「幸福度」という指標  「日本人の在るべき姿」という幻影 

 

ブータンという国が以前日本でとても話題になりました。日本だけでなく世界でもブータンの国民の幸福度というテーマで話題の国でした。ですが今、ブータンという国のあのイメージは徐々に崩れつつあるんですね。

「追加更新」ですが、この記事を書いたのが2013年で、その後はどうなのでしょうか。幸福度ランキングでは、2013年には世界8位となりましたが、2019年以降はランクインしていません。

その背景には、情報鎖国から脱したことで他国と比較できるようになり、「隣の芝生が青く見えるようになった」こと、経済的な格差や社会的な問題が深刻化したことがあると言われています。

「幸福度」という指標への疑問

そもそも「幸福度」という指標にも曖昧さや批判があります。幸福度は主観的な感情であるため、客観的に測定することが難しいです。また,幸福度は個人や文化によって異なるため、一様な基準で評価することが適切かどうかも疑問視されます。

さらに,幸福度指標は、調査方法や対象者、質問項目などによって大きく変わる可能性があります。また、調査から除外された弱者たちの幸福感や生活実態や見解はくみ取られることがなく、政策に反映されることもありません。

GDP(国内総生産)は、一国の経済規模を表す指標ですが、気候変動や格差、デジタルサービスなどの現代社会特有の現象の影響を反映していないと批判されています。そのため、GDPに代わる幸福度の指標を提唱する動きがありますが、それらも完全ではなく、さまざまな問題点が指摘されています。

幸福度という概念は、人間の普遍的な願いであると同時に、多様で複雑なものです。幸福度を測ることは、社会の状況や人々のニーズを把握するために有用ですが、それだけで幸福度を高めることができるわけではありません。

幸福度を測ることは、幸福度を高めるための手段の一つに過ぎず、目的ではありません。幸福度を高めるためには、個人や社会が自らの価値観や目標に基づいて行動し、それを支える政策や制度を整備することが必要です。

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多くの知識人や歴史・思想に詳しい方々が、このような「指標」「GDP」等で、社会を単純に評価し、右や左の立場から主張をされています。それぞれに互いを罵倒し合いながら否定し合い、世界が国が家庭が人間がこうなったのはお前らのせいだ!と互いに言い合っています。

「左側の人が日本を駄目にした、右側の人が駄目にした、宗教が世界を人を分裂させ駄目にした、無宗教や唯物論者が駄目にした、フェミニストが駄目にした、最近の日本人が日本を駄目にした」

まぁ部分的にはそれぞれに否定的な面や肯定的な面があったり、一部の人々による極端な活動や言動によって不和・不調和が拡大する、という力学はあっても、

ある属性に含まれることを持ってして人や存在の全てが規定できる、というほど人間・心・精神は単純ではなく、固定的でもなのです。

例えば「今の日本人」には貞操観念がないとかって堅苦しい論調で語る人もいますが、日本人は元々に対してかなりおおらかな民族なんですね、明治より前なんて、ホントある意味今よりも全然おおらかです。

ちょっと調べればすぐわかることです。それを「日本人はかくあるべし」的に、まるでそれが古来からの伝統的な日本人の姿だったと言わんばかりに一方的に語るから無理があるんですね。

そんなの100年ぽっちくらい前に海外からの影響で取り入れられた、日本の外から付加された新たな倫理観に過ぎないものなんですよね。日本人は「結構おおらかな民族」だったんですよ、昔は。

昔の日本ってブータンにどこかよく似ているところがあるんですよね。日本の場合は人口も多いし海外文化からの影響及び吸収が加速度的に行われたから、ブータンとはまるで似ても似つかない国に見えますが、

心情の深い部分がどこか似ていると私はそう感じます。そして今ブータンという国に見え始めている崩壊の兆しとその過程には、人の幸不幸の本質的なテーマが潜んでいると感じます。

日本は急速に変わっていきましたが、ブータンは日本の急速な発展のプロセスをスローモーションにしたようなゆっくりした変化で変わっていくことでしょう。

今ブータンでは農業と田舎からの若者離れ、そして高学歴な若者の野心が外へ外へと向かい始め、そしてテレビ・メディア情報による欲の刺激と自己肥大化がどんどん起きているわけですね。

 

右や左の思想、宗教や無宗教が人の幸不幸と一番関係あること?

こういうことが続いて世代交代していくうちにブータンもまたライフスタイルや文化の形を変えていく。そしてやがては家庭・家族の希薄な人間関係、そして都市開発による自然破壊や地方の過疎化に繋がっていくでしょう。

そしてそれが続いていくだけならば、ブータンの人々もいずれ彼らの平和と幸福の本質だったはずの「おおらかさ」を失っていくことでしょう。

人の幸不幸と一番関係あるものは「右や左の思想」のどちらでもありまん。そのどちらであってもなくても幸福は存在し、不幸も存在するからです。

人の幸不幸と一番関係あるものは宗教や無宗教でもありません。そのどちらの生き方であってもなくても幸福は存在するし不幸は存在するからです。(まぁカルトとか極端・過剰な右左のイデオロギーは除いての話ですが。)

人の幸福と一番関係ある本質の部分は、思想の形がどうとか、宗教がどうとかではなく、人間が「おおらかさ」を失わずに支え合って暮らしている極普通の自然な姿の中にあります。

そしてこうやって欲に刺激され外に外に向かって、支え合って暮らすことを失い、より分離化して自己肥大化に向かうその先には、おおらかさを失った自意識過剰な個人主義があることでしょう。

そしておおらかさを失った自意識過剰な個人主義は、他者に対して互いに潔癖な競争社会を作り出し、その中で生きる現代人の複雑な葛藤意識と内的な不調和に置き換わっていくことでしょう。

外的に建前ではいくら調和しているように見せても、実際は激しく分離した不調和の人間集団の社会を作り出すでしょう。

「右や左の思想」が重要性を増してくるのは、そういう複雑な葛藤意識にハマって内的・外的に不調和化した現代社会の人間たちにとってであり、宗教や無宗教の是非の議論にやたらこだわる姿も、そういう複雑な葛藤意識がある時なんですね。

その国の自然・文化・気質と生活スタイルが激しく分離していなければ、人は本来もっとおおらかで幸福でしょう。

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