幼児的万能感と神秘主義
今回は、ミスティシズム(神秘主義)・幼児的万能感と実存的欲求不満をテーマに書きます。
神秘主義とは、絶対者、神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のことです。参考 ⇒ ウィキペディア 神秘主義
病的退行の過程で、自我の虚無への反動として自己愛がナルシズム化し、様ざまな仮想の世界で万能的自己を維持しようとします。そしてそれが慢性化し病的になると「自己愛性パーソナリティ障害」となります。
そしてこのような状態の人が、オカルト・秘教系の神秘主義にはまり、自我の退行・逃避の運動を仮想の世界へと強力に移行させ、幼児的万能感と結びついた場合、自らが「絶対者」「神の化身」「一番正しく唯一の真理を知るもの」などという絶対的なナルシズムへと向かいます。
さらにそこに無意識の内的体験がビジョン化されそれを世界と同一視すると、完全自己完結した神秘系オカルト教祖化の方向へ向かい、「自我の病理」を自己認識することが全く不能な状態へと進行していきます。
そこにさらに多角的な様々な要素・力学が加わると「カルト系の組織」となったりしますが、それは以下の過去記事で詳細に分析しているのでそちらを参考にどうぞ。
⇒ 神秘系カルト組織・一人教祖(スピリチュアル霊能者含む)発生構造と原因
ですが様々な条件が複合的に揃わない限り、通常はそこまではなりません。多くの場合、心理構造は同質でも、その手前で仮想の世界にはまっている病的レベルが殆どでしょう。
上記のレベルにまで至らない一般レベルで一番多い幼児的万能感の病的状態は、以下のサイトの記事で要点を良くまとめてあたので引用紹介しますね。
「反省芸術・糸崎公朗blog3」 より引用抜粋
「認識の分離と万能感」
万能感のある人は、人間関係が認識出来ず、つまり認識対象の分離が出来ない。そのような人にとって様々な他者たちは分離不能の「一塊の他者」として認識され、それはさらに「一塊のファンタジー」として自分の内に融合される。
状況判断能力が低下して、ついには消失してしまった人が存在する。あるいは、子供から大人になるに従って形成すべき状況判断能力を備えていない人間が存在する。
万能感は独我論と結び付いている。自分が認識しなければ世界は存在せず、自分の存在が世界の存在を左右する。
(中略)
万能感を持つ人は、状況の変化に対応しない事によって、状況そのものを支配しようとし、他者との間にトラブルを生じさせる。状況の刻々と変化する様を捉え、それに応じて自分の都合を変化させなければ、自分の居場所がそこにはなくなるということを、万能感を持つ人は認識できない。
自分の想像や思い込みを超えて、他者は自分に反応し、それによって状況は自分の思惑を超えて変化する。そのようにすっかり変化してしまった状況を、万能感を持つ人は全く認識せず、既に無効になってしまった過去の状況に対応するため、無駄な努力をして他人に迷惑をかけてしま
う。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ 認識の分離と万能感
実存的欲求不満・実存的虚無感
フロイトやアドラーと並び、心理療法のウィーン学派三大潮流の一つとして挙げらるオーストリアの精神科医・心理学者 フランクルによって、意味中心療法(ロゴセラピー)が創始されました。
■ フランクルに関連する過去記事 ⇒ 苦しみと悲しみの果てに現れる「存在の虚無」
「虚無を生むもの」のテーマでこれまでも書いてきたように、「実存的欲求不満・実存的虚無感」というものが、現代の心・精神の病のひとつの心理的力学として根底にあります。
「実存的欲求不満・実存的虚無感」への実存的アプローチによる心理療法に、フランクルのロゴセラピーがあります。ロゴセラピーに関連する記事として以下のサイト記事を紹介しておきますね。
「山竹伸二の心理学サイト」 より引用抜粋
「実存的アプローチと心理療法」
現代においては、関心の喪失と主体性の欠如(実存的空虚)を特徴とする新しい神経症者、人生の意味に疑いを持つ患者が増えており、フランクルはこれを「精神因性ノイローゼ」と名づけている。
つまり、問題は実存的欲求不満、意味への意志が満たされないことにあるのだ。こうした人間に必要なのは緊張のない状態ではなく、意味への挑戦である。
「ロゴセラピーは、人の主な関心事は快楽を探すことでも、苦痛を軽減することでもなく、むしろ人生の意味を見出すことであると主張する。
かくて、我々は、人が自分の苦しみは意味を持っているということを納得させられるなら、その人は苦しみに対する準備ができたことを理解するのである」(フランクル『現代人の病』)。
これは、ユダヤ人収容所に入っていた経験を持つフランクルの言葉であるだけに、強い説得力を感じさせる。収容所では、自分の生に可能性や意味を見出している間は何とか生き長らえているのだが、解放される見込みがなくなると、途端に死んでゆく人たちが後を絶たなかったである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 実存的アプローチと心理療法
「実存的欲求不満・実存的虚無感」への反動的回避として、刹那的快楽主義や楽観的虚無主義が現れ、それに飲まれた場合は悲観的虚無主義が現れ、退行的回避した場合は「幼児的万能感」が現れます。
赤子の時は誰でも「幼児的万能感」を有していますが、通常は成長と共に弱くなっていきます。ですが個人差があり、強く残り続ける人がいます。また大人になって病的退行が起きた場合に再び現れてくる場合もあります。
何故、生命活力は様々な活動あるいは欲として「回避」「獲得」の連鎖へと向かうのでしょうか?それは生物学的な構造上すでにそのように出来ているからなのです。ではここで「心の脳科学」「壊れかけた記憶、持続する自我」という本を続けて紹介します。
「心の脳科学」という本は、脳科学の専門家である坂井克之氏による脳科学の本で、以前の脳科学ブームや能力開発などで安易に用いられる脳科学とは一線を画する実直な脳科学の本です。
心の脳科学 ―「わたし」は脳から生まれる (中公新書)
『 外界から受け取った情報を脳の中でさまざまな形、おそらくはその人の行動目的、報酬に沿った形に変換し、新たな情報を生み出します。このようにして生み出された世界が私たちの心の内面であり、この存在によって私たちは「知的」存在となったのでしょう 』
『 脳の視覚領域には、外界を自己の内部に表象する役割だけではなく、自分の経験や意図に基づいて外界を解釈する役割もあるようです。脳の視覚領域は、鏡というよりアナリストなのです』
『 思考とは、脳の中の情報変換プロセスであり、これは私たちの意思、主体的な実在であると私たちが幻想を抱いている意思の制御よりも先行して、無意識のうちに進んでいます』
『 実際に変換され新たに生み出された情報と、生物としての報酬信号が合致したとき、意識されうる形としての「わたし」が生まれるのかもしれません。知性を制御する存在としての「わたし=自我」とは、脳が作り上げた一種の説明原理のようなものではないでしょうか』
「壊れかけた記憶、持続する自我」という本は、高次脳機能障害になった医師の山田 規畝子さんの本ですが、「脳」「記憶」というものは複雑なものです。追加更新で関連する論文をひとつ紹介。⇒ 記憶障害 高次脳機能障害者の手記の解釈
では記事のラストに、私が虚無の中でもがいていた若い頃(十代後半~二十代中頃)に書いた文の中から「悲しみについて 」を紹介します。
【 悲しみについて 】
悲しみとはなんだろう 「私」のパラドックスの空しさに気づくと 「このうえもない悲しみ」が顔を覗かせてこないだろうか 「私」の空しさ
「私」は何かに依存することで力づけられている 「恋人」に 「両親」に 「仕事」に 「友人」に 「趣味」に 「思い出」に 「将来の夢」に 「自己の所有物」に 「自己の肩書き」に 「師」に 「先生」に 「書物」に 「専門知識」に 「教義」に 「あらゆる組織」に
そしてそれらとの一体化が「私」である 「私」は依存している対象から切り離されると その「不安定」という本質がはっきりしてくる
「私」は依存している対象から力をもらうことで 「安定しているように見えるもの」であり 「実態であるかのように錯覚し続けるもの」である
ここで現れる「悲しみ」は 「私の悲しみ」のことではなく、『 「私」というもののの空しさ 』に気づきが起こったときに生じる「このうえもない悲しみ」
それは 『 「ほんの僅かでもその悲しみとともに在る」ことは出来ないからこそ「何かを求める」 』という「欲求の源」ではないだろうか
それが見え始めると 瞬間的に「事実」を忘れ去るためのあらゆる試みが始まる 「私」はなんでも掴もうとする それを「忘れさせてくれるもの」であれば
「私」はこの「忘れさせるもの」を「幸福」だとか 「充実感」だとか 「楽しいひととき」だとか 「平和」「安全」「やすらぎ」「満足」「生きがい」「夢」「目指すべき目標、到達点」などと呼んで「その場を次々と凌いでいる」だけなのではないだろうか
日常生活、人生はこういったものの追求に終わっていきつつあるのではないか そして「長い人間の歴史におけるあらゆる試み」はここから始まってはいないだろうか
「ユートピア」「天国」「あらゆる快楽 娯楽」「果てしない科学的追求」「己の確固たる生様と美学」 「私」は常にここからそこ そこからここ ここからあそこ あそこからまたここ と 「ここ」に留まれない
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