かつて政治的正しさに基づいて様々な「認知戦」が行われてきました。ひと昔前は主にオールドメディアがメインに使われましたが、トランプはAIやSNSを活用した「認知戦」を使って世論を動かし、今後の世界は後者が主流になるでしょう。
SNSでは、たとえばHuffPostの「ツイートキュレーション」は、メディアのアジェンダ設定理論で言う「価値基準の操作」を秘密裏に実践した事例といえます。
この点を掘り下げているnoteを紹介します ➡ ハフポストに見るTwitterキュレーションの効果
ツイートキュレーションは、目立たせたいツイートを「大量に」「繰り返し」上位表示し、それ以外を相対的に押し下げる。
そして、米国版HuffPostは開設当初からリベラル/民主党寄りの視点を色濃く打ち出しており、ソーシャルメディア運用にもその編集方針が反映される傾向がありました。
ツイートキュレーションを通じ、リベラル系発言を優先表示することで、重要政策・批判的意見を意図的に覆い隠し、読者の政治的“基準点”を進歩的価値へと誘導する点で、「価値基準の操作」と呼べます。
情報の「選択」「強調」「非表示」といったキュレーションは、受け手の認知範囲を限定し意図的に世論を形成しうる点で、「認知戦」の基本手法に通じ、
政府主導のプロパガンダとは異なれど、読者の政治的認知枠組みを意図的に組み替える非常に政治的な仕掛けともいえます。
今回は、「より広義の認知戦」、「語られなさ」の構造(主に男性)をテーマに考察し、後半で「男はなぜ孤独死するのか」の著者である「トーマス・ジョイナー」の視点が見落としているもの を考察しています。
ではまず一曲紹介です。ADHD(注意欠如・多動症)の症状緩和や、集中力・注意力の向上を目的とした「集中用BGM」です。
ADHDではないのですが、感覚的に集中しやすく感じます。私の場合、静的なエクササイズとか読書とか、体をあまり動かさずに集中しているとき、BGMは「ブラウンノイズ」がいい感じですね。 ➡ ブラウンノイズ 10時間 -Brown noise 10hour- for meditation, sleep, study
認知戦と「語られなさ」の構造
「近親性交: 語られざる家族の闇」と言う本が最近出てベストセラー1位になっていますが、
〇「みんな密かにやってるんじゃないかって」女性用風俗でも、不倫でもなく…15年“レス”だった母親が「息子との行為」を始めた“きっかけ”
『近親性交: 語られざる家族の闇』の著者、阿部恭子氏は、2008年に日本で初めて犯罪加害者家族の支援団体「World Open Heart」を設立し、理事長として活動を続けている専門家です。
この支援団体では、24時間の電話相談や転居相談、裁判同行など幅広いサポートを提供し、2008年以降、3,000件以上の加害者家族に直接関わってきた実績があります。
阿部氏がこの支援活動の中で直接聞き取った具体的な近親性交の事例に基づいており、現場のリアルな声や心理が深く掘り下げられています。つまり、単なる概説や理論ではなく、多数の加害者家族との関わりに裏打ちされた豊富なデータと体験に支えられた内容なので、一読の価値ありです。
もう二十年近く前に、故 細木数子さんが悩み相談で「息子との性的関係」の相談を母親から聞くことが多いという話をしていたのを聞いて、驚いたことがあるのですが、そういう形でしか話せないタブーなのだろうと思いましたね。
男性の加害性よりも表に出にくい、とくに「性」に関しては「男≒加害者」というバイアスが強く働くから、世間では殆ど話題にもならずメディアも大々的に取り上げられることは今までなかったわけですが、
ようやくこういった「不可視化されている事実」にも切り込める時代になってきたのでしょう。
男性は自殺をしたら甘え、無責任と言われ、女性が加害をしたらその背景にある男性の責任も問われる、そんな社会状況では男性の被害者、弱者はより「沈黙」を余儀なくされるでしょう。
その意味では、こういった「不可視化されている事実」にスポットを当てて問うことを批判するような人々こそ、「男性当事者を追い込んでいる人たち」ともいえますね。
サンプリングバイアス
たとえば臨床心理学分野における女性従事者の割合が高いことは、研究や支援の現場において、無意識のうちに男性被害者の視点が欠落したり、十分に理解されない可能性を生み出します。
たとえば、女性が直面しやすい問題に焦点を当てた研究テーマが優先されたり、男性が自身の脆弱性を開示することへの抵抗感が考慮されにくいといった事態が起こるわけですね。
サンプリングバイアスによって、男性の被害実態がデータとして収集されにくく、結果として「ほとんど存在しない」かのように扱われることが増え、男性の被害者がさらに「沈黙」を強いられ悪循環に陥る構造があります。
確証バイアスの学術的影響
「女性=被害者、男性=加害者」というジェンダー理論を前提とした研究は、確証バイアスによって、その仮説に合致しない男性被害に関するデータが軽視されたり、無視されたりする傾向があります。
これは、学術研究の根幹である反証可能性の原則を阻害し、客観的な事実に基づいた議論が困難になることを意味します。このようなバイアスがかかった研究結果は、社会全体の男性に対する認識にも影響を与え、男性の被害や弱さが過小評価される一因となります。
そして、「サンプリングバイアス+確証バイアスの学術的影響」によって、DVや性暴力統計における男性被害者の過少報告は、調査方法自体が特定の性別の被害を捉えにくい設計になっていて、
最近は「暗数」の存在があることも徐々に明らかになっているにもかかわらず、その要因分析が不十分のまま放置された状態が長く続いてきました。
男性の労災、過労死、自殺や浮浪者等の問題も、こうやって放置されてきました。明らかに数が多いにもかかわらずです。
「己のバイアスには無頓着で、他者(外集団の属性)のそれには厳しい」、そういう心の専門家も結構いますが、その多くがフェミニズム、ジェンダー等の思想の政治化、ある種の「認知戦」において見られます。
【就活セクハラどう防ぐ?】
被害学生、選考への悪影響懸念 外部窓口設置の動きもhttps://t.co/1zJE6UlE65あいおいニッセイ同和損害保険は就業規則にハラスメントの対象を「社内外」と明記。就活生に対するハラスメントも処罰対象になります。 pic.twitter.com/Pu0P1H9vXq
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) August 11, 2025
これら複合的な力学が生み出す「制度的盲点」は、フェミニズム、ジェンダー思想に関連する「集団極性化」以外にも、「世の中の風潮」というものもあります。
児童相談所・警察・医療現場でも「母親=保護者」というバイアスが根強く、女性の加害を疑わず調査が進まない。DV調査同様に、女性被害者に対して、男性被害者は「加害を偽装している」と疑われやすい構造と相似形といえます。
学校での女性によるイジメ、女教師や女上司による暴力、妻の暴力、こういった「女性の加害性」という事実は「ありふれたもの」で、そこら中で起きているにもかかわらず、社会的に過小評価されやすく、メディアによる指摘、言及や調査が少なくなりがちです。
専門家を含む様々なバイアス、そして「世の中の風潮」、こういった「偏見」と「構造」に「隠された事実」を知り、正確に認識することは重要ですが、社会全体のバイアスはまだ強い。
性別に関わらず、被害を受けている人が適切な支援を受けられるようになるためには、まずその被害の実態が認識される必要があります。女性による加害を認めない限り、そこから生じる被害は見過ごされ続け、真の解決には繋がりません。
自殺率で男性が女性の2倍以上、過労死の9割以上が男性、という数字は客観的事実です。しかし、これらの統計が社会問題として真剣に議論されることは少なく、
「男性の自業自得」として片付けられがちで、男性からすれば、自分たちの死や苦悩が「構造的差別の結果」として認識されず、「個人の失敗」として処理される現実に直面しているにもかかわらず、
男性に特化したメンタルヘルスサポートや支援グループも女性に比べて少ない。こういったことが「当たり前」として継続する中で、男性の苦悩が「語られにくい」現状に拍車をかけています。
皮肉なことに、「インクルージョン」を標榜する現代社会において、「男性の苦悩」は最もインクルードされていない領域でしょう。
サバルタンの可変性と語られなさ
「サバルタン」はグラムシが用いた概念で、支配的言説から排除された人々を指しますが、その定義は時代とともに変化します。
スピヴァクは「サバルタンは語ることができるか?」と問い、知識人が語らせることで、かえって主体性を奪ってしまう危険性を指摘しました。
つまり、誰が「語られるべき存在」で、誰が「語る主体」なのかは、権力構造によって常に再編成されるのです。
「権力」の作用は多元的で一方向ではありません。
フーコーは「権力は網の目のように社会に浸透している」と述べ、中心から周縁へと一方向に流れるものではないと捉えました。権力は国家や法制度だけでなく、言語・知識・文化・ジェンダー・経済など、複数の領域に分散して存在します。
権力は一方的な支配構造(上から下への圧力)ではなく、各人がその作用のなかで「服従」すると同時に「行使」もしている、流動的で動態的な現象とされます。社会の組織や人々の相互作用、日常的な規範や知識のあり方の中で権力は細やかに交錯し続けます。
「被差別属性」は普遍的に固定されず、“その場で強化されるアイデンティティ” によって変わるものであり、これを固定化することは、逆に特定の属性を聖域化し、そこにある差別を不問にすることに繋がります。
こういうことが「反差別」の文脈ではよく起きていますが、それを問えない、問わせないことが「語られれなさ」の構造を強化します。こうして「反差別」が新たな差別や排除の温床となるという逆説が生じてくるわけですね。
支配と周縁の入れ替わり
ある時代に「体制側」とされたものが、別の時代には「抵抗の主体」として再登場することもあります。
たとえば、左翼が批判してきた国家権力が、今ではグローバル資本やテクノロジー企業に対抗する庇護の装置として再評価される場面もあります。
同様に、かつて「語られなかった」マイノリティが、今では語る主体としての言説空間を獲得しつつある一方で、別の属性が新たなサバルタン化を経験している。
これは左翼のいう権力とか体制側という言葉もそうですが、時代によって何がより強く支配的なものかは変化します。権力といっても様々です。同様に何がサバルタン(語られなさ)なのかもそうです。
男性の弱さの感情表現や脆弱な状態は、ただそれだけで社会的に「不適切」「不都合」なものとして扱われて片づけられます。
臨床心理の現場では、性被害やDV、育児不安など女性特有の問題への配慮が進んできた一方で、男性の苦悩は「見えにくい」「語りにくい」ものとして扱われがちです。
その結果、臨床現場でも「支援を求める男性」は少数派となり、支援の枠組み自体が女性中心に設計されている傾向があります。
福祉の現場でも、女性専用外来や女性支援施設の整備が進む一方で、男性向けの庇護空間は極めて少ないのが現状です。
>女性優遇よりも、男性の解放が先
>重要なのは、男性の解放だと思っています。今の日本の男性はやはり、仕事に邁進する以外の選択肢を取りにくい
>一方、女性の方が人生の選択肢は多いですよね。
↓
DeNA創業者・南場智子氏が完全無欠の正論を述べている。こういう正論が無視されているのが残念。 pic.twitter.com/q7Xqm3knfJ— aniotakirara (@aniotakirara) August 6, 2025
トーマス・ジョイナーの理論と「語られなさ」の問題
「男はなぜ孤独死するのか」の著者であるトーマス・ジョイナー、彼の「プリンストン大学→テキサス大学オースティン校で博士号→フロリダ州立大学教授」という経歴は、典型的なアメリカのアカデミックエリートの軌跡です。
ジョイナーが学生~教授になる頃、特に1990年代以降、フェミニズム理論やポストモダン思潮、DEI(多様性・公平性・包摂性)の価値観は、欧米エリート大学で研究・教育内容、資金配分、学術イベント運営などに体系的かつ具体的に浸透してきた、といえるでしょう。
研究資金や学術誌・学会のアジェンダが「ジェンダーバイアス」「構造的不平等」の解明にシフトし、フェミニズムやジェンダー研究が主流となる中で、
そしてポリティカル・コレクトネスの強化とともに「政治的に正しくない」言動を公に糾弾し、解雇や排斥へとつなげるキャンセルカルチャーが顕著化しました。
著名人や企業が過去の発言・行動を理由に社会的制裁を受ける事例が増え、公共圏での発言ルールが特定の価値基準に一元化された形で厳格化し、
政治的に正しくないとみなされた支持者への差別的解雇や「ハラスメント」と見なされる過剰な糾弾が、冤罪的な社会制裁を生み、非難や失職の恐怖で、個人の表現や意見形成を弾圧的に抑制し続けました。
そして「男性」という範疇が均質的に扱われたり、あるいは支配的な「家父長制」の一部としてのみ語られがちになり、男性内部の多様な経験、特に苦悩や脆弱性の多元的構造が十分に探求されなかったり、
「有害な男らしさ」といった概念が強調されることで、男性が抱える困難や苦痛が、自己責任や内面の問題として還元され、社会構造的な問題として十分に認識されないという傾向が高まった。
このように、「人文系」を中心に認知フレームを形成し、欧米において主流のエピステーメー(ある時代を支配する知の枠組みや前提)となり、政治的正しさを形成し、それを大義名分にして一方的な認知戦をしかけてきたのです。
ジョイナーもまた、自身の文化的資本、エピステーメー、アカデミアのフレームで思考し、理論を構築してきたのであって、そこには偏り、バイアスによる見落としが必然的に生じます。
また「世の風潮」として、「強い男でなければならない」「自立し、能動的で、成功を収めるべき」という規範は、アメリカのほうが日本よりも強いといえるでしょう。
カップル文化における男性のリードや、女性を守る力が求められ、戦う力(様々な競争に勝つ力)=能力を求められる。「自己主張の強さ」もその一端です。
何より女性側も「弱い男」を好まず、ある程度以上の男性の能動性や強さ・能力を求める傾向が強い。
つまり社会と女性側の期待、要求に応えようと努力している相互作用の結果でもあるわけですが、そこが問われることは少ない。
現在の社会的言説では、男性は構造的に「加害者側」とみなされがちです。
この背景には、特定の思想が前提とする「男性=特権を持つ側」という枠組みがあります。この枠組みによって、男性の苦悩は被害者ヒエラルキーの下位に押しやられ、「甘え」として否定される土壌が生み出されているのです。
ジョイナーの理論が「政治的に安全な」枠組みに収まり、男性特有の苦悩を十分に扱えていないのは、まさに、アカデミックな言説空間における「語られなさ」の問題です。
また、ジョイナーの理論は、「男性」という属性を単位にして語られていますが、その「男性像」はアメリカの白人中産階級以上の学歴・職業層に偏っている印象が強く、非大卒、ブルーカラー、そして「非欧米圏」の男性たちの文化的・社会的文脈はほとんど考慮されていません。
よって「自殺」というようなセンシティブなテーマを語る際に、「欧米の権威がこう言った」だけで単純化して専門家が語るようなことは浅はか、といえるでしょう。
しかしそういった浅はかさが何故生じるか?も、たとえばフェミニズム等の思考の「前提」が強固なフレームを形成しているゆえにそうなってしまうわけですね。
日本は、20年遅れて欧米のミームを後追いするだけの劣化コピーに過ぎないものを「アップデート」などと呼ぶような国であり、
欧米出羽守をはじめとして、「欧米圏の政治的正しさ」を無批判に直輸入し過ぎなんですね。
そもそもそれぞれの国に文化・歴史があり、欧米の価値基準を最上としてそれに統一しようとすること自体が暴力以外の何物でもないのです。
社会学者の苅谷剛彦の説ですが、日本は西欧先進国に追いつけ近代化の中で「エセ演繹型」という思考の型が知識人や政策決定者に定着したそう。先進西欧諸国にあって日本に無い「欠如している何か」をあるべき何かとして規範的な命題に祭り上げ、そこからの演繹的思考でそれらを理解しようとすると。
— ☕petty_bonitas🍰 (@petty_bonitas) July 26, 2025
対人関係理論の構造と限界
ジョイナーの理論は、「所属感の減弱」、「負担感の知覚」、「自殺潜在能力」の3要素で自殺リスクを説明します。
この枠組みは経験的検証が可能で、臨床応用にも強みがありますが、男性特有の社会的苦悩を「個人の認知の歪み」として処理してしまう危険性があります。
たとえば「負担感」は、男性が社会的役割(供給者・保護者)を果たせないときに感じる羞恥や罪悪感と深く関係しますが、理論内ではそれが構造的に生じる圧力としては扱われていません。
「所属感の減弱」も、男性が感情表現や援助希求を抑圧される文化的背景を踏まえず、単なる「孤立」として記述されがちです。
DEIとアカデミック・エリートの構造
1990年代以降のアメリカの心理学・社会学領域において、フェミニズム理論とDEI(多様性・公平性・包摂性)が学問の主流的価値観として強く影響を及ぼしています。
その流れにおいて、男性の苦悩を構造的に語ることは、反動的・保守的とみなされるリスクがあったため、研究者は「個人の心理的問題」として処理する傾向性を強め、
その結果、男性の自殺率の高さ(日本では女性の約2倍)が、ジェンダー構造の問題としてではなく、個人の「脆弱性」として語られてしまう。
このような言説空間では、男性の苦悩は「語られにくい苦悩」となり、支援の言語も女性中心のものになりがちです。
こうしたアプローチは、社会構造や制度(職場・教育・福祉・地域社会)の不備やジェンダー分業など、個人を超えた要因を相対的に軽視しがちです。
そのため、「男性」の苦悩や自殺・孤独死の背景を“自己責任”論に還元し、「変化すべきは個人の性格や行動」という文脈で語りがちになる点が、現代的なジェンダー批判における問題点となります。
ジョイナーと「自殺した彼の父」は「思考の内容」が異なるだけで、前提としての「思考の型」は同質ともいえるのです。
この「思考の型」に「男性を追い込んでいるもの」が内在しているにもかかわらず、それが「前提」になっているために「見えない」のです。そうやって男性の置かれている構造は継続する。
なので結局彼は「男性」を(構造的には)救おうとしていないのです。「こうあるべき」の枠内でよりポジティブな選択肢を伝えているだけで、結局は自助努力的スタンスの救いであり、精神論2.0なんですね。
思想の強い「心の専門家」
臨床心理学分野における女性従事者の割合が高いことに加え、一部の「心の専門家」がフェミニズムの特定のイデオロギーを強く内面化していることも、男性の被害者や弱者をさらに「沈黙」させている要因のひとつと考えられます。
心底弱っているような状態のとき、わざわざ金払って時間を使ってまで、フェミニズムのフレームで「男性」を見る専門家、ミサンドリーを漂わせたカウンセラーに話を聞いてもらおうとは思わないでしょう。
フェミニズムを強固に内面化した心の専門家は、SNS等においても男性の加害性にばかりスポットを当て、女性の加害性や、それによって現実に引き起こされた問題を見ようとすらせず、
不都合なことは「なかったことにする」 で一貫し、それを指摘しても回避するだけの姿勢が続く限り、「信頼する気にはなれない」と思う人たち(主に男性)が増えてくるのは自然でしょう。
ときに「理念」「思想」も大事ですが、外部からの批判を無視し、内部における自浄作用もなく、ただ突き進むだけでは「ミイラ取りがミイラになる」になってしまい、
「かつてそうされたことを今は自分がそうしている」の同じ穴の狢になるだけなんですね。
こういった専門家のバイアスや世の風潮からこぼれ落ち、誰にも相談できずに深く悩んでいる他者を属性に関係なく個人として対応できる専門家がもっと増えればいいと思います。