今回は二つのテーマで書いた記事です。ひとつ目のテーマは、今まで「家族の心理学」のカテゴリーで扱ってきた「無意識の負の影響」に関する補足記事として「イジメの無意識的構造」を書き、
もう一つは「虚無を生むもの」のテーマで「全体性から見た自我の病理と虚無」をテーマに書きました。 この二つのテーマもまた、深いところではリンクしているからです。
「全体性から見た心・精神の病」、それを加藤諦三 氏はわかりやすい例えでこう語ります。
「体に悪い食べ物をたくさん食べた時に起る肌荒れや、皮膚のできものは、すぐに分かってしまう嫌な気分にさせられるものではある。しかし、本当に怖いのは、肌荒れではなく、内臓の病気である。
肌荒れは、すぐ自覚できるが故に大変な問題に発展することは、それほど多くない、しかし内臓の病気は気付かない間にゆっくりと進行し、気付いた時には深刻な事態となっている可能性が高い」
次に紹介のアニメーション動画は、いじめられた女の子のショートムービーです。シンプルですが、女の子の心の変化の描写がとても良かったので紹介しますね。
場に渦巻く悪意のコトバと想念が 渦のように 波のように意識を包み、それに飲み込まれる時、「優しい子」ほど集団の呪いの意識を大きく強く感じてダメージを受け、心に大きな穴をあけてしまいます。
子供・少年・少女の心・精神の成長に問題がある時、世間は親・家族だけに責任があるかのように過剰に批判しますが、実際個々のケースによっても異なり、親・家族の負の力学だけが強く作用しているわけではなく、時には周囲の人々の無理解、そして悪意や心無さが最も大きな要因であることもあります。
もうひとつ「今いじめられている子供たち」へのささやかな応援歌として動画を紹介します。この動画は、イギリスの人気オーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」で二人の少年がいじめについてラップで歌っているもので、和訳の字幕があります。
。
イジメは「加害者」がいなければ起きません。被害者の心のケアは必要ですが、日本の社会は「加害者」の心理状態の方にはあまり目が向いていません。
逆にアメリカでは「加害者」にカウンセリングを受けさせるといいますが、イジメ問題の大元である「加害者」の心理にスポットを当てることも必要だと思いますね。
◇ 関連外部サイト記事の紹介(追加更新)
心・精神の病が先天的な機能的障害がメインであれば、それは元々の個体の機能の異常ということは出来ますが、そういうケースを除いて、多くの場合、心・精神の病は先天的なものだけなく後天的な複合的な要因で成り立っています。
例えば親子・家族の関係、そして社会的な要因、様々な外的干渉による影響力で個の自我意識は形成されていくからです。
この記事では「イジメの無意識的構造」をテーマにしていますが、より具体的・現実的なイジメ対策・情報と子供の教育に関しては以下の二つのサイトをおすすめ紹介しておきますね。
全国webカウンセリング協議会 安川雅史が解説する「いじめがなくならない理由」
イジメの無意識的構造
再び加藤諦三 氏の言葉を紹介します。
病んだ集団は、誰か一人を犠牲にしてその集団を維持します。その人が一番心の優しい人なんです
この言葉も奥が深いですね。まだ小さな子供の頃は、自然自我の先天的な強弱・能力の相対性によって、いわば動物的な原理でイジメが行われます。なのでこの頃の優劣は主に自然自我及び体の強弱の差異がメインになります。
少し大きくなると、その社会・大人の影響による社会的自我が芽生え、それと自然自我のミックスした「動物+人間」の状態でイジメが行われます。この頃になるとイジメは精神的なものが含まれてきます。
例えばその子の親・家庭がどうだとか、ルックスや総合的な能力の評価など、より社会的な評価での優劣が加わってきます。
そして大人は、主に社会的自我による区分けと優劣の意識によって、精神的なイジメを合法的な形の中で合理化して行います。ここでは目に見えない形で無意識的に精神的な圧力が加えられます。この社会ではそれが認められてさえいます。
そのような「無意識的圧力を受け続ける側」は、主に下の立場(立場的に弱い側)の人間、あるいはより小数派・劣勢な側です。そして「無意識的・意識的に与え続ける側」は、主に上の立場(立場的に強い側)の人間、あるいはより多数派・優勢な側です。
親子から子供への無意識の流れ
そして無意識的圧力を受け続けた大人の無意識の劣等感が子供に転移した場合、子供は「本来何も悪くなく問題はない」にも関わらず、劣等意識が芽生え、それを受け入れてしまうことがあります。それが自然自我の優しい子供です。自然自我の強い子は簡単には受け入れません
そして自然自我の優しい子供は「無意識的な卑屈な謙虚さ」を持つようになります。「自我の強い子」が「自我の優しい子供」をイジメる、という構造がまず生じてきます。
「親の無意識の劣等感の負の影響に反発した自然自我の強い子」にとって、「親の劣等感」は無意識的な嫌悪の対象であり、「それを受け入れている子」も嫌悪の対象になるからです。
そしてもうひとつのパターンは、「無意識的圧力を与え続けている大人たちの優越感」が子供に転移した場合、子供は「何も他に優越していない」にも関わらず、それを受け入れてしまいます。そして「無意識的な傲慢さ」を持つようになるのです。
それによって、「優越を受け入れた側」が「劣等を受け入れた側」を無意識的にイジメ始めるのです。これは水が高いところから低いところに流れるように、活力のある方が活力のない方へ向かう自然原理です。
これが「内的に調和している自己」では、自然に弱い側へ意識が向かっても「攻撃対象」とはならず、むしろ相手をフォローし思いやることが自然に出来るのですが、
「内的に不調和な自己」にはそれが出来ません。それは「自己のアンバランス」が他者によって刺激され意識されることで、相手・外側に問題を投影し、「それを排斥・嫌悪することで内的バランスを補完しようとする」からです。
このような場合の敵意や嫌悪は「自己充足的」なものであり、相手・外側に問題を投影しているため、それが「自身の敵意や嫌悪それ自体の生んだ現象」だとは自覚せず、「相手・外側が原因で生じた現象」に置き換えられるのです。
ここで書いていることは、ニコラス・ハンフリーが「私たちは、他の人々を、彼らが何かしたからではなく、私たちが彼らに何をしたかのゆえに嫌う傾向がある。」と語る、その場合の敵意や嫌悪の背景にある力学も含まれています。
それに関して書いた過去記事があるので参考にどうぞ。 ⇒ 不安・嫌悪とイジメの原理
また逆に「無意識的な傲慢さを持つが自然自我が弱い子供」の場合は、「親の無意識の負の影響に反発した自然自我の強い子」にイジメられることもあります。
何故なら「自然自我の強い子」にとっては、「自己欺瞞で強がっているだけの弱さ」は「無意識的な卑屈な謙虚さを持つ子供」と同様に、「不自然で鼻につく対象」だからです。
ところが、子供たちが成長し、社会的自我が優位になってくると、自然自我基準の強弱や優劣ではなく、社会的自我基準の強弱や優劣にシフトしていくため、「自然自我の強い子」がイジメられることも起き始めてきます。
より小数派・劣勢な側であるか、より多数派・優勢な側であるか、そしてどちらが社会的に優位かが基準になるからです。そうすると今度はイジメられる側がイジメる側になったり、そうなろうとする心理も生じてきます。そうやっていじめの心理は複雑化し、連鎖して継続されていく。
他のパターンでは、子供が子供らしく自然自我のままであることを認めず、やたら大人の社会的自我による正義・正論・理屈で押さえつけて矯正するような過剰な躾をした場合、表面的には良い子になり、大人しく目立たない子になりますが、
このような従順さは内的な調和を伴っていないことが多く、後に様々な心身の不調和として現れてくることがあります。そして自然自我がイビツ化し機能不全状態が深刻な場合は、その後に心・精神の病理になって顕現化してくることもあります。
このような人々の中にも、他の存在への内的な攻撃性・敵意を外側に投影し始める人も出てきますし、自我の強弱によってイジメられる側・イジメる側になったりすることもあります。
加藤諦三 氏の言葉をもうひとつ引用します。
従順の裏には敵意があります。従順だという人をあまり軽く見ないでください
このことに関連するは過去記事も参考にどうぞ。⇒ 自我は弱めるべき? 強めるべき? なくすべき?
このテーマに関連する内容で、社会学・精神医学・社会学社会心理学的に考察した記事を以下に紹介します。
〇 パレートの法則と「機能不全社会」の「神経症的」パーソナリティ
〇「機能不全社会」での「パーソナリティ障害」を生む「自我意識」の形成とそのタイプ
〇「原因」の外的・内的帰属のバイアス 「原因帰属のエラー」
自我の虚無と無意識の流れ
自然自我を持つ個の人間集団を統合するために社会システムは形成され、社会的自我は社会システムと相互作用しつつ形成されている。つまり自然自我と社会的自我も相互に作用し合い、自然自我と自然界も相互に作用しています。
社会的自我はそれ自体では存在せず、相互作用の複合的な力学で生み出された「仮象」ですが、相互依存的には存在します。
「実体のない自我」によって生み出される「実体のない恐怖と不安と絶望が意識に投影された結果の心象」が「生」を分離化し、それによって生じる「人為的な生の否定」が「偽の虚無」=「偽の闇」です。それは過剰に分離化された存在の心の反動に過ぎません。
そして初期的な段階では、「実体のない自我」によって生み出される「実体のない信念と希望と理想」が意識に投影された結果の自我の光を求めることで、「虚無」を「排斥すべき忌まわしき闇」として抑圧・敵視します。
これは主に「宗教・宗教的なるもの」によって行われ、行われてきた「自我の生む恐怖と不安と絶望」から生じる「虚無なる自我の生への反動」です。
ですが、次の段階に進むと、理性の働きによって自我の光の嘘に気づき、思考パラドックスに気づき、それを信じることの無意味さに気づいた時、そこにはむき出しの「自我の虚無」が現れます。
ですが人は「虚無」であり続けることの苦痛から、通常はそれを「脱パラドックスよる思考変換・回避」を行って自動スルーします。それが多くの一般人の社会的自我の維持方法です。
ところが「虚無への気づき」から回避へと向かわずに、さらに次の段階に進むと、「社会的自我」の存在意義が根底から否定され、社会の中での仮想的な自我の生を冷めた目で見始めます。
ここで限界になった人は、一部は三島由紀夫的な強きニヒリズム(行動主義)によって「超人」へと突き進むか、また一部は太宰治的な弱きニヒリズムで自己正当化し退廃へと向かう場合もあります。
つまり自我に対するネガティブな反動形式が虚無主義(ニヒリズム)厭世主義(ペシミスト)を生みます。ですが多くはその先に進むのを諦め、再びオプティミズム(楽天主義)へと向かい忘却的回避をします。
「もうごちゃごちゃ複雑に考えるのはやめよう、考えてもわからないことを考えても無意味・無駄だし、それよりも人生楽しくいこうぜ!」というよくあるあれです。
思考的アプローチというものは限界があります。なので大抵はそうやって「思考パラドックス自体への思考的追及」を止めるわけですね。
ところが自我の虚無から生まれた思考的追及がもっと進むと、社会的自我を生みだした大本である自然自我も否定します。さらにもっと進むと自然自我を生みだした自然界の生命原理をも否定します。
「思考機能が他の機能と調和的に連携せずに不適切に過剰に使われているような場合」には、そういうことが起こるのです。このことに関しては過去記事で書いているのでそちらを参考にどうぞ。⇒ 理性・知能至上主義と過剰な合理主義の生む「現代の虚無」
自我の虚無から生まれた思考は全てを否定します。 「何故そんなことが言えるのか?ただの理論ではないか?」と思うかもしれませんが、私は十代の頃~二十代前半にかけてこの状態になり、
自我の罠から病的退行へ向かい、そこを抜けられずに自死を常に考えていたからです。そして今、このような若者が社会の水面下では増え続けている現実・事実があるのです。
自我の生む偽の虚無感に長い間埋没して「うつ化」していた私は、ある時自我が無に消失する状態を経験しました。そしてその時「存在の虚無」に感応し恐怖したんですね。そこには何があったのでしょうか?それはまた次回に書きますね。
コメント