普遍性はいかにして暴力となるか:ヘーゲルからキャンセル文化まで

 

フランクフルト学派と批判のパラドクス

フランクフルト学派とは、1920年代にドイツのフランクフルト大学に設立された「社会研究所」を中心に形成された思想潮流であり、

マルクス主義・精神分析・社会学・美学・哲学を横断的に統合し、近代社会の権力構造を批判的に分析することを目的とした集団である。

マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ、ヴァルター・ベンヤミン、エーリッヒ・フロム、ヘルベルト・マルクーゼらが代表的で、彼らは「啓蒙」「合理性」「文化」「主体」「権力」をめぐる近代の自己矛盾を暴き出しました。

 

しかし同時に、彼ら自身が“批判の権威”として振る舞い、反証不可能な理論構造を作り上げ、批判理論そのものが新たな権力性を帯びてしまったという自己矛盾も抱えています。

この「批判の普遍性の独占」という構造は、彼らが批判した啓蒙の自己神話化と同型であり、現代のリベラル公共圏やキャンセル文化の問題を考える上でも避けて通れない論点ともいえます。

こうした背景を踏まえた上で、ヘーゲルアドルノ=ホルクハイマー、ラカン、ハーバーマス、フーコー、アーレント、デリダ、アガンベンと連なる思想史的展開が、単なる理論の継承ではなく、

「普遍性」「倫理」「正義」がいかに暴力化し、形式化し、主体を疲弊させ、そして新たな権力として機能するかという問題系として浮かび上がる。

 

ヘーゲルの普遍性と恐怖政治

ヘーゲルは、ルソーの提唱した「一般意志」を、個々人の具体的自由や社会的関係を十分に包含しない抽象的かつ外在的な普遍性として批判する一方で、カントの善意志を、理性によって内面化され、反省的に形成される普遍性として相対的に評価している。

しかしこの評価は、カントを最終的な倫理的到達点として擁護するものでは決してなく、ヘーゲルは『精神現象学』において、カントの善意志があくまで個人の意図(Gesinnung)の純粋性にとどまり、具体的社会的実践や制度に根ざした現実的倫理(Sittlichkeit)を欠く段階にすぎないと考えている。

したがって、ヘーゲルにとってカントは、形式的・抽象的な道徳の達成者であると同時に、より高次の具体的・現実的倫理の発展を前提とした一段階にすぎない存在なのである。

 

すなわち、ヘーゲルにとって、「ジャコバン的恐怖政治」はあくまで「抽象的な普遍性が自己を即自的に実現しようとした結果としての暴力的現れ」にほかならず、恐怖政治という「純粋否定性」に比べれば、カントの善意志は相対的にましな存在として限定的に擁護されるにとどまる。

ヘーゲルは、このような恐怖政治の反動として、少なくとも主体の内面においては、理性によって内面化・反省された普遍性、すなわちカント的善意志に一時的な救済の可能性を見出した。

しかし、この評価はあくまで形式的・抽象的な普遍性にとどまり、社会的現実の中で普遍性がどのように具体化され、現実的倫理(Sittlichkeit)として機能するかという課題は先送りされているにすぎない。

 

アドルノ=ホルクハイマーによる形式的暴力の分析

アドルノ=ホルクハイマーは、このヘーゲル的期待――すなわち、抽象的普遍性が内面化されることによって暴力が抑制されうるという回路――が近代社会において挫折したと考える。

その理由は明快である。カント的な道徳法則はその内容において中立であるため、官僚制や管理、効率、計算可能性と結びつくことで、ヘーゲルの期待した「暴力の抑制」は、逆に制度的・構造的な支配や抑圧の一般化として機能してしまうのである。

 

さらに重要なのは、アドルノ=ホルクハイマー自身も、この「抽象的普遍性の暴走」を批判する一方で、批判理論という普遍的批判の立場に自らを位置づけることで、特権的な解釈地点に立ってしまったという逆説である。

批判理論は、社会現象を支配構造として再解釈することを主たる方法とするがゆえに、理論が自らの権力性や解釈的前提を不可視化する傾向を免れず、批判の対象にだけ支配性を帰属させる。この構造は、批判された啓蒙の自己神話化と同型の論理的構造を持つといえる。

 

今日のリベラルな公共圏、とくに差別撤廃、フェミニズム、ジェンダー平等、多様性尊重が支配的な空間を考察する際にも、このヘーゲル~アドルノ=ホルクハイマー的洞察は示唆的である。

本来、これらの理念は歴史的抑圧と闘う過程において具体的内容を持つはずである。しかし、「正しい言語使用」「正しい態度」「正しい立場表明」といった形式的規範に抽象化されると、理念は解放の契機ではなく、遵守と違反を判定する規範装置へと変容する。

ここでも、アドルノ=ホルクハイマーが批判した形式的支配の論理が、現代の公共圏において再演されるのである。批判理論は「支配を暴く」という名目で、逆に批判の権威として機能し、異論を封じる新たな規範性を帯びる。

 

この構造を理解するうえで重要なのは、いわゆるサド的主体の存在である。サド的主体は情念に従うのではなく、普遍的原則に忠実であろうとしつつ他者を破壊する。

この行為は、恐怖政治における恣意性を抽象化・除去した結果として現れる原則への忠実さとしての合理化された残酷さである。キャンセル文化の現象も同様である。

単なる怒りの爆発ではなく、規範違反を発見・指摘・排除する行為が「当然の義務」として遂行され、文脈や修正可能性、時間性は切り捨てられる。違反は即座に人格に帰属され、社会的制裁が正義の名のもとに執行されるのである。

ここでもまた、アドルノ=ホルクハイマーが批判した啓蒙の暴力は、彼ら自身の批判理論を通じて再生産されるという逆説が浮かび上がる。

理念の抽象化、規範化、そして形式的遂行が、解放を目的としながらも暴力的な社会的構造を生む構図は、ヘーゲルの恐怖政治の分析と近代的公共圏の現象との間に連続性を示すものである。

 

ラカンにおける超自我化と主体疲労

さらに、現代特有の「主体の疲労」が重なる。倫理的に正しくあろうとする主体は、自己点検・自己修正・自己批判を絶えず求められ、「まだ足りない」「もっと学べ」「沈黙は加担だ」と圧力を受ける。

これは単なる道徳的負荷ではなく、主体の生活リズムを侵食する慢性的疲労であり、倫理が主体を支えるどころか摩耗させる回路となる。倫理が「生の条件」ではなく「生の負債」と化す地点で、主体は自由ではなく、規範の更新速度に追いつく労働者となる。

 

ラカンは、普遍性と主体の関係を主体構造のレベルで再定式化する。ヘーゲル的図式、すなわち「抽象的普遍性 → 反省 → 内面化 → より自由な主体」という過程は、ラカンによって転倒される。

普遍的命令が主体に内面化される瞬間、これが超自我へと変貌するのである。超自我は単なる禁止ではなく、命令として機能し、「享楽せよ」「義務を果たせ」「常に正しくあれ」と主体を追い立てる。

したがって主体の疲労は心理的現象ではなく、超自我という構造的産物であり、倫理は主体を解放するのではなく常に追従を要求する。この意味で、カント的道徳意志はルソー的一般意志の克服ではなく、精神分析的に変形されたものである。

 

ここで焦点となるのは、普遍性は媒介されうるのかという問題である。ヘーゲルにおいては、媒介を通じて生きた倫理へ向かう可能性が示されるが、アドルノ=ホルクハイマーにおいては、媒介の過程そのものが破綻し、形式が支配を拡張する。

ラカンにおいては媒介は、主体に超自我的暴力をもたらす。すなわち、普遍性は歴史的に洗練され得ると同時に、自己崩壊的であり、主体にとって常に暴力的でありうる。

 

現代公共圏・キャンセル文化における再演

ハーバーマスはこの系譜を受けつつ、「規範的普遍性なしに批判は可能か」を問い直す。アドルノ的否定を徹底すれば、すべての普遍性は支配、すべての規範は暴力となり、社会批判は不可能となる。

ハーバーマスはこの問題を、善の内容ではなく正当化手続きに賭けることで解決しようとする。しかし、今日のキャンセル文化においては、この手続きはしばしば省略され、自己認証が即座に制裁を正当化する。ここでも、フランクフルト学派が批判した形式の暴走が再演されるのである。

 

赦しの思想(アーレント・デリダ・アガンベン)

フーコーの規律権力もここで示唆的である。規律権力は「恐怖政治なき恐怖」として、不可視の監視、逸脱への不安、継続的自己矯正を通じ、主体を統治する。キャンセル文化は国家による処刑ではないが、行為のアーカイブ化や永久評価により、主体の未来を閉ざす。

この状況は、アーレントの言う「行為の不可逆性」を極限まで固定化したものである。アーレントの赦しの概念はここで重要となる。

赦しとは、行為が未来を決定し続けることを一時的に中断する能力である。しかしキャンセル文化にはこの中断が存在せず、行為は永久に現在化され、主体は過去の一点に還元される。

 

デリダは赦しを、原理的に不可能であるゆえにのみ赦しであると論じる。条件つきの赦しは管理にすぎず、現代の「説明責任を果たせば戻れる」という論理は、超自我構造を温存した制度的和解である。

「制度化された赦し」は、被害者の権利ではなく権力の裁量となり、倫理ではなく統治技術へ変質する。アガンベンは恩赦を「法を停止する力が法の内部に書き込まれていること」と分析する。現代の象徴的謝罪や和解政治も、被害者が赦したのではなく、権力が「十分だ」と宣言するにすぎない。

 

現代倫理の諸問題と理論的洞察

重要なのは、問題は思想や理念そのものではなく、理念が形式化・超自我化・私刑化することである。理論的処方箋は、過剰な肯定がいかに容易に支配に転化するかを歴史的に確認した結果にほかならない。

「現代の倫理的風景」は、まさに「サドとともにあるカント」がリベラルな語彙をまとって日常化した姿として理解できる。キャンセル文化はその最も純粋な表現であり、国家なき規律権力、赦しなき正義、時間なき倫理として機能している。

赦しは恒久的な解決策ではないが、少なくとも一時的に中断する能力であり、政治や倫理が「完成した正義」を名乗ろうとする瞬間にそれを裏切る力である。

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