「病的な自己愛リーダー」は、例えばカルト教祖・過激な思想組織や独裁者、一部の権威・権力者や、あるいは個人で活動する霊能者やカリスマ的指導者や犯罪者などの中にも存在しますが、
以前このテーマを「社会学」「宗教学」「深層心理学」で分析したことがありますが、これはより社会的な力学の方を重点的に見たものです。過去記事(➀~➂)を以下に紹介しておきますね。
➁ 神秘系カルト組織・一人教祖(スピリチュアル霊能者含む)発生構造と原因
今回も「補足」的な意味で重なる部分はありますが、より「個人的」な過程に焦点を絞り、「身近な周囲」の相互作用として形成されてくるこの種のパーソナリティの病理分析をしています。
そして同時に、次回から再び「自己愛」や「精神分析」のテーマに戻っていく予定ですので、その補足としての意味で「信念」「科学」「心理学」「瞑想」「見つめること」などの定義を簡潔に整理しています。
「信念」と「科学的姿勢」の違い
聖書原理主義の創造論、反進化論団体らが唱えるインテリジェント・デザイン‐ID理論、天理教の信者である村上和雄筑波大学名誉教授の語る「サムシング・グレート」などのような、
まぁ平たくいうと「非科学的なトンデモ説」が、一定の数の人々には支持される背景にある「自然界の不思議さ、存在の不可解さ、生の理不尽さや矛盾」などを思えば、「これが真実だ!」を断定的に決めつけたくなる人間心理は、同じ生き物として決してわからなくはない感覚であり心情です。
また、非科学的、トンデモだから即ダメとか悪とか不必要だとは思いません。そういう感性的な見解や仮説の中には、まだまだ部分的角度からはわからない事実・真実・世界・存在・現象の奥行へと繋がる可能性が秘められているかもしれませんし、今わかっていることだけが全て・絶対ではない、という視点は常に必要だからです。
ですが科学は「そう思いたい、そうとしか思えない」という、「気持ち的・希望的な視野からの理屈で合理化しただけの結論」ではないんです。科学というものは「事実」に基づく検証と実証による明確な定義であり、現在進行形の終わりなき探求行為であり、
それは特定の物語・断定的な思想的結論・固定観念が先にあるところからの、『「確信・自信・気持ち的なもの」を支えるための論理化を行い続ける信念的活動』ではないんです。
「心理学」とは何?
では「心理学」とは何でしょうか?これは「意味」というようりも「心理学」の最終的な目的・それが存在する動機とは何でしょうか?「科学」と同じでしょうか?
行動主義的に解釈するなら、客観的な科学的アプローチ・統計的に分析する「心理学」がアカデミックなものとして認められるものでしょう。
ただ私は科学が心理学に取り入れられることは肯定しつつも、「狭義の意味での心理学」とは異なるアプローチも、「心」に関連する全体性としてみれば「人間及び人間心理」の多角的な考察であり、
それは哲学もそうだし社会学、情報科学、そして言語学、人類学もそうだし、脳生理学や生物学もそうですね、もちろん医学も。なので「心理学」を「人間の行動及び人間の心」を扱う学問、ということであれば、それは狭義の専門の範囲に止まらず、もっと多くのものを含んでいる、ということです。
その意味で、心理学は純粋には「科学」だけではないし、全体性としては純粋な科学のみでは割り切れないものを含み続ける、と思っています。
では「心理学」とは何でしょうか? 何のためにあるのでしょうか?単に何かを暴いて「推理して謎を解く快感」を得たいとか、相手をやっつけたり卑しめたり晒したりするためのツールでしょうか?
あるいは自身の欲望を満たすために他者の心裡をコントロールするためのツールでしょうか? 高額な自己啓発・能力開発系の商品やらセミナーやら何ちゃらカウンセラーとかの荒稼ぎのための「都合のよい看板」でしょうか?
あるいは「全てを見抜いている自分は凄い」的な優越感を得るための学問でしょうか? そうであるならば、それもまた病的な自己愛の隠れ蓑となり誇大自己の新たな形ともなる可能性があるでしょう。
私は心理学の最終的な目的・それが存在する動機は、それがどういう分野の心理学であれ、エーリッヒ・フロムが語る以下のような本質を持つべきものだ、と思っています。
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。(エーリッヒ・フロム)
病的な「自己愛リーダー」
病的な「自己愛リーダー」というのは、「巨大化した問題児・巨大な毒親」とでも言えるような存在でありカリスマ化した誇大自己です。
多くの場合、彼等(彼女等)はその成長過程・発達段階に何らかの「先天的要素・宿命的関係」の難を抱えており、「二次障害」の連続過程によって現実自己(現実的な自己イメージ)は育たず「分離的な不調和な自己」のまま成長し、不安定な分離的自己を支えるために過剰なアディクション(嗜癖)を必要とし、
それによって子供の頃はまだ「受動的」なものだった二次障害が、「他者・社会との認識のズレによる摩擦・敵対」などの「能動的」な二次障害へと発展することで、「生きづらさ」と「被害妄想」を強化し、
しかも元々「認識が分離的で物事を立体的に見れず惑わされやすい傾向」であるため、「悪意ある者(大人)」からの「さらなる受動的な二次障害」も受けやすく、それによってさらに「認識のズレによる摩擦・敵対」を深め、
「能動的」な二次障害も比例してさらに酷くなるという悪循環スパイラルから抜け出せなくなり、その結果「現実」と「自己」の大きなギャップのストレスに持ちこたえられなくなり「逃避」し、
「退行」⇒「分裂」し、さらに「幻想的な自己」に逃げ込み、分離的に「自己肥大」することで「狂人化」していく、という流れなのですね。
そして 、『 現実自己を無視した「理想自己(理想化された自己イメージ)」 』がアンバランスに過剰成長し「狂人化」するまでになったのは、
「自我理想(あるべき自己イメージ)」を育てる適切な人物・環境に恵まれなかった、適切な支えがなかったために、その人にとっては「幻想によって生み出された誇大自己のみが唯一の自我崩壊を防ぐ支えだった」とも言えます。
だから「最後の砦」を守るように必死に「防衛強化」しながら、その「病的な自己愛構造体」は孤独の中で異常発達し「特殊人格化」していったわけですね。
彼らが囚われている固着観念はそれぞれに異なり、基本性格にも大小の差異があり、「特殊さ」の種類や強弱も異なりますが、その人格内には「攻撃性」と「分離性」による「反社会的傾向」を持ち、「自己中心世界」を「誇大・強化」する方向性へ向かう自我運動となっています。
そして慢性化した「病的な自己肥大状態」は、その「空虚」な自己愛構造を支えるために「他者による自己愛の備給」が必要になるのですが、それに成功したにせよ失敗したにせよ、結果的に「他者を巻き込む形での悲劇」に向かうわけです。
「どのような負の現象となって現れるか」は、自己愛リーダーの個性の質の差、能力の差、影響力の大きさなどで様々に変わります。
「瞑想」、そして形而上の概念を深く探求する人々へ
カルト教祖・オカルト系新興宗教の教祖・盲信者・霊能者・病的なスピ・神秘主義の盲信者など、彼らの多くは未だに膨張し続ける自我、あるいは幻想的な自我への執着と同化の状態にあり、
その一部の者達の膨れ上がった虚像の自我は、「他者による自己愛の備給」なしには既に支えらえない病的なバランス状態になっているのです。そのような状態にある意識は「純粋経験」からは最も遠くその対極にあるものです。
彼らの反応や言葉(行為に見られる姿、生き方の姿勢、他者への態度)をありのままに見れば、そこには知情意の分離の不調和状態=バランス異常が一般人よりも遥かに顕著に観察され、
低次の防衛機制だけでなく原始的な防衛機制も多々確認されるほどの精神病理の状態にまで人格・精神が退行している人々もおり、その結果、幼児的な未熟な自己愛による万能感をベースにした誇大自己の投影活動になっているのですね。
その姿は、「全体的な対象関係を見失った未熟な分裂的視野」であり、「原始的理想化」による信仰対象への陶酔一体化=同化と、その反対者への極端な価値下げ=「脱価値化」という二元分裂の極みの意識状態であり、全体を破壊しながら部分が肥大化していく、まさにガン細胞的な拡大活動なのです。
そのような未熟でバランス異常な一方通行的な理解の状態で、人や現実の立体性をバランスよく把握することは不可能であり、ましてそんな精神分裂状態で「法を説く」「人の上に立つ」「公的活動をする」「社会・人を変える活動」などもってのほか、それは「公害・有害でしかない行為」なんですね。
仮にあなたがそういうものに巻き込まれてしまった場合、あなたの自我も自己愛リーダーとの「同期・同調」のレベルに応じて肥大化していくでしょう。
以前にも書いたことですが、より真剣で本気に素直に取り組んだ人ほど、自己愛リーダーとの「同期・同調」が深い意識まで浸透しているため悪影響は大きいのです。
まぁどこの病的な組織でも同じで、「その組織内でのレベル判定基準」がありますが、上位な人ほど、実際は「病的レベルが高い」という皮肉な状態なわけですね。
なので、そんな組織で上位にいる、あるいは評価されているような人よりも、下でふざけている、適当な信者とかの方がずっと健全で、回復も早い、わけです。
なので「組織に疑問や違和感を強く感じている状態」=「まだ健全な状態」のうちに、恐れることなく、さっさと出てやり直しましょう。いや、そういっても納得しない人にはこう言いましょうか、
「地獄や天国や涅槃や悟りや霊的な進化」などが仮にあってもなくても、そんなイカレタ教祖や組織への忠誠・信仰及び組織内評価とはそもそも何の因果関係もない、と。
「人生の悲劇・理不尽」「人間の様々な残酷さや悪意の姿」に直面し打ちひしがれた心が、あるいは「人生や生の不可解さ」に深く直面した心が、時として『「その全てを合理化して丸投げし一任できる何か」を持つことで安心を得たい』という想いはわからなくはありません。
そして周囲に何の支えも見つからなかった存在が、自らが壊れないよう何かを支えに生きようとするのは自然なこととも言えるでしょう。
なのでもしあなたが「宗教的な生き方」を選ぶ以外に道はない、というような場合は、「社会・文化・環境・人々と調和した伝統的な宗教」に回帰すれば良いでしょうし、それもまたひとつの道と言えるでしょう。
そして過去に「異常で病的なもの」に巻き込まれ脱出した人の場合、そういう人・場所から離れ「本来は不必要で余計なもの」がなくなることで、物事を自然体で見つめる余裕が徐々に回復し、
そして観念的な過剰な囚われや特定の何かへの盲信がなく同化もなくなる時、あなたの視野は広がり、理解の柔軟性に富むことで、リアルの立体性も徐々に見えてくるでしょう。
「存在に触れる、接する」「存在を見る」ということ
そして私はオカルト盲信者や唯心論だけでなく、科学万能主義も、そしても唯物論も西洋二元論も、その異なる両極の限界を間近に見て生きてきました。私は思想家でも哲学者でもありません。私は自身の心と体で体感しながら「ひとつの学問的な枠」に止まらずに自由に探究しています。
何らかの所属コミュニティの同朋意識やら組織のメンツ、関係性とも無関係な探求行為であり・社会的立場上の利害関係やプライドとも無関係であり、
また「被害者側」・「加害者側」に感情的に二極化した主張・意見への固執を離れ、様々な角度から「心・精神」とその病理や健全さというものを探求してきた、そして探求し続ける者であれればそれでよいのです。
新興宗教の盲信者として心身を壊わしていく人々も見てきましたが、逆にそういうものの影響を受けていない非宗教的で合理的・理系的・常識的な教育環境の中に育ちながら、心身を壊わしていく若者、人生を脱線していく人々、自殺していく人々も見てきました。
非宗教的で理系的で社会的でありつつ、非常に人格に歪みがあり悪意に満ちた心無い人々も見てきましたし、また、オカルトや精神世界が大好きな人で、別に日々の生活や人間関係に何の問題もなく、とても性格が良く優しい人々も見てきました。
なので、人間は決して一面的考察だけで測れないし、人間は複合的な作用の中で絶えず影響を受け、あるいは与えながら、何かを強化したり弱めたり、その全体性を変化させながら生きているんですね。
人・生命を単なる物質だとは思いませんし、同時に単なる心、精神だとも思いません。「生命なる存在」がそのような立体的で複雑なものであるからこそ、部分の追及では本質的な解決には繋がらず、
それを見つめる私たちが、「部分や要素への囚われによる分離的眼差し」から離れることによってはじめて、人・生命という全体性そのものと接する・触れることが可能になるわけです。
ですがどのような角度で心理学的に考察している時でも、その本質にはやはりフロムのこの言葉を忘れずにいたいと思います。
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。(エーリッヒ・フロム)
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