前回からのテーマである「モノクロニックタイム」「ポリクロニックタイム」という概念での考察を加え、生物学的な本質において同じものであるヒトが、どのように多元的にそれぞれの文化的・精神的社会的個性を発展させていったかを見てみましょう。
前回の記事 ⇒ 対人コミュニケーションの多元性 文化的時間と対人距離・自閉症と共感性
アメリカ、オランダ、ドイツ、スイス、カナダ、北欧諸国、イギリスなどはモノクロニックタイム、アジア、アフリカ、中東、地中海沿岸、ラテンアメリカはポリクロニックタイム。
以下、モノクロニックタイム=M、ポリクロニックタイム=P
○ P性自然(豊かな自然) ⇒ M性文化(農耕文化) ○ M性自然(厳しい自然) ⇒ P性文化(狩猟文化・牧畜文化・遊牧文化)
○ P性自然 ⇒ M性文化 ⇒ P性宗教 ○ M性自然 ⇒ P性文化 ⇒ M性宗教
自然環境と文化の関係性、そして民族宗教との関係性を理解するために以下の参考サイトを紹介しておきますね。
〇 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」三つの宗教の関係
中東の場合 ➀ 過酷なM性自然 (ヒト対自然)⇒ ➁ 集合的無意識で自然と分離 ⇒ ➂ P性文化 ⇒ 主我(自然自我)の型を形成 ⇒ ➃ 父性原理のM性宗教・国家 ⇒ ➂ + ➃で客我(社会的自我)の型を形成
欧米の場合、➀~➂まで同上 ⇒ ➃ 宗教の脱魔術化と合理的思考の発達⇒ 「父性原理のM型社会」で「近代的自己の型」を形成
アジアの場合、➀ 豊かなP性自然 (自然自我)の基層 ⇒ ➁ 自然と調和したM性文化 (母性原理) ⇒ ➂ P性宗教・P性国家「発展途上国は主に➁+➂で客我(社会的自我)の型を形成」
アジア系の近代国家・先進国の場合、➀~➂を経て ⇒ ➃ 宗教は脱魔術化され「母性原理を土台に持つM系社会」で「近代的自己」の型を形成
中国の場合、文化大革命で➁の「自然と調和したM性文化(母性原理)」を強制的に破壊し、「一党独裁トップダウン方式」で強力な父性原理のM型で強引に近代化。
日本の神経科学者の金井 良太氏によれば、道徳感情には大きく分けて➀「他者を大事にする系」➁「秩序を守る系」の2種類があり、➀、➁の道徳感情のどちらにウエイトが高いかは脳の構造にも基盤があるとのことです。
そしてVBM解析では灰白質の量が分かり、「義務などへの拘束」を重要視する人は「梁下回と島皮質前部」が大きく、「個人の尊厳」を重要視する人は「背内側前頭前野」が大きく「楔前部」が小さかったとのことです。
また「腹内側前頭前野」に損傷があると義務感が弱くなり「功利主義的な判断」をするようになる、ということですが、
例えば、リベラル系は前部帯状回が大きく保守系は扁桃体・島皮質(恐怖・嫌悪と関係)が大きい、ということもいわれていますが、まぁこういう大きな区分けに関して 私が思うのは、リベラル系といっても人間性・人格はそれだけで単純に定義は出来ず、
仮にこの区分けだけで見た場合でも実際いろいろいて、「似て非リベラル」や「自称リベラル」 もいるし、それは保守だ ってそうでしょう。なので大まかな参考として、というくらいで見た方がよい区分けですね。
➀「他者を大事にする系」➁「秩序を守る系」、そして「義務などへの拘束」「個人の尊厳」を、「ポリクロニック、モノクロニック」で見ると、➀と「個人の尊厳」がP系道徳 ➁と「義務などへの拘束」がM系道徳です。
ではM性自然に対する欧米のP性文化(狩猟文化・牧畜文化・遊牧文化)は具体的にどのような流れだったのか、そして欧米の歴史における植民地拡大の背景にある一つの力学を「植生と日本文化」から見てみましょう。
「植生と日本文化」 より引用抜粋
13~14世紀のヨーロッパにおける小麦の収穫高は播種量のわずかに3~4倍に過ぎなかったという。近世に到ってもせいぜい5~6倍といったところでした。
日本の徳川時代では播種量の30~40倍の米の生産をあげていたと言われています。ですからヨーロッパのように大地に人が生きてゆくためには1人当りの耕地面積を広げる他ありません。広大な耕地を耕すためには畜力がまず必要になり、労力の点からみても大型家畜が不可欠です。
そのためヨーロッパでは人間は家畜との共生をはじめから強いられたと考えられます。播種を終えるとヨーロッパの農業では雑草が生えないので収穫まで何もありません。
我々には気楽な農業にみえますが、それ以上どうしようもないのです。その後ヨーロッパ世界ではクローバーとかかぶなどを休閑地に植えて地力の回復を促進するなどの農業革命や化学肥料の発明等によって飛躍的な農業の発展が見られました。
しかしヨーロッパ文明の根底には土地の生産性が低かったかつての農法パターンの影響が長い間尾を引いていきます。ヨーロッパは地理上の発見を遂行して後に新大陸への大量移住、ついで植民地獲得競争へと激動の世界史の流れをつくり出しますが、
そこには粗放農法を前提とした、より広大な耕地と新開地を絶えず求める潜在的拡張主義の欲求が強く作用していたにちがいありません。いずれにせよヨーロッパの主食はパンだけではありません。
彼等は家畜との共生から乳製品と食肉をむしろ主食とする食文化をつくりあげていった。彼等はやがて食肉の生産工場としての牧場を発展させて行きます。- 引用ここまで-
引用元 URL ⇒ http://members3.jcom.home.ne.jp/mulukhiya/syokuiku/kiji/nihonbunka.html
差異と同一性~調和・統合へ
MとかPとか母性とか父性とか、そういう「原理的な要素」というのは、役割や質の違いを表すものであって、どちらの方に価値があるかとか、そういうものではなく、
本質的にどちらも必要で、バランスが偏り過ぎると極端なものになる、という点で、心・精神の様々な要素と同様なんですね。
父性原理に基づいた宗教の質は、例えばユダヤ・キリスト教圏に生まれ育ったフロイト的な「古典的な自我観」にも見られるように、
父性による「母性との分離」がエディプス期に生じることによって、子に内在化される社会規範=「父性原理の内面化」と構造性において同質です。
イスラム教・ユダヤ教・キリスト教は父性原理の宗教で、例えばキリスト教では「父・子・聖霊の三位一体」の神を信仰しますが、母性原理としての「聖母マリア信仰」が存在し、
このルーツをたどるとエジプトの「女神イシス信仰」に至ります。キリスト教の元にユダヤ教がありユダヤ教の元にエジプトの伝統的な信仰があり、「基層文化」を引き継いでいるんですね。
(とはいえカトリック教会でも聖母信仰は正式・公式には、長い間認められていませんでしたし、プロテスタントでは現在も認められていません。)
中国には儒教と道教があり、儒教が父性的(権威的)で道教が母性的(庶民的・世俗的)、なので基層文化は相互補完的な複合性ともいえます。東南アジアの基層文化はインドの影響が強いですが、最基層には精霊信仰がある稲作農耕文化です。
ヒトは本質的に異なるのでしょうか? 東京大学大学院総合文化研究所科教授の石浦章一氏の著作「遺伝子が明かす脳と心のからくり」によれば、
「外見」は「肌の色が3~4個の遺伝子+背の高さが数個の遺伝子」で合計10個程度、このたった10個程度の遺伝子のバリエーションを「人種」とかいって区分けしている、というわけですね。
そして生物学的・遺伝的に見ればヒトは限りなく似た者同士で、しかも外見の遺伝子は自然選択によって変化するものです。
つまり本当の人種というのは地域・ルーツがどこか?ということが大事で、先祖がどこの人か?という、そこが一番「遺伝的に決まっていること」ということなんですね。
例えば表面的な文化・社会の形は時代や場によって変わります。そのどこに属しているか?はあまり重要ではなく、心性の基層にある隠れた次元の文化要素が何か?という点はやはり重要なんですね。
そういうものは生物学的遺伝子とは異なりますが、文化ミーム的に見れば「集合的な遺伝的元型性」を持っているからです。
「植生と日本文化」 より引用抜粋
仏教はその分布状態からみて発祥地のインド以東にむしろ深く浸透していますが西方にはあまり広がっていません。その原因は人間の魂も動物の魂も同じ価値をもつとする輪廻転生などにみられる仏教思想そのものの中にあると考えられます。
いわば仏教は肉食の論理をもたない宗教でありますが、こうした思想は家畜を殺して食べねばならない遊牧や牧畜を基盤とする西方世界ではどうしても受け入れられなかったものと考えられます。
それでやはり仏教は東方の主として稲作地帯に広がったことになります。ヨーロッパキリスト教圏では中世から近世にかけて土地の生産性が非常に低かったので肉食を主体とした食文化を強いられたわけですが、
肉食といっても魚と家畜の間には差があります。魚の殺生はそれほど抵抗はないが羊や牛や馬やラクダなどの大型家畜は言葉こそ話さないが飼い主との間にある程度の意思の疎通があり、ある種の情を交わすことができるからです。
こうなると人間の側が食肉の論理を持たなければ暮しが成り立たなくなります。この意味でヨーロッパのキリスト教も中東のイスラム教もはっきりと肉食の論理を持つことになります。
– 引用ここまで-
引用元 URL ⇒ http://members3.jcom.home.ne.jp/mulukhiya/syokuiku/kiji/nihonbunka.html
母性原理は感性・共感で「繋がり」の受動的な意識であり「ウチ」を保護します。父性原理は意志・判断・決断・統合・分析・能動的な行動原理で「ソト」へ向かいます。
母性原理・父性原理に関しては前回の記事を参考にどうぞ。⇒ 遺伝子と男女の原理 母性的愛情(包む愛)と父性的愛情(鍛える愛)
豊かな自然を持つ国、あるいは大地に根ざした基層民族文化(P性の心性)は、大自然と共感で繋がり、そこを「大いなるウチ」とし、大いなる「母」として保護し共存してきました。
そのような基層民族文化(P性の心性)の自然観は、天災や天変地異的な現象の時に「自然の厳しさ」を感じ、そこに「父性原理」を見出したんですね。
なので「断固たる現象を動かす力」=「天災は天罰」という素朴な感覚を昔の人は持ちました。(これはカルト系新興宗教や霊能者などがそれを悪用して恐怖条件付けする場合は、また異なる能動的な心理操作です。)
それに対して「元々厳しい自然」の中で生き、大地自然から多くを得られず、人為で人工的に開拓せざるを得なかった基層民族文化(M性の心性)は、厳しい自然をそのまま「ウチ」とすることは出来ず、
「ソト」に向かいソトを発展させ「自然と分離した社会」を形成し、そこが「安全なウチ文化」になりました。
このタイプの社会文化の発展拡大を支え続けるためにはさらなる肥大化が必要となるため、「拡大しながら大地・自然及びそこに根ざした先住民族から奪いとる」=植民地化・奴隷化に進んだわけですね。
これは「個人」に置き換えれば「自己愛人格障害」の分離肥大に似てます。
まぁニンゲンの歴史を見れば、そもそも全ての人格障害の型が昔から集合的無意識領域に存在し、無意識だったものが意識化され統合化される過程で徐々に淘汰されていった、ということですね。
例えば「サイコパス」は「モノと心の区別がついていない原始的状態で、さらに情動性の共感レベルで機能不全のため人を不当に利用し権力を求め罪悪感もなく愛情もない」と定義するならば、以下の「西欧人の黒歴史」を見てみましょう。
「先住民族迫害史」 より引用抜粋
1600年代当初、ニューヨークはすでに10数ヶ国の人種が集まり、人種のるつぼと化していた。オランダが東インド会社を設立、各国の人々を雇った。イギリス人が米国に足を踏み入れる前の話である。
当時、先住民族は東海岸一帯に住み着き、ニューヨークの反対側、今のニュージャージー側に生息していた。イギリス人たちの前はオランダ人 VS先住民族の戦いがあったのだ。
当時の記録で、オランダ人の商人達は仕事の合間にニュージャージー側に住むやさしいインディアン達を狩り、おもしろ半分に殺し、首をフェンスの上に飾っておくのがステータスであった。
ある日、貴婦人が家から出ると風が吹き、切断された首が足元に転がってくるのを見て「まあ汚らわしい!」と足蹴にしたというシーンがニューヨーク歴史資料館に残されている。
1600~1700年にかけて、米国を植民地化するために先住民族はもっとも邪魔な存在だったのである。男性の先住民族は生きたまま頭の皮を剥がされた。我々が昔聞いたのと正反対の話しである。
植民地の法令に「先住民族の頭の皮を持ってきたものには報酬を出す」という信じられないものがあったが、我々も良く知っている英雄ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、トーマス・ジェファーソン等も、引き続き承認のサインを行なっている。
とにかく自分達の植民地を広げる為に、インディアンは邪魔な存在、どんどん殺して行け行けムードだったらしい。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ 先住民族迫害史
⇧ 上記に登場する時代の白人はみな反面「サカキバラ」ですね、ではもう反面は「サカキバラ」とどこが違うのか、それは白人たちは「同胞」に対してそういう猟奇的・シリアルキラー的なことをしたわけではなく、
「ウチとソト」で「ソト・劣等」とされたヒトは「モノ」と同じ感覚で、(魔女狩りや黒人奴隷も同様に。)そこには共感も罪悪感も情けもない「サカキバラ」、あるいは「自己愛性人格障害」だったわけです。
そしてこれは「内集団・外集団バイアス」の極端な例とも言えます。
欧米人によく見られる外向性・新奇性のノベルティシーキングの長所の面は文明の発展にも繋がっており、そして「ウチ」に対しては ヒロイズム・ヒューマニズムを発揮し、積極的で挑戦的で、
「ウチ」での評価はヒーロー、そして「無意識の破壊性・暴力性」 は「ソト・劣等」とされた対象に向けられるわけですね。ソトから見れば、冒険心に富む外向的な白人ヒーローの中には「サイコパス」「自己愛性人格障害」もいたことでしょう。
そして逆に、「ソト」ではいい人で「ウチ」に対して互いの首を絞め合うように集団で断罪的に追い込むパターンもありますね。(例・日本)このタイプは「内向性」の傾向の民族意識で、
抑圧した「無意識の破壊性・暴力性」が「ウチ」で解放されるわけです。「人柱・生贄的なスケープゴート化」を「ウチ」の中でやる自虐性です。
そして植民地化・奴隷化を強力に支えたのがキリスト教です。西欧人は「ソト」が「自然」となり、自然との対立・克服こそが「ウチの発展性」を相対的に高める、という分離性が基層意識になっていくわけですね。
「ソトに排斥されたもの」は「無意識」となるために、西欧人の無意識は「自然界」であり「意識」は自然と分離したニンゲンの自我意識中心です。
西欧文明がアジアの基層文化にある精霊信仰(シャーマニズム・アニミズム)の「脱魔術化」をしてきた背景は、西欧の近代的自己は「ニンゲンの自我意識中心」の「自然との切り離し」の父性原理だったからですね。
西欧は宗教の脱魔術化によって文化的な次元では「ウチとソト」の境界性は弱体化し、異文化への寛容さは昔よりは増したとはいえ、西欧の発展は植民地化による民族の基層文化の破壊と支配で勢力拡大してきたことの結果でもあるのです。
アジア人は自然とニンゲンが共存している意識で自己形成してきたために、「自然という大きなウチ」の中でヒトは社会を形成し暮らしている、という基層意識をアジアの発展途上国では現在も色濃く持っているのです。
なのでアジアの先進国や発展した都市のMタイムは、「自然界から分離した時間軸・父性原理主体」で動いているのではなく、自然界と繋がりつつ母性原理が根底では未だ働いている、とも言えるでしょう。
なので西欧的な自我や発達観とは質が異なりますし「異なっててよい」わけなんですね。西欧化した社会への適応性の一面性のみ見れば、父性原理的なフロイト的自我観も有効ですが、
総合的に見れば、両方の要素があるコフートの自己心理学の方が現代日本社会 に適応性があるわけです。(まぁ個人的には、それだけでは不十分と考え、他にも様々なアプローチで試行錯誤していますが)
基層文化次元で見れば、西欧人はより分離的存在で、東洋人はより全体性としての存在ともいえ、それは西欧人的な直線的なニンゲン目線から見れば「非進化的で幼稚で未熟」なのかもしれませんが、
「ヒトの全体性」として見れば西欧人の方が「バランス異常で未熟」とも言えます。そして西欧社会も「分離性の発展型社会」の在り方に様々な問題を抱えてきた結果、東洋思想や文化に影響を受け取り入れてもいます。
そうやってそれぞれの長所短所を補い合うことで、対立的で排他的なものではなく「相互補完的な関係性」へと向かっていくことが、より豊かな全体性への方向性でしょう。
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