今日は再び少し小難しい内容で、社会における「逸脱」及び「犯罪」という概念に対する「思い込み」と、認識の多元性をテーマに、社会学的な視点から書いた記事です。
過去に犯罪心理学のカテゴリーでもデュルケーム、シカゴ学派、マートンなどの社会学者の理論を幾つか紹介し、他のカテゴリーでは、ルーマンやミードなども紹介していますが、
今回は、アメリカの社会学者であり、機能主義の代表的研究者であるタルコット・パーソンズ 、 アメリカの犯罪学者であるT ハーシーの「社会的絆の理論」、そしてシカゴ学派に属するハワード・ベッカーのラベリング理論を中心に「逸脱」「犯罪」と社会の相互関係を見ていきます。
まず、最もわかりやすい、オーソドックスな 「逸脱」「犯罪」と「社会・家族・他者」の相互関係として、T ハーシーの「社会的絆の理論」があるでしょう。これに関しては以下のサイトが簡潔に要点をわかりやすくまとめてあるので、記事を引用紹介します。
「現代の少年非行と親子関係」より引用抜粋
第2項 社会的統制理論
人はそれぞれ自分の行動を統制している。そして、その統制がなくなった状況で犯罪を行う。こうした統制理論のひとつが、ハーシーの社会的絆理論である。細江(2002)は以下のようにまとめた。
社会的絆には、以下の4種類がある。
(1)アタッチメント 家族や友人などの他人に対する愛情である。道徳的絆の中で最も重要なものとされる。愛着の対象となる人々が持つ価値や考え方(例えば法を破ってはいけないなど)を、当人が受け入れることは容易である。
(2)コミットメント 犯罪を行うことによる損得勘定のことである。反法的な行動をとれば、これまでの順法的な行動によって(法に頼り、傾聴することで)得ていた地位や信頼を失うことになる。
つまり、犯罪は結果として割に合わないので行わない、という考えにつながるのである。
(3)インボルブメント 順法的な生活に関わる時間が長ければ、それだけ非合法的なものに関わる時間や機会が少なくなる。
(4)ビリーフ 社会的な規則・法律・規範の正しさを信じ、尊敬することである。
これらの絆が少ない状態、例えば両親に親密な愛着を感じていない少年はそうでない少年よりも非行を行う割合が多いとされている。
しかしこの理論は、社会的絆が合法的な性質を持つことを前提にしているが、例えば非行少年の集団に対して愛着を持てば、逆に犯罪を生むことにつながる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 現代の少年非行と親子関係
これは非常にわかりやすいですね。分類では環境犯罪学と重なります。「先天的な遺伝要因・個人の主観の特殊性、パーソナリティの病理」にのみ完結した見方や、犯罪の「原因」ではなく、
犯罪を取り巻く「後天的な個人以外の環境・外的な干渉」を重視した客観的な角度からの犯罪・逸脱の考察の一つであり、効果的な犯罪の予防を目的ともしている学問です。
「社会的絆の理論」はハーシーの統制理論(ボンド理論)のひとつで、人は何らかの逸脱可能性を先天的に有しているから、それを抑制・規制するコントロール・システムが機能障害・機能不全状態の時、
潜在的な逸脱可能性が発現し、何らかの逸脱行動となる可能性が増大すると考える、やや「性悪説」的ともいえる捉え方です。
要約すれば、「同じ時間・空間」において、「加害意識を持つ者」+「条件の合うターゲット」+「抑制力を持つ監視者の不在」=「犯罪が起こりやすい三条件」ということですね。
次はタルコット・パーソンズの「逸脱の構造」です。パーソンズは「逸脱のタイプや多元性」というものを、もっと詳細に、そして様々な社会学理論で総合的に分析しています。
以下に引用抜粋の記事は、外部サイト「学校教育相談 今日まで そして明日から」の「逸脱の構造」のページから引用抜粋したものです。⇒ 学校教育相談 今日まで そして 明日から
「逸脱の構造」より引用抜粋 「第1節 社会学の視点」
1.逸脱のタイプ
パーソンズは、「同調優位-離反優位」と「能動性-受動性」の2つの軸によって逸脱のタイプを4つのタイプに整理し、<強迫的履行>、<強迫的黙従>、<反抗>、<撤退>と名づけている。
<強迫的履行>は、外見上は適応しているようでありながら、実際は価値を余裕のない仕方で偏執的に追求している点で逸脱している。
<強迫的黙従>も、問題が表面化しないが、価値追求を放棄したり阻害しているに等しいという点で逸脱している。
<反抗>は、説明不要だろう。
<撤退>は、戦線離脱である。しかし、価値を安易に放棄したわけではないから、離脱したことに強迫的にしがみつく以外にない点は注意しなければならない。
一旦補足ですが、パーソンズを知らない方のために、基本的な情報として以下のサイトを参考に紹介しておきます。⇒ タルコット・パーソンズ
では引用・抜粋の続きです。
逸脱の多元性
逸脱のタイプはさらに多元的に考えられる。「臨機応変-一貫性」と「個別的-全体的」の2つの軸によって4つに整理し、<能力性><忠節性><道徳性><合法性>と名づける。
<能力性>は、代表的逸脱イメージは病気,無能など。評価の焦点は各人の環境制御能力ないし知識の信頼性などである。
<忠節性>は、代表的逸脱イメージは不忠,無責任など。評価の焦点は各組織に対する忠誠心,各義務履行の責任感などである。
<道徳性>は、代表的逸脱イメージは罪,不道徳など。評価の焦点は各人の徳性や信念,信仰などである。
<合法性>は、代表的逸脱のイメージは犯罪,違反など。評価の焦点は法規定の尊重,法に対する正当性の承認などである。
逸脱の独立性
逸脱のタイプや多元性は、相互に独立している。ある次元で<同調-能動>タイプであっても、他の次元でも同じタイプであるという論理的必然性はない。
また、特定の集団や規範ではある逸脱タイプであっても、別の集団や規範の関係では逆の逸脱タイプになることもある。それは、個人や時代や社会によって逸脱の基準が違うことがあるからである。
ここで一旦補足です。
「功利主義」という観念の枠組内で、私的利益追求をベースにした目的合理的行為から人間をとらえる時、そこには「ホッブズ問題」が生じ、アノミーが生じます。
パーソンズは、どうすれば社会秩序が可能か?という複雑で難解な問題を考察し、人の共通の価値・規範の概念を中心に置いて、その「内面化」による社会秩序を構想し「ホッブズ問題」を解決しようと試みました。
※ ホッブズ問題とは、すべての人間が自己利益を追求する状態である時に、「万人の万人に対する闘争」=「パイの奪い合い合戦」にならずに、どうすれば社会秩序は成立するか?という問題です。
では引用・抜粋の続きです。
欲望の無規制状態
現代社会は、自由と平等と博愛が1つになった道徳的共同体を理想としてきた。しかし、博愛の精神が薄れるにつれて、自由や平等の精神も変わってきた。
行き過ぎた平等の精神は、中庸の満足を忘れさせ、欲望の無規制(「アノミー」)の状態をつくり出す。それは中産階級の人々を無制限の競争に駆り立て、次に下層階級の人々をも巻き込んで競争社会を生み出す
しかし、やがて目標だけは平等に配分してくれるが、手段は不平等にしか配分されていないことが明らかになってくる。それに対する怒りの感情が生まれる。
一方、無規制状態の中では選択の基準が一層曖昧になり、自由に選択できることは却って耐えがたい苦痛になる。
ここで一旦補足です。
近代社会を一面的に見るならば、確かに「功利主義はある種の役割を果たした、果たしている」とも言えますが,そのことによって失われたもの、様々な質の虚無化による外的反動や内的病理を生む原動力にもなっているわけですね。
では引用・抜粋の続きです。
(2)他者思考型社会
現代社会では、身近な<他者>に同調することによって現代社会の競争と責任から逃れようとする傾向が強い。他者によって様々な選択肢が提供され、価値は多元化するが、一貫性に欠けてくる。そこで、一元化を求める動きが強くなる。
公的に調整された規範としての<合法性>と、全体的な臨機応変な対応を目指す<能力性>に収斂していく。一方、<忠節性>と<道徳性>はないがしろにされていく。
(3)同調優位から離反優位へ
<他者志向型社会>は<同調優位>の社会であるが、<同調>しようと努力しても報われないことが重なると、<同調>を制御する機能が働いて<離反>の方向へ逸脱していく。
その場合、<能動性>が強いと<反抗><謀叛><異端><アウト・ロー>となって現れ、<受動性>が強いと<病気><無責任><アパシー><逃避>となって現れる
生徒の現象でいえば、前者の代表が非行、後者の代表が不登校になる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 逸脱の構造
次は、シカゴ学派に属するハワード・ベッカーのラベリング理論です。この理論は、「社会統制の強化こそ逸脱行動の増加をもたらす」という想定に基づいた理論であり、
統制理論へのアンチテーゼ的な使われ方をよくします。この理論に関しては、外部サイト「ラベリング論から構築主義へ」でわかりやすくまとめてあるので。以下に引用紹介します。
以下「ラベリング論から構築主義へ」より引用抜粋
ラベリング理論 (labelling model)
逸脱は,ある行為を逸脱と判定し,ある人間を逸脱者と判定するラベリング行為を通じて発生する(⇒ 社会統制の強化こそ逸脱行動の増加をもたらす)という想定にたつ理論。1960年代に,ハワード・ベッカーによって提唱された。かれはこれまでの授業とのかわりでいえば,シンボリック相互行為論の潮流に属する社会学者である。
これらの行動に対する規制を強化すると,安全で清潔な社会ができるかというと,かならずしもそうではない。
たとえば,アメリカでは1920年代に禁酒法が実施されたが,実際にアメリカ人の多くは飲酒を続け,酒類の販売が非合法になったので,かえって犯罪集団の資金源になった。そのため,1930年代にこの法律は廃止された,
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ ラベリング論から構築主義へ
もうひとつの参考サイトとして、社会学者で国学院大学教授の野村一夫 氏による社会学サイト「ソキウス(Socius)」の記事も引用紹介しておきます。 ※レイベリング論=ラベリング論
以下「ソキウス(Socius)」 より引用抜粋
「さまざまな暴力概念 暴力とはなにか」
1)犯罪的暴力 (2)国家的暴力 (3)構造的暴力(中略)
レイベリング論――共同体のなかで、他者が特定の人びとに「乱暴者」「ならず者」といった烙印を貼りつけ、そのようにあつかっているうち、烙印を押された当人がそのラベルにふさわしい暴力者の役割を演じるようになる。
たとえば学校でたまたま友人と口論になり暴力を振るってしまった少年が、それ以後、みんなから「乱暴者」あつかいされているうちに、ますます嫌われ者になり、その反動として暴力をエスカレートしていくケースなど。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ さまざまな暴力概念
「ラベリングの問題点」に関しては、記事の最初に紹介した「社会学概論 12 社会的逸脱」でも簡潔にまとめてあるので、以下に引用抜粋していますが、ラベリング理論のみで全てを片付けることは問題・矛盾が多いです。
ラベリングの問題点
1) 逸脱と規則の政治性・相対性を過度に強調する問題
⇒ たとえば「刑法に関する規則の多くには市民的合意がある」
2) 逸脱の増幅過程を強調する問題
⇒ ラベリングと見なされがちな統制・処遇にはプラスの効果がある
3) ラベリング論の対象領域が犠牲者のいない逸脱に限定されている問題
ですが、過剰で過度なレッテル張りや、魔女狩り的な一方的過ぎる同調圧力の集団的否定作用で、意識が変質してしまうことも実際にありますので、不適切で過剰すぎるラベリング行為によって精神的に物理的に追い込むことで発生する弊害があることもまた事実です。
ではこれまで紹介した理論の問題点や捉え方の総括・まとめとして、 日本の犯罪学および刑法学学者・立命館大学教授の上田寛 氏のPDFを紹介します。
⇒ PDF 犯罪学の課題と方法をめぐって – 立命館大学
社会問題の構築
今回の記事のラストは構築主義です。これもラベリング理論と同様に、使い方次第では適切にも不適切になりえるものです。では再び先に紹介した「ラベリング論から構築主義へ」から引用・抜粋です。
以下「ラベリング論から構築主義へ」より引用抜粋
社会問題(social problem)の構築
ある社会現象が社会問題であると主張することを,クレイムを申し立てるという。クレイムへの反論を対抗クレイムという。クレイムと対抗クレイムとが論争をするなかで世論が定まっていく。このような場を構築主義の理論では,公共のアリーナという。
公共のアリーナで勝利した集団や組織はさらに社会問題の「所有権」をもつようになる。社会問題を「所有」するとは,ある状態が「問題」であると定め,どう対処したらよいかを示唆することができるようになることである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元 ⇒ ラベリング論から構築主義へ
クレイムもあまりに過剰すぎる場合、病的なクレイム・クレーマー問題ともなり、そういう人が増えれば、アメリカ社会のような、互いが見境なく配慮もなく権利を主張しまくる訴訟社会になりえます。
またクレイムが過剰な規範主義・権威と結びついた場合も、以下のニュースにあるような、異常とも言えるような不適切な規範の押しつけが起きてしまいます。取るに足らないことが、こんな過剰な社会的制裁にまで発展してしまうわけですね。
米国で6歳の男児がセクシャルハラスメントを理由に退学処分を受けた。コロラド州キャニオン・シテイの小学1年生、ハンター・イェルトン君は隣の机に座る女の子の頬にキスをしたところ、
学校指導部から「無作法な、しつこい行為」とお咎めを受け、登校を禁じられてしまった。テレビ「ロシア24」が報じた。
教師会は男児のこの「過失」は将来「ハラスメント」を形成し、よくない結果を生みかねないとして、米国の学校で記載される個人のデーターファイルに書き込む意向を示している。
これに対し、ハンター君の母親は、この年齢の子どもの行為としては全く普通と主張したものの、校長先生は「学校で女生徒にキスをするなんて、絶対に許されることではない」と答えた。
引用元⇒ http://japanese.ruvr.ru/2013_12_11/125752166/
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