このテーマは何だかとても哲学的なものですね。 そもそも意識は一体何から生じるものなのでしょうか?
まず先に、興味深いTEDの動画を紹介しますね。 一般人にとって、「意識」はあまりにも当たり前に在り過ぎて、それがあるということの奥深さが見失われがちですが、
この動画は「意識がある」ということのメカニズムのリアリティを感じさせる動画であり、参考になります。
サイモン•ルイス: 意識は当たり前の事ではない
◇ 関連記事の紹介
「脳」は複雑性と神秘と能力にあふれている ある人工知能研究者の脳損傷体験記
意識は「私」という自己感覚を生み出しますが、「私」による認識の仕方には、主観的な認識と客観的な認識があります。ではこの二つの認識の違いは一体何なのでしょうか?
脳科学者達が言うように、私たちの「意識・心」は全て脳が作りだすものとするならば、「主観の運動」を観察する意識活動も脳から独立したものではなく、やはり脳が作りだす運動のひとつであり、
観察しているものは全て内側・外側を問わず脳の作りだす主観に制限された神経活動の結果であり、つまりこの世のどのような認識も認識される対象も、脳の作りだす主観から一歩も抜けだせない、ということになります。
つまり「客観的な観察」というのも、脳の作りだしている様々な主観の中で、「誰から見ても同じようにそうあるもの」を客観的と呼んでいるだけということになります。
犬や猫の脳が見る世界と、人間の脳が見る世界は、「世界の見え方」がそれぞれ違うように、動物は脳の作りだす主観に制限された現実の全体性しか知覚できない。
目も耳も脳もない原始的な生命体の場合は、備わった感覚器官で感じられるものでしか現実の全体性を知覚できない。
このような考え方は、ドイツの生物学者・哲学者であるヤーコプ・ヨハン・フォン・ユクスキュルが『生物から見た世界』で提唱した「環世界」という概念とも重なる考え方ですが、
それでは、脳が作りだした「私」が見ているこの世界は脳や感覚器官による幻影なのか?あるいは、本当は全てが主観的な認識なのか?というと、そう短絡的なものでもありません。
例えば視力が完全に損なわれていない人々の場合、性格・個性・考え方がどれだけ人それぞれに相対的なものであっても、誰にも空や太陽が見えるように、
そこに「私」という主観の相対性とは別に、何らかの実在があるという共通の現実が客観的に認識されるわけです。
犬とネコと人間はそれぞれに脳の状態は異なり、世界の見え方・感じ方も異なっていますが、犬とネコと人間が道でバッタリ出くわした時、互いが「そこに存在する事」をそれぞれに認識出来ていることは同じです。
視覚、聴覚、嗅覚、触角などの感覚がすべて違っていても、水や食事や他の動物の存在を、それぞれが同じように「そこに在るものとして」 水は水として、食事は食事として、同じように認識し反応しているのです。
つまり主観的な世界の見え方・感じ方がそれぞれに異なっていても、「そこに在るものとして」の現実認識は変わってないのです。
量子力学のような極少の単位で特異な物理現象が起きていたとしても、それが実際、我々の日常単位での物理現象に即そのまま当てはまるわけではなく、
「そこに在るもの」は、突然空間からポンと現れてきたりするものではなく、現実は変幻自在の不規則な神出鬼没のカオス状態ではなく、ある程度の期間、定常的な状態が維持されており、一定の法則が働いています。
例えばある人にだけはずっと昼がなく夜だけしか生じないというような並行現実はなく、仮にその人がそう思い込んでいたとしても、それが共通の現実として客観的に外側に認識されることはありません。
つまり内的な閉じた主観の世界では人それぞれにバラバラに分離している認識状態ではあっても、客観的に外側に認識される実在世界はひとつの巨大な運動・現象であり、バラバラではありません。
誰にも同じように昼と夜が来て、それは他の動物たちも同じで、夜行性の動物は、種が全く違えど、夜になったら一斉に動き出すのです。
それは世界の見え方・感じ方が異なる様々な形態の生き物たちが、「夜」というひとつの現実の状態を同時に認識出来ているということです。
それでは最後に、動画をもうひとつ紹介します。科学はどこまで意識を理解しているか?とても参考になる動画です。
アントニオ・ダマシオ:意識の理解はどこまで進んだか
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