちるのか」といった問いを、ただ問わずにいられない力。

けれども教育や修行、宗教や芸術といった営みは、「価値と意味の網の目」の中で身体性を方向づけます。

ただ「知りたい」と手を伸ばすような「根源的な衝動」を、それが「○○のような素晴らしいものを生んだ」と語った瞬間に、すでに成果や結果という価値の文脈に回収してしまっている。

 

野生の好奇心が結果に結びつくかどうかなんてわからないし、能力や成果として結果に結びつかないことも多いでしょうが、そんなことはどうでもいいのです。

この「どうでもよくなる力」が意味や価値を超えていく、いやそもそもそれを超えているところに「生」があるわけですが、意味や価値を超えたその先が素晴らしい将来かそうででないかなんて、それも含めてどうでもいいことなんですね。

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