自殺が減らないカラクリ  日本版の「デュルケム 自殺論」 と 若者の自殺   

 

自殺が減らないカラクリは、イジメが減らないカラクリと同じだと思います。今日はこのテーマで書いていきますが、今まで自殺に関して書いた三番目の記事で、この三つの記事で私の自殺に関する分析は大体完了です。

今後も自殺の考察は記事テーマからは外しませんが、本質的なことは今までの三つの記事でほぼ書いたように思います。以前の記事は以下のリンクより。

 

以下の図は、「自殺でなくなった523人」の遺族や友人、合計1000人へのインタビュー解析によって明らかになった自殺の原因です。※ 図は自殺実態白書2013, 特定非営利活動法人 自殺対策支援センタライフリンクより。

その他 統計参考

◇  自殺の現状及び自殺予防対策の取組状況等
自殺死亡統計の概況 人口動態統計特殊報告
平成27 年の自殺の状況

「自殺論」 デュルケム

本書のサブタイトルが「社会学研究」と題されている。これは、デュルケムの社会学的研究の根底にあった関心のひとつが、功利主義やアノミー(欲求の無規制)の蔓延よって危機にさらされている近代社会の統合をいかにして回復させるかという点に根ざしていることを示している。

またデュルケムは、かれの個人的経験の中で、高等師範学校の同窓生で無二の友であるヴィクトール・オンメーを自殺と推定される死によって失っている。1886年のことである。だから、かれは自殺という一種特別な行為にある深い人間的な関心を持っていたといわれている。

【参考・引用】 『岩波・哲学思想事典』 『自殺論』解説

自殺の種類説明
◆ 自己本位的自殺
・社会的自我に逆らい、それを犠牲にして個人的自我が 過度に主張される
ような状態。
◆ 集団本位的自殺・自我が自由でなく、それ以外のものと合一している状態。 その行為の基軸
が自我の外部、すなわち所属している集団 に置かれている状態。
◆ アノミー的自殺・『自殺論』(1897)では、欲求への規制が欠けて、欲求が異常肥大を起こし、
慢性的な不満や苛立ちを引き起こす状態をアノミーとし自殺を生じやすくする社会心理状態の一つと規定した。
◆ 非社会的要因・自殺の非社会的要因には、精神病的状態、人種、遺伝、宇宙的要因(自然界)、模倣の5つがある。

日本版の「デュルケム 自殺論」

 自己本位的自殺

個人は社会的環境の相対性の中で「社会的比較」によってその価値は上下にゆらぐつまり人の生の価値は社会に依存していると言えます。 

大きな物語を失った近代社会では、人々は個人主義へと向かう。その状況において社会から切り離されて孤立化していると感じれば感ほど、それだけ生の価値、拠り所を見失ってしまいやすい。

そして日本社会は地域社会の崩壊や他者との繋がりの希薄化によって、身内や配偶者以外の人との支え合いが世界的に少ない国になっていることを前回に書きました。

つまり定年・リストラ・就活失敗・社会的失敗などによって、「社会から外れた感」が高まった時、仕事以外に社会との一体感も少なく繋がりや支えも少ない日本人は、あたかも「人としての存在意義を全て奪われた・失った」と感じやすい状況にあるのです。

 集団本位的自殺

① 社会が個人をあまりにも強く従属下におい ているところから起こる。

②生に執着しないことは偉大な徳であり、生を断つことそれ自体が、これといった理由もなく賞賛されるために自殺が起こる。

以下は日本の高自殺率についてのWHO精神保健部ホセ・ベルトロテ博士のコメントである。

「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている。これは他のアジア諸国やキューバでもみられる傾向だ。」

引用元 ⇒ 「人文科学の基礎」最終レポート 齋藤洋子 2010/7/21

 自殺と集団本位主義 ――デュルケム「集団本位的自殺」に関する一考察――

 

ブラック企業による徹底的な抑圧労働をはじめ、メディアによる過剰な印象操作と同調圧力、日本的な群衆秩序による管理社会と「みなと同じでなければならない」という「息苦しさの空気」。

仕事をしていても学校にいても、地域社会においても、家の外のどこにいても、四六時中この「息苦しさの空気」が社会に蔓延化している。

つまり日本の場合は、もはや小さなコミュニティーだろうとより大きなコミュニティーだろうと変わらず、どこへ行っても何をしていても、ずっと「情報・印象・言葉・態度による同調圧力と群衆秩序による管理意識」に見張られているかのような、過剰に束縛された空間が形成されている。

人とのほんの僅かな差が、「弱み」「侮蔑的要素」のような批判対象になり、余程親しい人以外には、ちょっとしたホンネさえガッチリと抑え込んでいなければ誰に何を言われるかもわからず、

しかもいったんメディアなどで周囲に広まるともう大変、連日徹底的に報道して繰り返し拡散し、「一億人総出で一人の個人を追い込む」という「大人のイジメのシステム」が作動する。

そしてこの「大人のイジメのシステム」は、カルト宗教なんて全く比較にもならないほどの大きな被害を出しつつ、それ以上の大きな利益をあげているため、ホンネではもうやめられない止まらない関係者たち。このようににして出来あがったのが「タテマエ・つじつま合わせの大人社会」なのです。

そして今・昔にかかわらず、自殺はしば しば美化される傾向にあり、今の日本場合は、明らかに「他の負の力学」が大きく作用している場合でも、「全ては自己責任」と全てを個人が背負い込むことが美化される傾向にあります。

このため日本社会では、弱者ほど追い込まれた時の支えが少なく、外的圧力だけは大きくなるという「法に触れずに、弱者を精神的に殺す究極の大人のイジメのシステム」さえも完備されている社会なんですね。

この社会が有する二つの装備は、長崎と広島の原爆二つ以上の力を持つ。戦後に自殺した日本人の数は既に100万人を超えているのです。

※まぁ自殺の原因は全部がそれだけでもなく今回はやや表現がオーバーですが、ポイントを浮き立たせるために敢えてこのように書いたわけです。

 アノミー的自殺

自殺死亡者のうち、最も多いのが「健康問題」次が「経済・生活問題」、3番目が「家族問題」となっていますが、

デュルケームは自殺者を3つの種類に分けていて、「健康問題」「経済・生活問題」アノミー的自殺、で「家族問題」自己本位的自殺に分類されますが、ここで注意が必要です。

一番上の図にあるように、そしてこのブログで今まで書いてきたように、家族という単位は社会の最小単位であり、決して社会と無関係な自己本位の自律的コミュニティーであはありません。

一番上の図の「家族間の不和」「DV」による自殺が、職場の関係や経済問題にその根底がある、という大きな傾向を読みとるならば、やはりそれもアノミー的要因が根底に絡んでいるんですね。

つまり社会が欲求を煽るにも関わらず、個人として欲求充足は不可能であるという矛盾からの自殺者が日本では圧倒的に多いわけです。

また、アメリカの社会学者、ロバート・キング・マートンは、論文「社会構造とアノミー」において、文化的目標とそれを達成するたの制度的手段にギャップが存在する場合にアノミーが生じるとしました。

この主張は「緊張理論」と呼ばれますが、つまるところ今の日本の社会システムは、社会の文化的目標を達成させるシステムになっていないにもかかわらず、

その根本的なシステムを全く変えずに精神論ばかりで個人を追い込み、システム的に無理なのに精いっぱいのギリギリまで努力させて、正論やタテマエ・理想論ばかりが世にあふれている。

それで結局、文化的目標に対して正直者で頑張る者ほど馬鹿をみるような社会になってるわけで、まぁ必然的にアノミーが生じるわけですね。

日本版の「デュルケム 自殺論」をまとめると以下の構図になります、

「アノミー的要因」+「集団本位的要因」が個人に外的な圧力としはたらいているが、追い込まれた個人は孤立化した状態であり、周囲も放置。その結果「非社会的要因」である精神病的状態へと状態は悪化し、最終に自殺。 その個人の自殺原因はおおむね「自己本位的自殺」とされる

という構図ですね。ですが複合的な原因の中に、「アノミー的要因」+「集団本位的要因」があるわけですね。それを全て「個人の問題」に押し付けて「自己責任化」して完了してきたから減らないんですね。

だって「アノミー的要因」+「集団本位的要因」こそ「外的な要因」なのに、それはそのままで、「個人」の内的な問題ばかりを徹底して意識させることで、

さらに「集団本位的要因」を強化し、「個人追い込みの悪循環」を作り出しているわけです。社会はよっぽど「レールから外れた若者」「高齢者」「社会的弱者」「社会的失敗者」をサッサと死なせたいんでしょうね。

この記事テーマとはまた少し違った角度から、「現代の日本の自殺」という現象をデュルケムの自殺論によって考察している 阪本 俊生教授の論文へのリンクを以下に紹介します。

デュルケムの自殺論と現代日本の自殺*―― 日本の自殺と男女の関係性の考察に向けて――

若者の自殺

「20代30代の死因 自殺が一位」なのは「それ以外で死ににくいから当たり前」は大きな誤り      より引用抜粋

以前、自殺に関する3つの誤った認識を正す試みにて、韓国の自殺率が日本より高い事を示しましたが、こと20代30代に関しては、

日本の方が自殺率が高いのです。韓国の社会は、競争社会であるとよく言われますが、そのような韓国よりも若年層の自殺が多いのです。ちなみに、死亡率は、人口十万人に対する数です。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://d.hatena.ne.jp/karimikarimi/20120610/1339332370

「生きるのに必死だったら自殺などしない」「余裕があって暇だら自死を考える」などというのは錯覚です。子どもの自殺率は昔のほうが高いんですね。

戦前、ギリギリの生活の中で「追い詰めらた子供」は、余裕も自由も暇な時間もない「生き残るためだけのがむしゃらな生」の中で、現在よりもずっと多くの子供たちが自死を選択しました。

戦後直後からしばらくの期間も、大きな時代の過渡期の中で葛藤が生じたことにより自死は増えましたが、これは時代の急激な変化によるアノミーの発生によるものが大きいといえます。

そして「高度成長期」とか「戦中」は一旦下がるわけですが、これはデュルケムの自殺論による「自殺率は社会の統合の度合いに比例する」という言葉にもあるように、

「集団が一丸となって同じ目標を抱いている疑似的な統合状態が、アノミーの発生を打ち消す効果によるもの」と考えることが出来ます。 高度成長期とか戦中は本当の「調和的な統合状態」ではなく「硬直した統合状態」と考えています。

そして高度経済成長も終盤に差し掛かってきたあたりから再び自殺が増え始めるわけですね。現在はさらに増えてきているのですが、その動機のトップが「学業不振」「進路の悩み」「うつ病」です。

これは子どもたちにとって「過酷な受験勉強」とその競争の在り方が心身に大きな負担となることを表しており、小中学生では「学業不振」、高校では「進路の悩み」、大学では再び「学業不振」がトップです。

過酷な競争、学業での相対評価があたかも絶対であるかのような閉塞した環境設定が「そこで低く相対化された個人」「上手くいかない個人」を追い詰めるわけですね。

受験や学業の成績だけで人生のすべてが決まるかのように思い込まされた状況下での失敗は、「もうどこにも逃げ場がない」という絶望感を子どもたちに生じさせることは当然の結果でしょう。

それによって自己肯定感を大きく奪われ、世の中から全否定されたような気持ちになるわけです。ただこれは「男子」に特徴的な傾向性で、「女子」の場合は家族・友人などの「対人関係」が動機として優位になっているので、男女によって異なるもの、と考えていた方がよいでしょう。

そして韓国や中国でも受験戦争が激化するのに比例して若者の自は増えています。韓国は2003年~2009年のわずか6年で自殺者は二倍に増えています。

それだけ大きな心理的負担になっているわけですね。具体的な統計・数字など参考として以下の記事を紹介しておきます。

〇  小・中学生の自殺、原因の1位は「学業不振」

〇 受験競争が激化、増える若者の自殺 韓国

〇 自殺者が後を絶たない過酷な中国「大学入試」

 

他・関連記事の紹介

人を殺さない代わりに、自殺していく若者たち

若者の”自殺”が深刻、20~39歳各年代の死因は

ではラストに、若者向けの曲として、amazarashiナモナキヒト』と中島美嘉僕が死のうと思ったのは(MUSIC VIDEO short ver.)』を紹介し記事の終わりとします。

 

amazarashi 『ナモナキヒト』

 

中島美嘉『僕が死のうと思ったのは(MUSIC VIDEO short ver.)』

 

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